高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

宮本武蔵 五輪書(風の巻)

 

兵法の道では、他流の道を知ることが大切と考えて、他流のさまざまな兵法をここに書付け、『風の巻』としてこの巻を表した。他流の道を知らなくては、一流の道を的確に表現することは出来ない。大きな太刀を使い、道場で強いということだけをその兵法の売りにしてはならない。、ある流派は短い太刀を使って剣法に専念する。あるいは多くの太刀筋を使い分けて、太刀の構えを表だ、奥だと称して道を伝える流派もある。
これらがのすべてが正しい道でないことを、この巻の中にはっきり書き表し、兵法の善悪理非をはっきりさせる。一流の兵法は彼らとは全く違ったものである。
他流の人々は武芸の道を生計の手段とし、華やかな技巧を飾って、道場で売りものに仕立てているのであって、全く兵法の正しい道からは外れたものである。また世間の兵法の発展を剣術だけに小さく限定してしまい、太刀を振る訓練をし、強い身のこなしを憶え、時間をかけているようだが、いずれも真の兵法のみちでない。
ここに他の流派の欠点をいちいち書き表しておくので、よくよく吟味してわが二刀一流の道理を学んでもらいたい。

 

一 他流に大なる太刀を持つ事
他流に大きな太刀を好むものがある。我が一流の兵法から見れば、この流派を弱者の兵法とみる。その理由は、他の流儀では敵に勝つ道理を云わず、手段に偏って勝つ方法を云い、太刀の長さを長所として、敵の太刀の届かぬところから勝ちを得ようとするので、長い太刀を好むからである。世間で”一寸、勝り”とを言っているのは兵法を知らぬ者の言い分にすぎない。そうであるから兵法の道理を会得していなくって、太刀の長さによって遠いところから勝ちを得ようとするのは、心の弱さのためであって、これをを弱者の兵法と見立てたのである。
もし敵と近づいて互いに組み会うほどのときは、太刀が長いほど打つことができず、太刀を自由に振り回すこともできず、太刀やっかいとなって、短い脇差を振るよりも劣るものである。オールマイティじゃない。長い太刀の流派にはその言い分はあろうが、それは独り善がりのへ理屈にすぎない。正しい道よりみれば道理のないことである。もし長い太刀を持たないで、短い太刀を使うときには必ず負けざるを得ないであろう。
また戦いの場所により、上下左右などに空間がないときや、また脇差だけが使える場合においても、長い太刀に執着していると兵法に対する不信感に発展していき、兵法自体の発展にも悪い。人によって、力が弱く長い太刀をを使えないものもある。昔から大は小兼ねるといわれており、むやみに長い太刀の嫌うのではない。ただ長い太刀にばかり執着する心を嫌うのである。
多人数の戦いにあてはめた場合、長い太刀は多くの人数に相当し、短い太刀は小人数にあたる。小人数と大人数と闘うことはできないであろうか。小人数で多人数に勝った例はいくらもある。我が流においては、狭い考えを嫌うのである。よくよく吟味しなければならない。

 

一 他流において強みの太刀と云ふ事
太刀において、強い太刀に弱い太刀ということはあるはずがない。強い気持ちで振る太刀は粗雑なものとなる。粗雑な太刀だけでは勝ちを得るのは難しいものである。また強い太刀だと言っても人切るとき、強く切ろうとするばかりでは、かえって切れないものである。試し切りの場合にも強く切ろうとするのはよくない。だれでも敵と切り合うとき弱く切ろう、強く切ろうとか考えるものではない。ただ、人を切り殺そうと思うときは、強くきろうとも思わず、もちろん、弱く切ろうとも思わない。敵を殺す程と思うだけである。また力を込めた太刀で、相手の太刀を強く打てば、体制が崩れ悪い結果が生じるものである。相手の太刀に強く当たれば、我が太刀もそのために折れてしまうものである。そういうわけであるから、強く振る太刀ということはありえないのである。多人数の戦いにあてはめてみれば、強力な軍勢を
持ち、戦いに力強く勝とうとすれば、敵も当然強力な兵卒をそろえて、激しい戦いをしようとするので、これはどちらも同じである。戦いに勝つことは正しい道理なしには勝つことはできない。我が一流の兵法の道おいては、無理なことは少しも思わず、兵法の智力によって、どのようにも勝ちを得るということをよくよく工夫せよ。

