高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

藤田東湖の「正気の歌」

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藤田東湖の作で「正気(せいき)の歌」という漢詩があります。「正気の歌」は、もとは南宋文天祥という忠臣がうたったもので、忠臣の鏡とされた人物であり、日本でも維新の志士がその歌を愛誦したといいます。藤田東湖は、これに寄せて、自作の「正気の歌」を作りました。

 

そして、この歌は、幕末の志士を鼓舞したのみならず、明治、大正、昭和初期と愛国的な人々に愛誦されました。


藤田東湖は、水戸学の学者であり、同時に経世の政治家でした。幕末の文化三年(1806)に水戸に生れました。父は水戸学の指導的な学者、藤田幽谷で、彰考館の総裁として天下に有名な人物でした。


東湖もその血を受けて少年時代から頭角を現し、すでに二十四歳の時父の幽谷に代わって彰考館の総裁代理をつとめました。水戸の藩主は史上に名高い水戸斉昭ですが、この英明な主君を擁立して藩主の地位を相続せしめるために必死の運動をしてこれを実現したのが藤田東湖たちでした。


ときは、ちょうど史上有名な老中水野忠邦の「天保の改革」の時期であり、それが挫折したときに、藩主斉昭もこれに巻き込まれて謹慎を命ぜられ、幽閉されることになりました。この時東湖も幽閉の身となります。

 

この期間に作られたのが、「正気の歌」です。


憂憤やるかたなく、国を思う一念やみ難い長詩で、志ある人々にながく愛誦されました。


この後、嘉永6年に黒船が来航し(1853年)、斉昭は許されて幕府の参与となり、東湖も登用されて海辺の防衛に全力を傾けました。


しかしながら、安政2年(1855年)の10月2日の夜半に「安政の大地震」がおこります。江戸小石川の水戸藩邸に勤めていた東湖は一度は脱出しますが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ったため、東湖も後を追って、落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を外に放り出したということですが、その時再び揺れが襲い、母と共に圧死したということです。五十歳でした。

 

水戸光圀に始まる『大日本史』は二百五十年にわたって編纂されました。

 

まさに水戸は日本歴史学派の中心地でした。


当時の武士は漢文の四書五経を中心に勉強して歴史観の根幹を養いました。

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吉田松陰などもそうで、儒学を学びました。松陰は、こうして大義名分の学問をやっているうちに、革命の国支那とは逆に、皇室と対立する幕府というものの存在が許さるべきではないという結論に達しましたが、そこに水戸からやって来た同志に、

 

「きみの論ずるところは、煎じ詰めると理屈である。日本の歴史を知らないからダメだ」

 

と、さんざんやっつけられたのです。


正直無類の松陰は発奮して、日本歴史研究の中心地である水戸に学びます。会沢、藤田などの大学者を訪ねて勉強に打ち込みました。


歴史を学ぶと学ばないとでは、どこがちがうか。松陰が水戸に道を急ぐときは、京都は素通りでした。歴史を学んで長州に帰るときはそれができず、高山彦九郎と同じように大橋にひざまずいて、皇居を伏し拝み涙を流しました。


歴史を学んだ松陰は、日本人の先祖が歴代の天皇を中心として、つぎつぎに尊い命を積み重ねて、我が大和島根を護ってきた事実を魂の慟哭を持って知ったのです。

 

吉田松陰も日本の歴史を学びそうした行動を取らずにはおかない自分に変わったのです。

 

「正気の歌」を原文、書き下し文、現代語訳でご紹介します。

 

( 原文 )

 

文天祥正氣歌/藤田東湖

 

天地正大氣 粹然鍾 神州

秀爲不二嶽 巍巍聳千秋。
注爲大瀛水 洋洋環八洲。
發爲萬朶櫻 衆芳難與儔。
凝爲百錬鐵 鋭利可割鍪。
藎臣皆熊羆 武夫盡好仇。
神州孰君臨 萬古仰 天皇
皇風洽六合 明德侔大陽。
不世無汚隆 正氣時放光。
乃參大連議 侃侃排瞿曇。
乃助 明主斷 燄燄焚伽藍。
中郞嘗用之 宗社磐石安。
淸丸嘗用之 妖僧肝膽寒。
忽揮龍口劍 虜使頭足分。
忽起西海颶 怒濤殱胡氛。
志賀月明夜 陽爲 鳳輦巡。
芳野戰酣日 又代 帝子屯。
或投鎌倉窟 憂憤正愪愪。
或伴櫻井驛 遺訓何殷勤。
或守伏見城 一身當萬軍。
或殉天目山 幽囚不忘君。
承平二百歳 斯氣常獲伸。
然當其鬱屈 生四十七人。
乃知人雖亡 英靈未嘗泯。
長在天地間 凛然敍彜倫。
孰能扶持之 卓立東海濱。
忠誠尊 皇室 孝敬事天神。
修文兼奮武 誓欲淸胡塵。
一朝天歩艱 邦君身先淪。
頑鈍不知機 罪戻及孤臣。
孤臣困葛藟 君冤向誰陳。
孤子遠墳墓 何以報先親。
荏苒二周星 獨有斯氣隨。
嗟予雖萬死 豈忍與汝離。

