高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

二宮尊徳

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昔あって、いま無くなってしまったもののひとつに、小学校の正門あたりの二宮金次郎銅像があります。

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重そうな薪(まき)を背負って読書に励むその姿は、戦前は勤勉の象徴であり、二宮金次郎は、小中学生のもっとも尊敬する歴史上の人物で、つねに1位、2位を占めている人でした。

ところが戦後左翼の反日家たちは、こういうところにもくだらない陰謀をめぐらし、二宮金次郎軍国主義の象徴である。子供たちに勤勉を強いるものである、などと称して、いまどきは小学校の正門前に、二宮金次郎の像を置いている学校のほうが、むしろめずらしいという状況になっています。
実際に二宮金次郎軍国主義の象徴であったかというと、そういう意図で校門わきに銅像が設置された例は、実は皆無です。

そもそも、二宮金次郎銅像が小学校に設置されるようになったのは、彼が貧しい農家の出でありながら、一生懸命家の仕事を手伝いながら勉強に励み、長じては世のため人のために尽くしたというその生涯の姿にあります。

だからこそ戦後日本を統治したGHQでさえも、「二宮尊徳翁は、日本のエブラハム・リンカーンである。自由と民主主義を日本で初めて実践した人物である」(GHQ、インボーデン少佐)と称して、二宮金次郎銅像の小学校設置をまるごと認めています。

GHQは、戦前の日本で、全国の駅前や公園に置かれていた旧帝国軍人の銅像のほぼすべてを撤去しています。

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◆働きつつ学ぶ

「柴刈り 繩ない ワラジをつくり 親の手を助け 弟を世話し・・・」
これは二宮金次郎(のちの尊徳)のことを唄った小学唱歌の一節です。

幕末の頃にいまの神奈川県の小田原近くの農家に生まれた人物で、戦前には日本中の小学校の校庭に、柴を背負って歩きながら読書をしている姿の銅像がありました。

金次郎が生まれた天明年間は飢饉や打ちこわしなどで人々が苦しんでいた時代でした。
幼少の頃、河川の大洪水で田畑は水没し、父も病に倒れたため、11歳で家を継ぎました。

それからは村人とともに堤防工事に協力したり「大学」などの書物を声に出して読みながら、8キロの山道を薪(たきぎ)を背負って歩いたと言います。

やがて母が亡くなると、兄弟三人は一家離散となり、金次郎は16歳のとき、伯父(おじ)に養われることとなりました。

生粋の百姓である伯父は、夜中に読書をするのを、油がもったいないといって禁止したので、行燈(あんどん)に寝巻を巻いて、隠れて勉強したと言います。

金次郎は、立派な百姓になるためには学問が必要」と考え、なにごとにも工夫をこらしました。
自ら菜種油を手に入れ、一年で八升の油をつくり、田植で残った稲穂を拾って、年に何俵も米を生産しました。

二宮尊徳の思想があります。

「積小為大(せきしょういだい=小さいことでも積み重ねると大を為す)」

金次郎は、単なる農業者だけでなく、いまでいうところの実業家(経営者)でもありました。

◆藩の再建に貢献

わが家を再建し、二宮家本家の復興や村の名主、岡部家の財政再建、藩の家老服部家の再建に成功しています。
これによって藩内で名前を知られるようになった金次郎は、小田原藩大久保家の分家である旗本の領地など、下野の国(現在の栃木県の一部)でも農村の経営指導に活躍しました。

今日、二宮尊徳といえば、単に「勤倹貯蓄(よく働きよく節約してお金を貯めること)」

の人材とだけみられていますが江戸時代の社会で稀にみる近代的財政家の先駆者だったのであります。

尊徳の教えは、明治以降も引き継がれ「報徳社」という結社が全国に組織されました。
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そもそも、二宮尊徳は、明治33年に学校教科書で採用されて以来、昭和20年までずっと、教科書でその人物が紹介され、戦前は、小中学生の「尊敬する人」で、常に1位、2位を占めていた人です。

そして修身教科書のなかで、「酒好きな父のために、草鞋を作って酒代を稼ぎ、父が亡くなってからは、朝早くから山で芝刈りをしたり、薪(まき)とって、それを売り、夜には下足のはなわをなったり、わらじを作ったりしてよく働いた」といったエピソードが紹介され、そのときの像が、全国どこの小学校に行っても、正門付近に、設置されていたのです。

考えてみると、二宮尊徳の生涯に代表される勤勉、孝行、我慢・倹約・公益の概念は、万国共通の素晴らしい考えと行動です。

戦後左翼は、この二宮尊徳を子供たちへの教育から除外しました。

戦後左翼が、否定しつくし二宮尊徳を、戦後左翼が信奉し、尊敬している支那中共政府が、二宮尊徳を教科書に載せて、子供たちに教えているのです。


馬鹿な話です。

 

ところで、二宮尊徳といえば、少年時代の薪を背負ったかわいらしくて健気な姿ばかりが印象強いですが、大人になった尊徳は、なんと身長6尺(180センチ)を超える大男で、しかもどんぐりまなこで、眉も太けりゃ髭も濃い。

明治初期の頃の日本人の平均身長が、155センチ程度であったことを考えると、さしずめ現代人の感覚で言ったら、身長2メートルを超す大男、となります。

腕力もあり、腕もたち、しかも勤勉で頭がよくて、実行力もある、二宮尊徳は、そういう人物でもあったわけです。

つまり、薪を背負って読書をしていた紅顔の美少年は、強くて凛々しくて男らしい偉丈夫に成長し、公のために尽くす生涯を歩んだのです。

毎朝、早起きして、片道8キロの道のりを歩いて師匠のもとに通い、一生懸命勉強して、親孝行し、長じてはみんなから尊敬を集める人物となりました。

そういう人物を、教えない。だから誰も知らない。それどころか軍国主義の産物とか、まるっきり見当違いなレッテルを貼って貶め、その存在を抹消しようとする。

日本人は、そんな戦後を、抜本的に考え直さなければならないときにきているように思います。