一 他流に短き太刀を用ゆる事
短い太刀で勝とうとするのは正しい道ではない。昔から太刀、小刀と分けて、長い、短いをいい表している。一般に力の強いものは大きな刀も軽く振ることができるので、わざわざ短い太刀を用いる必要はないのである。そのわけは長さの利点を活用して槍やなぎなたを使うものだからである。
短い太刀を特に愛用するものは、敵が振るう太刀の間を、隙につけ入ろうと思うのであり、このように心が偏ったのはよくない。また敵の好きな様になってばかりいると、すべてが後手となり、敵ともつれ合うことになってよくない。さらにまた、短い太刀によって敵の中へ入り込み1本とろうとするやり方では、(道場で1本取れるが)大敵の中では通用しないものである。
短い太刀ばかりを用いたものは多くの敵に対して、切り払おう、自由に飛び回ろうと思っても、すべてが受け太刀となり、敵とからみあってしまって、確実な兵法の正しい道ではない。同じことならば、わが身は強くまっすぐな状態にして、敵を追い回し、飛び跳ねさせ、うろたえさせるように仕掛けて、確実に勝利を得ることが道である。
多人数の戦いにあっても同じ道理である。同じことならば、大軍勢でいきなり敵に攻め込み、即座にせん滅することが兵法の道である。世間の人々が、兵法を習うのに、常日頃から受ける、交わす、くぐるなどのことばかりで習っていると、潜在的な心に引きずられて、後手に回り、敵に追い回されてしまうものである。兵法の道は正しく、まっすぐなものであるから、正しい道理を以って敵を追いまわし、相手を従えていくことが大切である。よくよく吟味せよ。

 

一 他流に太刀かず多き事
他流において、数多くの太刀の使い方を人に伝えていることは、兵法を売り物に仕立てて、太刀の使い方をいろいろ知っていることを、初心者に感心させるためであろう。これは兵法で最も嫌うべきことである。
その理由は、人を切るのにいろいろの方法があると考えるのが誤りだからである。人を切るということに変わりはない。兵法知るもの知らないもの、女子供であっても、敵を切るということに多くのやり方があるわけではない。切るということ以外には、突く、薙ぐことがあるだけである。とにかく敵を切ることが兵法の道であれば、そのほかに多くの使い方があるべきはずはない。しかしながらその場所や事情によって、例えば上や脇がつまっているところでは、太刀がツカエない様に持つから、太刀の持ち方には五方といって、五種類はあるはずである。それ以外に付け加えて、手を捻るとか、身を捻り、飛びひらき、敵を切ることは正しい兵法の道ではない。敵を切るのに、ひねったり、飛んだり、開いたりして切れるものではない、全く役に立たないことである。
わが兵法にあっては身も心もまっすぐにして、敵をひるませ、ゆがめて、平静さを失ったところで勝つ、このように思う事が肝心なのである。よくよく吟味せよ。(小技は決定的チャンスを掴むまでの便法で,失敗の可能性もあり、合戦では応用できない。)

 