屈伸付天地 生死又何疑。
生當雪 君冤 復見張四維。
死爲忠義鬼 極天護皇基。

 

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(書き下し)

 

文天祥の正氣歌に和す/藤田東湖

 

天地正大の氣、粹然(すいぜん)として神州に鍾(あつま)る。秀でては、不二(ふじ)の嶽(がく)となり、巍巍(ぎぎ)として千秋に聳(そび)ゆ、注いでは、大瀛(たいえい)の水となり、洋洋として八洲を環(めぐ)る。発しては、萬朶(まんだ)の櫻となり、衆芳(しゅうほう)與(とも)に儔(ちゅう)し難し。凝(こ)っては、百錬(ひゃくれん)の鐵(てつ)となり、鋭利(かぶと)を断つべし。盡臣(じんしん)皆(みな)熊羆(ゆうひ)、武夫(ぶふ)盡(ことごと)く好仇(こうきゅう)。 神州、孰(たれ)か君臨す。萬古、天皇を仰(あお)ぐ。皇風は六合(りくがふ)に洽(あまね)く、明徳は大陽に侔(ひと)し。世に汚隆(おりゅう)無きにあらず。正氣、時に光を放つ。乃(すなは)ち大連(おおむらじ)の議に參(さん)じ、侃侃(かんかん)瞿曇(くどん)を排す。乃(すなは)ち明主の斷を助け、焔々(えんえん)伽藍(がらん)を焚(や)く。中郞(中臣鎌足のこと)嘗(かつ)て之(これ=正大の気)を用い。宗社(そうしゃ)、磐石(ばんじゃく)安し。淸麿嘗(かつ)て之(これ)を用ひ、妖僧肝膽(かんたん)寒し。忽(たちま)ち龍ノ口(たつのくち)の劍を揮(ふる)ひ、虜使(りょし)、頭足分(わか)る。忽ち起す西海の颶(ぐ)、怒濤(どとう)胡氛を殱(つく)す。志賀の月明(あきらか)なるの夜、陽(いつは)りて鳳輦(ほうれん)と 爲(な)りて巡す。芳野の戰(たたかい)酣(たけなは)なるの日、又帝子(ていし)の屯(ちゅん)に代る 或(あるい)は、鎌倉の窟(くつ)に投じ、憂憤正に??(えんえん)。或は櫻井の驛(えき)に伴ひ、遺訓何ぞ殷勤(いんぎん)なる。或は天目山に殉(じゅん)じ、幽囚君を忘れず。或は伏見の城を守り、一身萬軍に當(あた)る。 昇平、二百歳。斯(こ)の氣、常に伸ぶるを獲(え)たり。 然(しか)れども、其の鬱屈(うっくつ)するに當(あたり)ては、四十七人を生ず。乃(すなは)ち、知る人亡ぶと 雖(いへど)も、英靈、未(いま)だ嘗(かつ)て泯(ほろ)びず。長(とこしへ)に天地の間に在り、凛然(りんぜん)として、彜倫(いりん)を敍(じょ)す。孰(たれ)か能(よ)く之(これ)を扶持(ふち)するものぞ。卓立する東海の濱(ひん)に、忠誠、皇室を尊び、孝敬、天神に事(つか)ふ。文を修め、兼ねて武を奮(ふる)ひ、誓つて胡塵(こじん)を淸めんと欲す。一朝、天歩(てんほ)艱(なや)み、邦君、身、先(ま)づ淪(りん)す。頑鈍、機を知らず。罪戻(ざいれい)、孤臣に及ぶ。 孤臣、葛?(かつるゐ)に困(くる)しむ。君冤(くんえん)誰に向かひてか陳(の)べん。孤子(こじ)、墳墓に遠(とほざ)かる。何を以(もっ)て先親(せんしん)に報ぜん。荏苒(じんぜん)たり二周星。獨(ひと)り、斯(こ)の氣の隨(したが)ふ有り。嗟(ああ)、予(われ)萬死すと雖(いへど)も、豈(あに)汝(なんぢ)と離るるに忍びんや。屈伸、天地に付す。生死、又、いづくんぞ疑はん。生きては當(まさ)に君冤(くんえん)を雪(そそ)ぎ、復(ま)た綱維(こうゐ)を張るを見るべし。 死しては忠義の鬼となり、極天(きょくてん)皇基(こうき)を護(まも)らん。

