高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

永野修身元帥

永野修身元帥

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永野修身は土佐の人です。
一番尊敬していた人が、同郷の坂本龍馬だったそうです。


明治13(1890)年のお生まれで、高知海南中学(現・高知県立高知小津高等学校)を卒業後、海軍兵学校に入学しています。
兵学校では、入学時、卒業時とも成績は2番で大変優秀な方でした。

 

24歳のときに、日露戦争を戦い、その後、旅順旅順要塞攻撃の海軍陸戦重砲隊の中隊長に任官しています。

日露戦争で日本軍が、戦死者約5050名、負傷者約1万6930名という莫大な損害を出してまで旅順要塞を攻略したのには、理由があります。
旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を、なんとしても殲滅しなければならなかったのです。

旅順要塞の先にある山を越せば、旅順港は眼下に見下ろせます。
そこからなら、百発百中で、港にいるロシア艦隊を沈めることができます。
旅順港にいるロシア艦隊を陸路から攻撃するためには、要塞陥落後、艦を砲撃できるだけの大型の大砲を、艦隊を見下ろす位置まで、運ばなくてはなりませんが運ぶための道も時間もありません。
悠長なことをしていたら、旅順港にいるロシア艦隊は、日本がのんびりと道を造っている間に、とっとと逃げ出してしまいます。

旅順港のロシア艦隊と、バルチック艦隊が合流したら、もはや日本海軍に勝算等はありません。
なぜならロシアの戦力が倍になるからです。

 

日本海軍が負けたらどうなるか。


日本は制海権を失います。
すると、大陸にいる日本陸軍は退路を断たれます。


補給が失われ、ロシアの大軍の前に全滅の危機を迎えることになります。


日本としては、何が何でも、旅順港にいるロシア艦隊が「動き出す前に」これを撃滅しなければならなかったのです。

 

世界最強た旅順要塞の守備に安心しきっていたロシアの旅順港の艦隊は、エンジンを切っていました。


まさかの展開で、要塞が陥落すると、ロシア艦隊は、慌てて海上に艦を逃れさせようとしましたが当時の戦艦は、蒸気エンジンです。


エンジンをかけ、旅順港から出発できるまでには、ほぼ12時間がかかります。

逆にいえば、12時間以内に日本は、ロシア艦隊への砲撃を実現しなければならないのです。


けれど、砲撃ができる位置に大砲を運ぶには、山の木を伐り、道を造り、大砲を所定の位置まで移動させるのに、どんなに急いでも、最低でも3日以上かかります。
それでは、ロシア艦隊は逃げてしまいます。
ロシア艦隊を逃がしたら、なんのために多大な命を犠牲にして旅順要塞戦を戦ったかわからなくなってします。

 

「サァ、どうしようか」

 

となったとき、ひとりの若い海軍重砲隊の中隊長が提案を出します。

その若い中隊長の案は採用となりました。


若き日の永野修身です。

 

 

どういう案かというと、二〇三高地から着弾地点を観測し、敵艦の座標をもとにして、無線連絡で着弾点を補正し、命中させる、というものです。

当時の無線通信技術は、まだトンツートントンのモールス信号です。

そのトンツートントンだけで、リアルタイムに着弾点の補正をする。
大砲の方位と角度を微妙に調整し、火薬の量を調整し、正確に命中させる。

発射した大砲の弾の着弾地点を見て、具体的に方位何度、仰角何度修正、しかもその修正をモールス信号で無線で知らせ、その上で「撃て~!」とやるわけです。

 

そしてこのとき、最前線で着弾地点の観測した永野は、瞬時にこの方位、仰角の修正角を暗算し、修正角を無線で指示しています。


後方で大砲を撃つ砲術班は、その指示通りに、見えない敵艦をめがけて、大砲を発射する。

永野の指示した弾は、ことごとく命中したといいます。


まさに鍛え抜かれた、プロの匠み技だったわけです。

 

本当に凄いですね٩(^ᴗ^)۶

 

後年、永野修身は、海軍軍令部総長にまで栄達します。
けれど彼は、単に頭がよく、人柄も良くて、体力、気力にも恵まれ、軍事に関する技量にも恵まれていたというわけではだけではありません。


若い頃から常に才能を磨き、新しい技術に挑戦し、工夫し、改善し、周囲の者と協調し、これを実現にまで漕ぎ着けるだけの徳を持っていました。

また永野は若い頃からたいへんに義侠心が強かったそうです。
一時は清水次郎長一家に本気で弟子入りしようとしています。

侠気がある、ということは、人の悲しみや辛さをわが事として理解し、同苦し、一緒に泣き、一緒に笑う男気がある、ということです。


🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

 