一 他流に太刀の構を用ゆる事
太刀の構え方に重点を置くのは誤った考え方である。世間一般には構えをするということは敵がいない場合のことであろう。そのわけは昔からの先例や、今の時代の方法はなどと法則性をつくることは、勝負の道にはあり得ない。相手に具合が悪いように仕込むことなのである。物事の構えというのは、動遥しない体制をとるための用心なのである。城ををかまえたり、陣をかまえたりすることは、人に仕掛けられても、少しも動遥しない状態をいい表しているのであるが、これは平常のことである。ところが兵法の勝負の道では、何事も先手先手を心掛けることである。これに反して構えるということは、先手を待っている状態である。よくよく工夫せよ。
兵法の勝負の道では、、相手の構えを揺させ、おびやかし、敵をうろたえさせ、敵が混乱して拍子が狂っているところに乗じて勝つのであるから、構えなどという後手の態度を嫌うのである。従ってわが兵法においては、有構無構すなわち構えがあって構えがないというのである。
多人数の戦いの場合にも、敵の兵数に多少を知って、戦場の状態を見極め、我が人数の程度ははかり、その長所を生かして人数を決め、戦いを始めることが合戦に最も重要なことである。人に先手を仕掛けられたときと、自分から仕掛けたときには戦いの有利さは倍も違う。太刀をよく構え、敵の太刀をよく受けよく、弾いたと思っても、所詮受け身というものは、槍や薙刀のような長いものを持っていても、防御にこしらえた柵が槍長太刀を跳ね返しているのと同じことで、本当に敵を打つことはできない。どちらにしても、結果的に負けるなら槍薙刀の代わりに柵木を武器にしても同じである。よく吟味すべきである

 

一 他流に目付といふ事
他流では目付といって、それぞれの流儀により、敵の太刀に見を付けるものと、手に目をつけるもの、また、顔、足などに目をつけるものがある。このように特別に目付けを強調すると、それに惑わされて、兵法の迷いとなるものである。その訳は例えば、鞠蹴る人は鞠に目をつけていないのに、自在に蹴る。ものに習熟するということによって、確かに目でものを追う必要はない。また曲芸などをするものの技にも其の道に習熟すれば、戸板を鼻の上に立てたり、刀をいくらでも手玉に取る、これも皆確かに目をつけることなのだけれども、いつも手慣れているから自然によく見える。兵法においてもその時々の敵との戦いに熟れ、人の技量が解り、兵法の道をを体得できれば、太刀の遠近遅速までもすべて見えるものである。目のつけどころは、相手の心に付いた目で、心眼を働らかせねばならないのである。であるから
我が一流においては、観、見の二通りの目付けがある。観の目を強くして敵の心を見、その場の位を見、大きく目つけてして、その戦いの流れを見て、正しくを勝つことに専心しなければならない。多人数の戦いにおいて、小さいいいところに目をつけてはならない。前にも書いたように、細く小さく目をつけることは、大きな目的を見失い、迷う心が出来て、勝つことを逃すものである。この道理をよくよく吟味して鍛錬すべきである。

一 他流に足つかひ有事
足の踏み方に浮き足、飛び足、はね足、踏みつける足、からす足などと言っていろいろとある。これらはわが兵法から見ればすべて不十分と思われる。浮き足を嫌う理由は、戦いになれば必ず足は浮くようになるので、しっかりと確実に足を踏むことが大切である。また飛び足もよくないのは、飛びあがるとそれによって、次の動作が自由を失うからである。幾度も飛ぶ必要はないのだから、飛び足はよくないのである。また、はねるという気持ちがあってはうまく行かないものである。踏みつける足は待ちの足で特に嫌う、敵に先手を取られる。その他にからす足などと、いろんな速い足遣いがある。また沼、深田、山、川、石原、細道などでも闘う場合が在るから、その場所によって飛び跳ねることができない。平常心のときの姿勢で足らず、あまらず、足が乱れのないようにすべきだ。多人数の戦いにあっても、足の運びが肝要である。敵の意図や手段が理解できないまま、やたらに早くかかれば拍子が狂って、勝ちがたいものである。敵にうろたえがあって、崩れ目が見えるのに、早く勝負をつけることができなくなるのである。敵がうろたえ,崩れる状況をよく見わけて、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つことが肝心である。よくよく鍛錬せよ。