 

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(現代語訳)

 

天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。正気、凝れば、百度(ひゃくたび)鍛えし日本刀となり、切れ味鋭く兜を断つ。忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。良き競争相手神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、その明らかなる御徳は太陽に等しい。世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。たとえば、欽明帝の御代のこと。物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子、大連(おおむらじ)の議にて、剛直なる正論をもって、蘇我稲目(そがのいなめ)の惑える仏教を排斥した。すなわち、英明なる帝の叡慮を助け、蘇我の仏像、海に捨て、私寺ことごとく焔をあげて焼きつくした。たとえば、中臣鎌足、正気をおこなう。「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)。蘇我氏の専横、倒して皇室国家を磐石安泰ならしめた。たとえば、和気清麻呂、正気をおこなう。宇佐八幡の御神託をいただいて、妖僧「弓削道鏡」、肝を冷やした。同じく、北条時宗。建治元年(1275年)、降服迫る「元」の使節を虜にし、相模の国は竜の口にて切り捨てて、捕虜の首と胴を泣き別れにした。同じく、元寇襲来のとき、正気は玄界灘の猛風を起こし、怒涛とともに外国軍の異様な気配を滅ぼしつくした。後醍醐帝の御代のこと。元弘の変(1331年)。倒幕の企て洩れて、志賀の比叡山に逃れた夜は明るい月夜。さらに藤原師賢(もろかた)ら、帝の御衣(みけし)を借り、帝の乗り物にて行幸を偽り、延暦寺へ。帝はその間に笠置の山へ移りたもう。南朝は吉野城の戦いたけなわなるとき、元弘三年(1333年)、護良(もりなが)親王の忠臣、村上彦四郎義光(よしてる)、正気を行う。帝子(大塔宮・護良親王)の身代わりに、落城さなか宮の鎧兜をいただき切腹す。あるいは、建武新政護良親王、正気を行う。足利尊氏の誅殺くわだて、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉さる。深い憂憤、苦悩のうちに弑殺さる。時に二十八歳。あるいは、楠木正成、正行(まさつら・11歳)父子の桜井の駅の別れのとき。正成四十三歳、正気を行う。生き延びて最期の一人になるとも帝を護れ、と遺言するは、なんとねんごろなことか。勝てぬ戦と知りながら、大楠公湊川にて討ち死にす。あるいは、天正十年春三月、織田信長に敗れた武田勝頼、天目山にこもりいる。讒言にて幽閉されていた小宮山内膳正友信、主君の恩を忘れず、これが最期のお供だと、駆けつけ許され殉死した。あるいは、天下分け目の関が原、徳川家康が股肱の臣、鳥居彦右衛門元忠、主君の囮を買って出て伏見の城を守り奮戦。二千の手勢とわが身をもって、四万の敵に当たって討ち死にする。享年三十三歳。以来、太平の世は二百年。かくのごとく正気は、常に伸びるを得てきた。しかし、正気は、その鬱屈するときもあったが、赤穂義士の四十七人を生み出す。すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない。正気、とこしえに天地の間にあって、りりしく普遍の道を現し続ける。かくのごとき正気を、だれが助けて伸ばせるだろうか。人為でできることではない。抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。学問を修め、さらに武道をきわめ、誓って異国のけがれを払わんと欲す。ある日、時運、困難となり、水戸藩主・徳川斉昭の身は隠居謹慎を命ぜられて表より消え、幕府は時機を見るに頑迷にして愚鈍。藩主の冤罪は、一人残された腹心・東湖に及んで蟄居幽閉の身となった。東湖、蔦葛(つたかずら)のつるにからまれたごとく苦しみ身動きが取れない。藩主の冤罪、誰に向かって陳述できようか。わが身は、江戸の水戸藩下屋敷にあり、先祖の墓のある郷里からも遠ざかっている。どうやって亡父亡母のご恩に報いることができようか。いつしか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、おまえと離れることを忍べようか。わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。生きようと死のうと、疑うことなどできようか。生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。