高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

杉本 五郎 中佐

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杉本中佐は昭和12(1937)年9月に支那事変の戦闘で戦死している。弁慶ではないが、立ったまま往生を遂げている。敵の手榴弾を浴びて倒れた杉本中佐は、軍刀を杖にして、立ち上がり、号令をかけ、倒れることもなく遙か皇居の方向に正対、挙手敬礼をして絶命したという。

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Wikipediaより杉本五郎中佐を引用する

 

杉本 五郎(すぎもと ごろう)

明治33年(1900年)5月25日 ~昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。

遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。

 

広島県安佐郡三篠町(現在の広島市西区打越町)生まれ。少年期から将校に憧れ、大正2年(1913年)、質実剛健を伝統とする広島藩の元藩校である旧制修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)入学。大正7年(1918年)修道中学校を卒業し陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。しかし同年起こった米騒動は、日本帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉本の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。小作争議が激化し日本資本主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉本は、危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。

しかし軍隊に入った杉本には窓は一方にしか開かれておらず、皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養とに全精神を傾倒していく。

 

大正8年(1919年)陸軍士官学校(33期)本科入校。大正10年(1921年)同校卒業。歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、人生論に持ち込み、独自の思想を形成していく。

 

昭和6年(1931年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、中国天津方面で軍事行動ののち帰還。この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが

「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」

と拒否

「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」

と願った。

実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。結果は不合格であった。息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、限られた給料の中から送金を欠かさなかった。昭和11年(1936年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、共産主義に対すると同様に不忠の汚名をかぶせ非難した。翌昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)が勃発。同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。同年9月、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘に於て戦死。

岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。

38歳の生涯であった

(大義 )

死の寸前まで四人の息子への遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、と20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938年)5月に刊行された。

これが青年将校士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ね29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。

本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。

本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思いがあまりにも純粋で、当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍規の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれる。

あまりに純粋な言行を煙たがれ激戦地に送られた、という噂が戦後出た。

本書にも登場する仏通寺の山崎益州管長は「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった」と述べている。

 

大山澄太の『杉本中佐の尊皇と禅』

山岡荘八軍神杉本中佐』

城山三郎『大義の末』

奥野健男軍神杉本五郎の誕生』

中桶武夫『軍神杉本五郎中佐』などの関係本がある。

その他広島で被爆死した映画監督・白井戦太郎が1938年、大都映画で 『噫軍神杉本中佐 死の中隊』という映画を製作している。

 

仏通寺の境内に杉本を記念する小さな碑と、渓流を隔てた岩壁に杉本の大書した「尊皇」の二文字が残る。

 

杉本五郎中佐の生き方、国体論、大義を調べると人としての歩む道がみえてくるかもしれない。

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軍神 杉本 五郎中佐 「緒 言」

緒 言


吾児孫の以て依るべき大道を直指す。

名利何んするものぞ、地位何物ぞ、断じて名聞利慾の奴となる勿れ。


士道、義より大なるはなく、義は 君臣を以て最大となす。

出処進退総べて 大義を本とせよ。

 

大義を以て胸間に掛在せずんば、児孫と称することを許さず。

一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に 大義を究明する底は、吾と相見報恩底の児孫なり。


孝たらんとせば、大義に透徹せよ。
大義に透徹せんと要せは、すべからく先ず深く禅教に入つて我執を去れ。

もし根器堪えずんば、他の宗乗に依れ。

戒むらくは宗域に止まつて奴となる勿れ。

唯々我執を去るを専要とす。


次に願わくは、必死以て 大義擁護の後嗣を造れ。

而してそは汝子孫に求むるを最良とし、縁なきも大乗根器の大士ならば次策とす。

一箇忠烈に死して、後世をして憤起せしむるは止むを得ざるの下策と知れ。

よろしく大乗的忠の権化、楠子を範とせよ。
歳々大義の滅し去ること、掌を指すよりも明白なり。

汝ら 大義の章々を熟読体得し、協力一致、大義護持以て 皇國を富岳の安きに置き、
聖慮を安んじ奉れ。  至嘱々々

                 父  五 郎
   正 殿  外
        兄弟一統

蛍の光

蛍の光

1.蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も すぎの戸を
  開けてぞ今朝は 別れゆく

2.とまるも行くも 限りとて
  かたみに思う 千萬(ちよろず)の
  心のはしを ひとことに 
  幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり


