軍神 西住 小次郎 陸軍歩兵大尉
我が故郷、熊本に「軍神」として最初に指定された軍人がいました。
名前を西住 小次郎(にしずみ こじろう)と言います。
1914年〈大正3年〉1月13日~1938年〈昭和13年〉5月17日)大日本帝国陸軍の軍人で熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身で僕の出身地の隣まちです。
日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍しました。
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西住大尉の父も祖父も西南戦争に参加しており、江戸時代は西住家は武家でもありました。
昭和9(1934)年、陸軍士官学校を卒業して、宇都宮の歩兵第59連隊に入隊した西住は、同年10月に少尉に任官すると、昭和11(1936)年から、久留米の戦車第一連隊所属となります。
ここは、国産初の戦車である「八九式戦車」の部隊です。
そして中尉に昇進した西住は、昭和12(1937)年には戦車第5大隊配下の戦車小隊長として第二次上海事変に出征しました。
支那の呉淞から、宝山攻城戦、月甫鎮の戦い、羅店鎮の戦いと転戦します。
同年10月21日の大場鎮の戦いでは、敵陣の真正面約150メートルの地点まで進出し、そこから戦車の大砲を猛射して戦況を切り開くという離れ業をやってのけています。
この戦いでは、大場鎮の手前にある小さな村が戦局の要衝となり敵軍は準備万端整えて日本軍を待ち受けていました。
日本軍は猛攻しましたが、なかなかそこを抜けられませんでした。
そのとき西住中尉は2台の戦車で、敵陣の真正面に進出します。
そしてなんと連続9時間も、そこから大砲を撃ちまくりました。
これにより、敵陣は崩壊し、敵の守備兵は算を乱して逃げ出しました。
これが突破口となり、大場鎮は陥落しています。
この戦いで、大殊勲を挙げた西住中尉ですが、彼の事後報告はたいへん控えめで、戦績を誇るという風がまるでなかったそうです。
平素は万事控えめですが、いざ戦いとなるとまさに鬼神も恐れる勇猛ぶりでした。
西住大尉はそういう男でした。
大場鎮の戦いのあと、蘇州河に進出した西住大尉は、反転して南翔攻城戦に参加しました。
必死で防戦する敵のため、戦闘は膠着状態になりました。
ここでも西住中尉は、戦車で果敢に敵の真正面に突入します。
ところが、敵のはなった砲が、なんと西住大尉の戦車を直撃しました。
中尉の戦車は、このため戦車正面に大きな穴が空いてしまいます。
普通ならそこで戦車を放棄して、後方に下がるところですが西住中尉は、狭い戦車の中で操縦手と射手を左右の側壁に隠しながら、自分は天蓋にぶら下がり、その状態でなおも2時間近くも戦闘を継続しています。
この戦いの最中、部下の山根小隊を見失ってしまいましたが、そのとき西住中尉は、敵前で敵弾がうなり声を上げる中を戦車から飛び降り、真っ暗な前線で声を限りに部下を探し、呼び続けました。
あとでわかったのは、山根小隊は単に引き揚げルートを間違えただけで、西住隊とは、無事合流しましたが、このとき西住中尉は
「良かった良かった」
と、山根隊の無事を喜んで、男泣きに泣いていたそうです。
本気で部下を心配していたのですね。
その本気で心配していた西住中尉は、声を限りに部下を捜している最中に、敵弾で左足を撃たれています。
やむなく軍靴の長靴を脱いだ西住中尉は、下駄を左足に縛り付けて、部下を捜し、そして戦闘を継続しました。
そして戦闘後、自分の痛む傷をほっておいて、重傷を負った部下のために、野戦病院で付きっきりで看病してたといいます。
怪我もまだ癒えないうちに、続けて南京攻城戦に参加した西住中尉は、南京城占領後、続けて徐州作戦に向かいました。
この徐州作戦の最中、それは昭和13年5月17日ですが中尉は、宿県南方の黄大庄付近で、敵陣に数十メートルというところで、乗っている戦車が手前の小川に阻まれてしまいます。
西住中尉は、小川の深さを測るため、戦車を飛び降ります。
そしてようやく戦車の通れる地点を見定め、そのことを中隊長に報告しようと走り出だしたとき、敵の銃弾が西住中尉の右太ももを貫通しました。
銃弾は、西住中尉の左大腿部の動脈を切断してしまいます。
出血がとまりません。
急いで部下が集まり、中尉を戦車に救い入れ、介抱しましたが動脈出血は、止めようがありません。
死を悟った西住中尉は、中隊長に、
「中隊は左から攻撃しなければいけない」
と報告します。
そして、近くにいた部下の高松上等兵に
「お前らとわずか1年で別れるとは思わなかった。立派な軍人になれ」
と言い残しました。
再び中隊長に、
「お先に失礼します。どうかしっかりやって下さい」
と言い残した。
そして、母に向けて
「お母さん、小次郎は満足してお先に参ります。これからお一人でお淋しい事と思います。永い間、可愛がっていただきました」
姉には
「姉さん、いろいろお世話になりました」
弟には
「弟よ立派に」
と言い残し、こと切れたそうです。
それは、前進する戦車の中でのでき事でした。
西住小次郎中尉、享年25歳でした。
西住中尉は、支那の戦地で負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という苛烈な戦いを行いました。
そして戦死ときの階級は中尉だったのだけれど、特進して大尉となりました。
亡くなられた西住小次郎大尉は、戦闘中にはいつも戦車の中に、吉田松陰の歌を貼っていたそうです。
親思ふ 心にまさる親心
今日のおとづれ 何ときくらむ
その「親心」を想う西住大尉は、出陣に際して母に
「もう生きてはお目にかかりません」
と言い残したそうです。
―――
大尉の戦死の知らせは、母のもとに新聞社の社員が知らせに来ました。
知らせを聞いた母は、静かに立って仏壇を拝み、再び戻ってきて、
「小次郎は軍人に志願の折から既に今日あるを覚悟していました。少しでもお国のためになりますれば本懐です。ただあれがどんな死に方をしたかそれだけが心配です。」
と述べられたそうです。
ほんとうに気丈なお母さんだと思います。
けれどそのお母さんは、西住大尉が、本当は陸大入学を目指して猛勉強していたのを知っていました。
そして、大尉は兄弟の中でもいちばん元気良い子供だったのだそうです。
新聞記者の前では、気丈に振る舞ったお母さんですが、その心中は察して余りあります。
第二次上海事変以降の支那事変で、負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という西住大尉の活躍、部下思いの姿勢、亡くなる瞬間まできちんとした報告を行った軍陣魂、そして親を想う心。
西住小次郎大尉は、まさに「軍神」の名にふさわしい戦いをしてくれた日本人の誇りとなるべき軍人だった西住小次郎大尉は我が故郷の英雄、軍神であります