高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

日本行進曲の父「瀬戸口藤吉」

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瀬戸口藤吉(せとぐちとうきち)は日本の音楽家の一人で海軍軍楽師です。

 

生没 : 1868年6月29日(慶応4年5月10日)~ 1941年(昭和16年11月8日)

 

出生地は鹿児島県鹿児島郡小川町(現・鹿児島市)と肝属郡垂水村(現・垂水市)の二説があります。

 

軍艦行進曲などの作曲家として知られ、「日本行進曲の父」と讃えられています。

 

藤吉は琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれ13歳の時に東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となり大山藤吉と名を改め、横浜に移りました。

 

1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用され1895年に海軍軍楽師に任ぜられました。

 

1896年に横須賀で旅館の次女と結婚しました。

 

1897年ごろに「軍艦」を作曲し、この頃から実家の瀬戸口家から戻るよう催促され、ひと悶着の末に1900年に瀬戸口家に戻り、1904年に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進しました。

軍楽隊長昇進後は同郷の先輩でもあった伊集院五郎の意見によって「海軍軍楽隊への弦楽の導入」「東京への軍楽隊の分遣隊設置」「海軍軍歌の整備編纂」の3点に尽力しました。

 

1917年に海軍軍楽特務少尉を定年退官し1918年5月10日に後備役となりました。

 

その後は東京帝国大学やアマチュア・オーケストラで指導するなど、事実上楽壇の表舞台からは退きましたが、1937年に愛国行進曲の作曲公募第1位となり再び脚光を浴びることとなりました。

 

瀬戸口藤吉はこの頃よりリウマチを患い歩行が著しく困難となりました。

 

1940年の軍艦行進曲40周年演奏会に参加の他、海軍軍楽隊出身者で組織された海洋吹奏楽団の副団長なども務めました。

 

1941年には新しく創刊される雑誌「吹奏楽」に一文を寄せる予定でしたがその直前の11月8日に亡くなりました。

 

弟子はいませんでしたが、海軍退職後の教え子に菅原明朗がいました。

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鹿児島の垂水市では彼の業績を讃えるために、毎年瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクールが催されている他、海上自衛隊が瀬戸口藤吉生誕記念して艦艇広報や演奏会を開いています。

 

「瀬戸口藤吉の主な作品 」

 

軍艦行進曲、敷島艦行進曲、艦船勤務、日本海海戦日本海夜戦、国旗軍艦旗黄海海戦、閉塞隊、第六潜水艇の遭難、威海衛襲撃、楠公父子、告別行進曲(原曲・蛍の光)、東京頌歌、東京行進曲、ラヂオ行進曲、野球行進曲、くろがねの力、体育大行進、軍艦旗の歌、愛国行進曲、婦人愛国の歌、乃木大将、若宮殿下行進曲、護れ太平洋、勇敢なる日本兵、水車、春の踊り(詩・竹久夢二)、野行き山行き、虫のダンス、谷間の小川、学習院五十周年記念歌、東都の流れ、沖の白帆、越後獅子