3.筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 
  海山遠く へだつとも
  その真心は へだてなく
  ひとえにつくせ 国のため

4.千島のおくも 沖縄も
  八洲の内の、守りなり
  至らん国に、勲(いさお)しく、
  努めよ我が背、恙無く(つつがなく)

 

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一般的に知られているのは1番と2番ですが
実は、3番と4番もあります。


3番
筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔てなく、ひとつに尽くせ、国のため。

(意味)

筑紫の果て、陸奥の果てまで祖国防衛のために赴く夫。妻は、海や山も遠くに隔てるが真心は隔てることなく

「どうぞお国のために尽くして下さい」

と言う情景

4番
千島の奥も、沖縄も、八州(やしま)の内の、守りなり、いたらん国に、勲しく、努めよ我が背、つつがなく。

(意味)

妻が歌います。

「千島も沖縄も八州(日本)の内の守りであり、どうぞこれから向かうところで功を立て、ご無事で任務を全うして下さい」

―――

蛍の光」は、現在、卒業の別れの歌、閉店の歌などのようにインプリンティングされてしまっている感もありますが実は、国防の歌なのです。

明治14年、我が国の北と南の守りの国境が画定してから作られたのが唱歌「蛍の光」です。


祖国防衛の任務のため、国境に赴く夫を妻が送る別れの歌なのです。

千島と沖縄は、明治になってから、日本帝国の領土となりました。

 

その領土の防衛の歌なのです。

 

高村光太郎「12月8日」、記憶せよ!

記憶せよ、12月8日。


この日世界の歴史改まる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。


否定するものは彼らのジャパン、眇(びょう)たる東海の国にしてまた神の国たる日本なり。

 

そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。


世界の富を壟断(ろうだん)するもの、強豪米英一族の力、我らの国に於いて否定さる。


我らの否定は義による。

 

東亜を東亜にかへせといふのみ。

 

彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。


われらまさにその爪牙(そうが)を砕かんとす。


われら自ら力を養ひてひとたび起つ。


老若男女みな兵なり。

 

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 

世界の歴史を両断する。

 

12月8日を記憶せよ。

いろは歌

いろは歌(いろはにほへと…)

「いろはにほへと」というのはご存知でしょう。

全部書くと

「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」

です。

これは、「いろは歌」と呼ばれる、47文字のひらがなを全部1回ずつ使った歌に出てくる文字の順番です。

そのいろは歌について解説してみましょう。


原文

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
読み方(現代仮名遣いで)

いろはにおえど ちりぬるを
わがよたれそ つねならん
ういのおくやま きょうこえて
あさきゆめみじ えいもせず


意味

花は咲いても散ってしまう。
そんな世の中にずっと同じ姿で存在し続けるものなんてありえない。
「人生」という険しい山道を今日もまた1つ越えて
はかない夢は見たくないものだ、酔いもせずに。


解説

○色は匂へど 散りぬるを
昔の人は花が咲くことを「色が匂ふ」と表現していました。だから、この文章は「花が咲いても散ってしまうのに」という意味です。

 

○我が世誰そ 常ならむ
「我が世」は「私の住む世界」ですから、「この世の中に」という意味。「誰そ」は「何が~だろうか」という、疑問を表現する言葉。「常」はここでは「永遠に同じ姿のまま」という意味ですから、「誰そ常ならむ」は直訳すると「誰が永遠に同じ姿のままなのですか」という意味です。でも現代でも、「1億円もする宝石なんて誰が買うんだ?」というと、誰が買うのか知りたいのではなく、「1億円もする宝石なんて買う人はいないだろう」という、強い否定と同じ意味を表わしますよね。それと同じで、「誰そ常ならむ」は、「永遠に同じ姿で居続けるものなんていないよ」と言っているのです。

 

○有為の奥山 今日越えて
「有為」自体は「形あるものと形のないもの」、つまり「愛や憎しみといった形のないものまで含めてこの世に存在するすべてのもの」という意味ですが、「有為の奥山」というと、そんないろいろなものが渦巻く人生を比喩する言葉になります。「そんな険しい人生を、今日もまた1つ越えて」ぐらいの意味です。

