読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。😆ご了承下さいませ。

「ならぬものはならぬ」会津藩白虎隊

慶応四年(1868年)、旧幕府軍佐幕派会津藩新選組、他)と、官軍(勤皇派=長州藩薩摩藩、他)の戦いの火蓋が切って落とされた。“戊辰戦争”の始まったのである。鳥羽・伏見での戦いは、旧幕府軍の敗戦で終わった。この勝利を見逃さまいと官軍は兵を北へと進めて行った。旧幕府軍も負けじと抗戦、日本各地で激戦が広げられた。

 f:id:Japan-shinto-makoto:20170504164310j:image

f:id:Japan-shinto-makoto:20170504164317j:image

 

 

官軍は、いよいよ奥州(東北地方)へと歩を進めた。

奥州の玄関口・白河の関を越えついに官軍は会津へ足を踏み入れた。
会津藩は徳川家と深い縁を持つ。当然の如く、旧幕府軍として戊辰戦争に加わることになった。鳥羽・伏見での敗戦を受けて、会津藩は総力をあげて臨戦状態を整えていた。

兵制の大改革も行い年齢別の正規軍四隊(約3000人)を作った。

 

白虎隊=16歳~17歳  
朱雀隊=18歳~35歳  
青龍隊=36歳~49歳  
玄武隊=50歳以上

 

上記の隊士はもちろん男子であるが、この他にも多くの部隊が作りその中には女性だけで結成された娘子(じょうし)隊もあった。

 

会津戦争では、武士も市民も老若男女問わず、会津に生きるすべての人々が戦いに身を投じた。

 

四隊の中で最も若い白虎隊は、総勢343名であった。

その中から身分順に

士中 一番隊 、士中 二番隊

寄合 一番隊 、寄合 二番隊

そして足軽隊の5つに分けた。

この中の士中二番隊42名のうちの20名が現在に語り継がれることになる。


戦いは昼夜を問わず続いた。そんな戦地で白虎隊士中二番隊30数名は、息を殺すようにひっそりと隠れていた。夜になり、隊を率いていた隊長・日向内記が食料調達のため、少年達の側を離れることになった。

 

それが少年達の運命を大きく変える事になった。

その夜は雨だった。その雨のためか、すぐ戻ると言った隊長は戻らず、不安にかられる少年達の前には不運にも敵が現れた。

隊長を欠いていた状況で少年達は自らの決断を下さねばならない。


少年達は迷わず勇よく一直線に敵へ向かっていくが、敵の近代的な兵器の前には成す術なく、その幼い命を散らしていったのである。

 f:id:Japan-shinto-makoto:20170504164414j:image

やがて気がつくと、隊士は20名ほどに減っていた。

 

20名の少年達は、命からがら難を逃れ、飯盛山に辿り着く。。。。。

 f:id:Japan-shinto-makoto:20170504164438j:image

そこから会津の町を見下ろし

少年達の目に飛び込んできたのは

 

会津鶴ヶ城炎上の地獄絵図だった。。。

 

「おお城が燃えている。。。」

 

会津の勝利を信じ、戦い、負ける事を疑わなかった少年達は、崩れるように地に膝をつき、頭を垂れ、絶望に打ちひしがれた。

 

その真っ直ぐで純粋な瞳からは、涙が止めどなく流れた。

 

城が落ちた今、殿様も生きてないだろう。。

 f:id:Japan-shinto-makoto:20170504164414j:image

 

会津藩士として、少年達も藩主と運命を共にすることを誓い、剣を自らに向けた。

 

ある者は腹を切り、ある者は喉を突き、そしてある者たちは互いに刺し違えて、自らの命を絶ったのである。

 

彼らが儚い命を散らせる中、鶴ヶ城では激しい戦いが続いていた。

まだ城は落ちていなかったのである。

少年達が見た炎は、城下町に放たれたものであった。それを少年達は城が落ちたのだと勘違い
してしまったのである。

 

あの時、隊長とはぐれたのが運命の分かれ目
だったのだ。

正確な情報を得られなかったのが不運だっただけなのである。

 

自刃、それは子ども故の純粋すぎる決断だった。。。

 

会津には、会津藩校日新館という学校があり、会津藩士の精神がそこで鍛えられてきた。

 

10歳~12歳で入学し、読み書きに併せて武士道教育も行われた。白虎隊の少年達もその日新館で学んだのである。

 

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

人を愛して我が身を愛さず、あるいは君を諌め、あるいは国家の大事をはかり、たとえ、その事なしおおせがたく、たちまち危険身に迫るとも、死をかえりみず、身を殺して、仁をなさん事を思うべし。

生をむさぼり来りて、なすべき義に当たっても、身を愛し、家を願いて、その事なさざるは、不忠不幸のいたりなり。
🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹                   

少年達は日常からこの言葉を唱和しながら育っていったのである。

 

「我が身を犠牲にしても、人のために尽くせ」


そんな博愛の心を持ち続け、その通りに散っていったのだ。

 

今、白虎隊士20名は、終焉の地となった飯盛山に静かに眠っています。


白虎隊が後世へと語り継がれたのは、隊士20名のうち、たった一人だけ自刃後に蘇生した隊士がいたからでした。その隊士によって、白虎隊の悲劇は語り継がれました。

 

会津藩には、【ならぬことはならぬ】という教えがあったそうです。


その教えは今もなお会津の地に福島の地に、深く深く息づいているという事です。


「ならぬことはならぬ」

自分が信じた道に命をもかける会津藩の精神と白虎隊の話しでした。

 f:id:Japan-shinto-makoto:20170504164606j:image

―おわり―