 

一 他の兵法に早きを用ゆること
兵法で、さばきが素早いというのは本筋ではない。素早いということは、物事にある拍子のリズムに合わせるもので、速いリズム、遅いリズムといろいろあり、上級者のリズムは早いようには見えないえないものだ。例えば、朝から暮れまでで160キロから200キロと、早く歩く人もある。要領の悪い人は1日中急ぎ続けてもハカがいかず、くたびれ儲けになる。踊り上手に合わせるのに、謡が下手ならば遅れるのを恐
れて、忙しいリズムになる。またツツミ太鼓で老松を打つと静寂感が漂うものだが、下手はこれにも遅れる。高砂は急テンポのリズムだが、早すぎるとよくない。”こける”と言って間が外れる、もちろん遅れてはよくない。とにかく上手のすることはゆっくり見えて、間が飛んだりしない。何事も慣れた、上手のをすることは、忙しくは見えない。鍛錬して、道の理を知れ。特に兵法の道で早すぎるリズムはよくない。沼、深田では、足も、体も動かしにくいので、太刀筋はもっと動かしにくい。早く切ろうと焦ると、扇や小刀のような小ぶりなものならともかく、着実に切ろうとしても切れない、よく考慮せよ。多人数の戦いにしても、早く早くと急ぐう気持ちはよくない。”枕を押さえる”を思い出し、それくらいの気持ちで丁度良い。無駄で無分別の行動はしないで、冷静になり、人に動かされないことが肝要である。この心を工夫し鍛錬するべきである。

 

一 他流に奥表と云う事
兵法のことにおいて、いずれを表といい、何を奥ということができようか。芸によっては時折、極意秘伝などと言って、奥義に通ずる入り口があるけれども、いざ敵と討ち合うときになれば、表で戦い奥で人で切るなどというものではない。わが兵法を人に教える場合には、初めて兵法を習うなう人には、その人の技量に応じて、早く出来そうなところからまず習わせ、早く理解できるような道理などを教え、理解しがたい道理については、その人の理解の進んでいったところ頃合いに従って、次第に深い道理をの後に教えていくように心がけている。しかしながら大抵は実際に敵と打ち合うときの道理を通して理解させているのであるから、奥義に通じる入り口ということはないのである。例えば世間一般に山の奥へ行こうとしてもっと奥へ行こうと思えばかえって、入り口に出てしまうものである。何事の道であっても奥義が役に立つこともあり、また表を使って有効なこともある。この兵法の道にあっては、何をかくして、何を公にするか、などあるであろうか。従ってわが流儀を伝えるには誓詞やは罰文などというものは用いない。この兵法を学ぶ人の智力を見て正しい道を教え、兵法を学ぶうちに身につくさまざまな欠点を除き、自然に武士の道の正しいあり方を悟らせて、動揺しない心にすることがわが兵法の人に教える道であるよくよく鍛錬しなければならぬ。

右は他流の兵法を九カ条として風の巻としてあらまし書き表した。一流一流について、入り口より奥義までを詳しく書きが表さなければならないが、わざと何々の何の極意といった名を記すことはしなかった。そのわけは、それぞれの流派による理論は、その人、各自の考えがあるから、同じ流儀の中でも多少は見解の違いがあるものであるから、後々までのためにどの流派の太刀筋ということは書かなかったのである。そこで他流の大体を九つに分けてみたのである。世間の正しい道理からすれば、長い太刀に偏り、あるいは短い太刀こそ良しとし、強弱のみにこだわり、大まかなことも、また細かなこともすべて偏った道であることが、他流の入り口や奥義のことを書かなくともすべて解るはずであろう。我が一流の兵法にあっては太刀の使い方に初心も奥義もない。極意の構えなどということもない。ただ心の正しい動きによって兵法の特長をわきまえることが最も肝心なのである