 

○浅き夢見じ 酔ひもせず
「浅き夢」は、眠りの浅い時に見る夢のことですが、そのぐらいあっという間に消えてしまう願望のことも指すようです。「浅き夢見じ」の「じ」は「~したくない」という意味なので、文章全体では酔ってもいないのに、そんなはかない夢は見たくないということです。

二宮尊徳

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昔あって、いま無くなってしまったもののひとつに、小学校の正門あたりの二宮金次郎銅像があります。

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重そうな薪(まき)を背負って読書に励むその姿は、戦前は勤勉の象徴であり、二宮金次郎は、小中学生のもっとも尊敬する歴史上の人物で、つねに1位、2位を占めている人でした。

ところが戦後左翼の反日家たちは、こういうところにもくだらない陰謀をめぐらし、二宮金次郎軍国主義の象徴である。子供たちに勤勉を強いるものである、などと称して、いまどきは小学校の正門前に、二宮金次郎の像を置いている学校のほうが、むしろめずらしいという状況になっています。
実際に二宮金次郎軍国主義の象徴であったかというと、そういう意図で校門わきに銅像が設置された例は、実は皆無です。

そもそも、二宮金次郎銅像が小学校に設置されるようになったのは、彼が貧しい農家の出でありながら、一生懸命家の仕事を手伝いながら勉強に励み、長じては世のため人のために尽くしたというその生涯の姿にあります。

だからこそ戦後日本を統治したGHQでさえも、「二宮尊徳翁は、日本のエブラハム・リンカーンである。自由と民主主義を日本で初めて実践した人物である」(GHQ、インボーデン少佐)と称して、二宮金次郎銅像の小学校設置をまるごと認めています。

GHQは、戦前の日本で、全国の駅前や公園に置かれていた旧帝国軍人の銅像のほぼすべてを撤去しています。

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◆働きつつ学ぶ

「柴刈り 繩ない ワラジをつくり 親の手を助け 弟を世話し・・・」
これは二宮金次郎(のちの尊徳)のことを唄った小学唱歌の一節です。

幕末の頃にいまの神奈川県の小田原近くの農家に生まれた人物で、戦前には日本中の小学校の校庭に、柴を背負って歩きながら読書をしている姿の銅像がありました。

金次郎が生まれた天明年間は飢饉や打ちこわしなどで人々が苦しんでいた時代でした。
幼少の頃、河川の大洪水で田畑は水没し、父も病に倒れたため、11歳で家を継ぎました。

それからは村人とともに堤防工事に協力したり「大学」などの書物を声に出して読みながら、8キロの山道を薪(たきぎ)を背負って歩いたと言います。

やがて母が亡くなると、兄弟三人は一家離散となり、金次郎は16歳のとき、伯父(おじ)に養われることとなりました。

生粋の百姓である伯父は、夜中に読書をするのを、油がもったいないといって禁止したので、行燈(あんどん)に寝巻を巻いて、隠れて勉強したと言います。

金次郎は、立派な百姓になるためには学問が必要」と考え、なにごとにも工夫をこらしました。
自ら菜種油を手に入れ、一年で八升の油をつくり、田植で残った稲穂を拾って、年に何俵も米を生産しました。

二宮尊徳の思想があります。

「積小為大(せきしょういだい=小さいことでも積み重ねると大を為す)」

金次郎は、単なる農業者だけでなく、いまでいうところの実業家(経営者)でもありました。

◆藩の再建に貢献

わが家を再建し、二宮家本家の復興や村の名主、岡部家の財政再建、藩の家老服部家の再建に成功しています。
これによって藩内で名前を知られるようになった金次郎は、小田原藩大久保家の分家である旗本の領地など、下野の国(現在の栃木県の一部)でも農村の経営指導に活躍しました。