昭和16(1941)年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開かれました。

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その席で昭和天皇

 

「外交が主か、戦争が主か」

 

と閣僚たちに尋ねられました。

及川海相

 

「重点は外交にある」

 

と答えました。


すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられました。

 

「よもの海 みなはらからと思ふ世に
      など波風のたちさわぐらむ」

 

明治天皇の御製です。


四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。

 

昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかったといいます。


しばらくの間、誰もがうつむいてしまい、言葉を発することができなかったのです。


言えないです。

 

陛下が平和を望むお気持ちを、閣僚たちは全員、痛いほどわかっているのです。


けれど、米国の日本に対する戦争への挑発は、もはや引き返すことのできない所まできている。


それでも尚、平和を、和平を、外交による事態の好転をと昭和天皇はもとめられたのです。


昭和天皇は、その万感の思いを、明治大帝のお歌に託されたのです。

 

陛下の前で「それでも戦争せざるをえないです」などと、誰が言えましょう。


言おうとしたら、涙がとめどなくあふれてしまう。


まともに言葉なんて話せなくなる。


このとき、日本を代表する英才であり、すべての情報を知り尽くした日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、涙をこらえるしかなかったのです。


日本はそこまで追いつめられていました。

 

当時の閣僚たちは、いまの内閣のように、昨日までただの市民運動家だった者が、なにかの弾みで大臣や総理になったような人々とは、まるで異なります。

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とりわけ軍の出身者は、日露戦争第一次大戦支那事変等を経由した実戦のプロであり、可愛い部下、愛する部下たちを直接失った悲しみの経験を持つ人たちでもあります。

戦うなら、勝たなければなりません。
けれど、敵は世界最強の米英です。
国力も軍事力も、当時の日本の百倍以上の力を持っている。
そういう相手と戦い、日本は勝利を得なければならないのです。
その決断をする苦しみと覚悟、幾度も検討を重ねた作戦と、部下を失わなければならない悲しみ、そういう諸々のことと、当時日本の置かれた厳しい現状という狭間の中で、彼らは苦しみ抜いていたのです。

 

この日、しばしの静寂あと、昭和天皇は海軍軍令部総長永野修身(ながのおさみ)に発言を求められました。


永野はしばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開いて、答えました。


そのときの言葉です。

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹
アメリカの主張に屈服するというのは、日本が亡国の憂き目に遭うということです。
しかし、戦うのもまた、亡国であるかも知れません。
戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。

けれど、戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。
もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。
そうすれば、私たちの子孫は、必ず再起し、あるいは三起する。

統帥部としては、もとよりあくまでも外交交渉によって平和的解決を望んでいます。
けれどもし、不幸にして開戦と決し、陛下の大命が発せられるようなことになるなら、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」

―――

(原文)
政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。
すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。
統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。
―――

当時、日本が欧米列強に呑み込まれる、すなわち戦わず負けることを承諾するということは、日本人全員が、白人の奴隷となることを意味していたのです。
そうなれば民族の誇りもなにもあったものではなくなります。

誇りどころか、日本人には一切の私権がなくなり、教育も奪われ、日本人は米英の植民地奴隷に成り下がる。
それが当時の「世界の常識」だったのです。

そして永野軍令部総長は、とても大切なことをここで語られています。

 

それは開戦に先立ち、


「たとい戦い勝たずとも、祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」

 

と述べたことです。


ここでいう子孫というのは誰のことでしょう。
いまの日本に生きる私たち、ひとりひとりに向けられた言葉です。

大東亜戦争で散華された英霊は236万柱です。
なぜ「柱」というのかといえば、散華された英霊の皆様は、日本の神々となられたからです。
「柱」というのは神を数える際の数詞です。

そしてその神々は、今を生きる私たちに、


「俺たちは祖国を守るために死を選んだ。日本は亡国の危機に陥るかもしれないが、君たちは祖国護持の精神を持ち、必ず再起三起せよ」

 

と語りかけてくれている。


そのことを、永野修身の言葉は象徴していると思います。

 

戦後、東京裁判において永野はA級戦犯とされました。
永野は、開戦に反対でした。
ですから彼が東京裁判において「自分は当初から反対だった」と証言すれば、それは彼の裁判を、有利なものにする証言となったかもしれません。

 

けれど彼は、裁判を通じ、そうした

「自らにとって有利になる弁明」

を一切しませんでした。


そればかりか

真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」

 

と明言しました。
戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。

その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンは


「マーシャル永野こそ、真の武人である」

 

と、惜しみない絶賛をしています。

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いま、永野修身閣下は、靖国神社に祀られ、墓所は、東京都世田谷区の浄真寺と、地元高知の筆山墓地に置かれています。

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