軍神 広瀬武夫中佐
広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年生まれの岡藩(大分県竹田市)藩の出身です。
広瀬武夫中佐は、幼少時に母親が亡くなったため、お婆ちゃんに育てられたそうです。
明治にはいり、西南戦争で家が焼失したため、一家は飛騨の高山へ引っ越しました。
小学校を卒業した広瀬中佐は、地元で小学校の教師などをしていたのですが、猛勉強して、明治18(1885)年には、17歳で海軍兵学校に入学しました。
柔道を講道館で学び、有段者紅白戦では、五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。
海軍兵学校時代の広瀬中佐に逸話があります。
中佐は大運動会のマラソンのとき、左足が骨膜炎で、左足切断を宣告されるまで至りながら、見事完走しているのです。
でも何事も貫く事を信条としていました。
卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、その訓練の途中、中佐を含む50名程度の海軍見習い士官が、駿河(静岡県)の清水港に上陸しました。
そこで彼らは、侠客・清水次郎長親分を訪ねています。やってきた一同をジロリと見渡した次郎長親分は
「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」
と、一同をけしかけました。
このあたりが、親分の意地の悪いところです。
そうやってけしかけて、男を探そうとしたのです。そうと知った広瀬中佐は、前に出て
「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやる。びっくりするな!」
と、いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴り出したのです。これには次郎長も感心し
「なるほど、お前さんは男らしい」
と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。
明治30(1897)年、広瀬中佐は、ロシアに駐在武官として赴任しまし、明治33(1900)年には、少佐に昇進します。
そして1904年(明治37年)2月8日に日露戦争が始まります。
東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
それは、旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦でした。
作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は
「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」
と作戦に反対しました。
この二人が、会議で意見が対立しました。
あくまでも閉塞作戦に反対する秋山参謀、断固実施すべしとする広瀬中佐。
会議は、広瀬中佐の
「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない。」
というひとことで、ついに旅順港閉塞作戦は実施と決まりました。
しかし第一回の閉塞作戦は失敗しました。
第二回の作戦は、明治27(1904)年3月27日に実施されました。
投入された艦は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の四隻です。
そして「福井丸」に、広瀬中佐が艦長として搭乗しました。
実行の三日前、秋山真之が旗艦三笠から、福井丸の広瀬中佐のもとに出向きました。
秋山参謀は、友でもある広瀬中佐に
「敵の砲撃が激しくなったら、必ず引き返せ」
と迫りました。作戦はもちろん成功させたい。
しかし、友を決して死なせたくなかったからです。
旅順港閉塞いよいよ決行の日となりました。
ところが、近づいたところをロシアの哨戒艇に発見されてしまい、サーチライトを浴びます。
照明に照らされた千代丸に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
集中砲火を受けた千代丸は、湾の入り口の南東、海岸から100メートルの地点に沈んでしまいます。
次鋒は弥彦丸でした。
弥彦丸は、湾の入り口手前まで近づきますが、猛烈な砲火を浴び、旅順港の入り口に対して、縦に沈んでしまいます。
また失敗です。
続けて猛烈な砲火の中、副将の米山丸が湾の入り口に進み、弥彦丸と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
これで港の入り口は、ようやく半分がふさがりました。
けれど、まだ閉塞は実現していません。
「なにがなんでも、湾を塞がねばならぬ」
世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきています。日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍はせん滅させられてしまうのです。
広瀬は、最後の福井丸を駆って旅順港の入り口に向かいました。
残り半分をどうしても塞がねばならないからです。
敵のサーチライトを浴びました。
丘から砲弾が矢のように飛んできます。
福井丸は、ようやく湾の入り口に到達しました。
福井丸は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとります。
あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
あとすこし、あとすこしです。
ところがそのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、福井丸の船首に命中しました。
その一撃で、福井丸の船首は、こなごなに、吹き飛ばされてしまいます。
福井丸は、船首から海に沈み始めます。
艦の操船不能。もはやこれまで。
広瀬中佐は、救命ボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。
「俺が捜すっ!」
広瀬中佐は、ひとり上甲板に戻りました。
敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
丘に近いのです。銃弾も飛んできます。
砲弾も飛来する。
艦は浸水し、沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
艦の沈没の渦に巻き込まれたら、命はありません。
「杉野~!、杉野はいいるか~!!、杉野はどこだ~!!」
これまで、厳しい訓練に耐え、寝食を共にしてきた可愛い部下です。
決して決して死なせるわけにはいかない。
無事に連れて帰りたい。
広瀬中佐は、必死に杉野兵曹をさがしましたあ。
しかし杉野上等兵曹は見つかりません。
やむなく広瀬中佐は、福井丸が海にのみ込まれようとする、ぎりぎりになって、ボートに乗り移りました。
そしてボートが、六挺身ほど離れたころで、福井丸の爆薬に点火しました。
半ば沈んだ福井丸が大爆発を起こします。
福井丸の爆発によって、救命艇が、敵の前にさらけ出されます。
そこをめがけて、敵弾が飛んで来きます。
場所は湾の入り口のすぐそばです。
広瀬中佐は、他の乗組員に
「頭を下げろ〜!」
と大声で命令し、自分も頭を低くしました。
けれど、広瀬中佐は艦長です。
そしてこの作戦の指揮官でもあります。
戦況を、きちんと確認しておかなければならない。
広瀬中佐は、銃弾の中で顔をあげました。
そのときです。
広瀬中佐の頭部に敵の銃弾が命中したのです。
中佐の頭が吹き飛びました。
身体が海中に落ちました。
「艦長~~!!艦長~~!!」
日ごろから広瀬中佐を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。
その模様を、朝日艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には
「頭部に撃たる海中に墜落」
と書かれています。
また明治天皇紀には
「一片の肉塊を残して海中に墜落」
と書かれています。
広瀬中佐が敵弾の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめたそうです。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示されます。
広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
遺体はロシア軍によって埋葬されました。
広瀬武夫柱、享年36歳でした。
広瀬中佐は、翌日、一階級昇進によって中佐になりました。
そして「軍神」となりました。
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戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
しかし皆さん広瀬中佐の話をどう感じるでしょうか。
軍神広瀬中佐は部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にして部下の姿を追い求めました。
そういう広瀬中佐の、日ごろからの人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気が、多くの人々に、愛され、尊敬されたのです。
だからこそ、広瀬中佐は「軍神」とされたのです。
正々堂々と清々しく生き、危険や苦難に際しても部下への気遣いを忘れない。
一源三流
これを実践した人が軍神となりました。
僕たちは先人のその様な気概を学び実践し、そして子供達に伝える事が大切であると深く思います。