今日、二宮尊徳といえば、単に「勤倹貯蓄(よく働きよく節約してお金を貯めること)」

の人材とだけみられていますが江戸時代の社会で稀にみる近代的財政家の先駆者だったのであります。

尊徳の教えは、明治以降も引き継がれ「報徳社」という結社が全国に組織されました。
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そもそも、二宮尊徳は、明治33年に学校教科書で採用されて以来、昭和20年までずっと、教科書でその人物が紹介され、戦前は、小中学生の「尊敬する人」で、常に1位、2位を占めていた人です。

そして修身教科書のなかで、「酒好きな父のために、草鞋を作って酒代を稼ぎ、父が亡くなってからは、朝早くから山で芝刈りをしたり、薪(まき)とって、それを売り、夜には下足のはなわをなったり、わらじを作ったりしてよく働いた」といったエピソードが紹介され、そのときの像が、全国どこの小学校に行っても、正門付近に、設置されていたのです。

考えてみると、二宮尊徳の生涯に代表される勤勉、孝行、我慢・倹約・公益の概念は、万国共通の素晴らしい考えと行動です。

戦後左翼は、この二宮尊徳を子供たちへの教育から除外しました。

戦後左翼が、否定しつくし二宮尊徳を、戦後左翼が信奉し、尊敬している支那中共政府が、二宮尊徳を教科書に載せて、子供たちに教えているのです。


馬鹿な話です。

 

ところで、二宮尊徳といえば、少年時代の薪を背負ったかわいらしくて健気な姿ばかりが印象強いですが、大人になった尊徳は、なんと身長6尺(180センチ)を超える大男で、しかもどんぐりまなこで、眉も太けりゃ髭も濃い。

明治初期の頃の日本人の平均身長が、155センチ程度であったことを考えると、さしずめ現代人の感覚で言ったら、身長2メートルを超す大男、となります。

腕力もあり、腕もたち、しかも勤勉で頭がよくて、実行力もある、二宮尊徳は、そういう人物でもあったわけです。

つまり、薪を背負って読書をしていた紅顔の美少年は、強くて凛々しくて男らしい偉丈夫に成長し、公のために尽くす生涯を歩んだのです。

毎朝、早起きして、片道8キロの道のりを歩いて師匠のもとに通い、一生懸命勉強して、親孝行し、長じてはみんなから尊敬を集める人物となりました。

そういう人物を、教えない。だから誰も知らない。それどころか軍国主義の産物とか、まるっきり見当違いなレッテルを貼って貶め、その存在を抹消しようとする。

日本人は、そんな戦後を、抜本的に考え直さなければならないときにきているように思います。

中朝事実

中朝事実

恒に蒼海の無窮を観る者は其の大を知らず、常に原野の無畦に居る者は其の廣きを識らず。

是れ久しうして馴るればなり。豈に唯海野のみならんや。 愚

中華文明の土に生まれて、未だ其の美を知らず

専ら外朝の経典を嗜み、嘐嘐として其の人物を慕ふ。

何ぞ其れ喪志なるや。抑も奇を好むか。将た異を尚ぶか。夫れ
中国の水土は萬邦に卓爾し、人物は八紘に精秀なり。故に神明の洋洋たる、聖治の綿綿たる。

煥たる文物、赫たる武徳、以て天壌に比すべし。

今歳冬十有一月
皇統の実事を編し、児童をして誦せしめ、其の本を忘れざらしむと云爾。
龍集巳酉  山鹿高興謹誌

……………

以上は山鹿素行の書である。


山鹿素行の命題は

「日本こそが中華」  である。

現代からすれば、奇異に感じる表現であるが、江戸初期の朱子学で統制された武士教育では、林羅山のように中国を極端に美化礼賛し、現実離れした中国贔屓、日本卑下に走る傾向があった。

これに対し疑念を呈し、日本の古典の記紀を検証し、一方実際の中国の有様と比較し、決して日本の文化、文明が中国に遅れをとっていない事、そして皇統などの面に着目すれば、日本の国体の方が優れていると指摘しているのである。

この事を象徴的に”日本こそが中華”という表現にしているわけである。

簡単に言えば

「もっと日本の伝統と歴史、個性に自信を持て」

という事になる。

戦前には山鹿素行-吉田松陰-乃木希典という文脈で語られる事が多かったと考えられ、皇国史観の基礎文献として広められていたのだろうと思う。