肥後 敬神党(神風連)
幕末の熊本には三党派ありました。
学校党(佐幕攘夷)
勤王党(尊王攘夷)
薩摩・長州によって成立した明治維新政府は
五カ条の誓文により公議世論の尊重と開国和親の方針を明らかにしました。
したがって、熊本の「実学党」の主張は政府に近く「学校党」、「勤王党」の攘夷論は政府と対立する立場にありました。
勤王党は林桜園(はやしおうえん)の私塾
『原道館(げんどうかん)』
の門弟を中心とした党派でしたが、明治5年ごろ神力による攘夷を主張しまし、
「敬神党」
が分立しました。
敬神党の特色は、神の意によって世の中は動く、人も神の意のままに行動すべきであるという信条・信念をもった人々でありました。
敬神党の人たちは明治政府の宗教政策に不満を持っていました。
神社の格付けや御神体調べに反対しました。
明治6年の政変以後、不平士族の反乱が実行されました。
明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司の
太田黒伴雄を首領とする敬神党(神風連)の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃しました。
国を憂いた敬神党(神風連)の志士たち彼らは
「神事は本なり、人事は末なり」
といって、神道をふみ行うことを信条としていました。
この世に起こる事は、すべての神の作用によるものであり、誠心をつくして祈り、心力を時事につくせば、神様は必ず感応してくださる。
生死は人界にしかなく、神界にはない。
道を治めるものは昇天を尊ぶということを
『昇天秘話』
に書いています。
この思想が宮部鼎蔵や太田黒伴雄をはじめとする敬神党(神風連)の志士たちの精神的な支柱となりました。
神風連の志士たちには日本古来の神道に基づいた政治が行われるという期待がありました。
ところが、時の政府は欧化政策を進め、法律も制度も外国をまねて次々に変わっていきました。
攘夷を口にしていた政府の高官は外国に迎合し、尊皇攘夷論者を押さえるために各地に鎮台を設置しました。
忠義も孝行もすたれてゆく風潮を、神風連の人々は憂慮したのです。
新風連の変は、宇気比(うけい)の戦いといわれています。
宇気比とは神慮を伺う秘法で、『古事記』にも天の岩戸の前章に宇気比の神話があるほどです。
宇気比には三つの作法があります。
一、
審神者(神主・祈祷師)を以て神命を問うこと
二、
〆事(みそぎ・祓い)を以て神の心を問う
三、
夢見て神の訓を請う(願をかける、ひたすら祈ること)。
明治七年に新開大神宮(現熊本市内田町)で一度宇気比が行われましたが、直接行動は許されませんでした。
明治八年も同じ。。。
しかし、明治九年になって廃刀令が出され、断髪令も出されました。
この後、行われた宇気比で、初めて念願の宇気比の許しが出ました。
それを受けて、明治九年十月二三日の深更、
敬神党(神風連)太田黒伴雄を首領とする一七〇人の志士たちが決起したのです。
彼らは古来の刀槍の武器をもって、近代火砲を装備した熊本鎮台に攻め込んでいきました。
彼らは、勝敗を論じる戦略はなく、国体護持のために、むしろいかに死んでいくかを考えていたようです。。。
信仰に殉じ、主義に殉じ、日本の危機に殉じていた敬神党(神風連)の人々。。。。。。
我が故郷、肥後熊本が誇るご先祖さまを紹介しました。