高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

宮本武蔵 五輪書(水の巻)

《水の巻》

二天一流の中心は水を手本として利のある方法をおこなうのものであるから、水の巻として一流の太刀筋を此の書に書顕すものなり。この道を細かく、心のままに書くことはできないが、たとえ言葉は届かなくとも、その利は自然とわかるであろう。この書物に記したことについては1言1言1字1字深く考えてほしい、いいかげんに思って学んだのでは、道と違う事を理解してしまうであろう。兵法において、勝つ道については、1人と1人の勝負として描き表してあっても、万人と万人の合戦の方法のことと考え大きく見ることが大切である。
兵法に限って、少しでも道を間違えたり、迷ったりすると道を外してしまうものである。この書物をただ見るだけでは法の神髄を極めることはできない。この書物に書かれていることをわが身にとっての書付と心づけ、心得てただ見るだけと思わず、親しむだけとも思わず、物まねするのでなく真に自分が見いだした利とするように、常に、それが身に付くよう、よくよく工夫しなければならない。


一 兵法心持の事
兵法の道においては、心の持ち方は『平常の心』と変わってはならない。平常も、戦いの時も、少しも変わることなく、心を広く、素直で敏感にし、緊張しすぎることなく、少しもたるむことなく、こころが偏らないように、真理を見抜き、心を流動自在な状態に保ち、その流れが一瞬も留まらないようによくよく注意しなければならない。動作が静かな時にも、心を静止させず、動作が激しく動くときにも、心を平静に保ち、心が動作に引きずられることなく、動作が心にとらわれることなく。どちらかと言うと、身より心の持ち方に気を配り、心は充実させ、また余計なところに心をとらわれぬようにする。外見は弱くとも、底の心は強く、底の心は他人に見抜かれないようにする。身分の低い者は大成している人の物の考え方を知り、成功者も大雑把すぎずに小さなことにも気を使って、大身も小身も、心をまっすぐにして、自分自身をひいき目に見ないように心を持つことが大切である。心の内がにごらず、ひろやかな心でとらわれないところから、物事を考えればならない。知恵も、心もひたすら磨くことが大切である。智恵を磨ぎ天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、万の芸能其の道にわたり、世間の人に少しもだまされざる様にして後、兵法の智恵成るなり。兵法の智恵に於て、とりわけ間違いやすいものなり、戦の場万事せわしき時なりとも、兵法の道理を極め、動遥なき心、能々吟味すべし

 

一 兵法の身なりの事
体の姿勢は顔はうつむかず、あおむかず、まげず目を動かさず、額にしわを寄せず、眉の間にに皺をよせず、目の玉を動かさないようにして、瞬きをしないような気持ちで、目をやや細める様にする。
おだやかに見えるような顔つきで、鼻筋は真っ直ぐに、、、、ややアゴをだすようなき持ちで、、、、、、肩から全身は同じものと考える。両肩を下げ、背筋を真っ直ぐ、尻を出さず、ひざから足先まで力を入れて、腰がかがまぬように、腹を出す。楔(くさび)をしめるように、脇差を腹で押さえるように、おびがたるまぬように、、、。、、、、、、平常の身のこなしを闘いの身のこなし方として、、、、。

 

一 兵法の眼付と云ふ事
戦いのときの目の配り方は、大きくを広く配る必要がある。目には観の目と見の目がある。観の目は強く,見の目は弱く。離れたところははっきりとつかみ、身近な動きにはとらわれず、それを離してみることが兵法の上で最も大切である。敵の太刀の動きを知るが、動きに惑わされることがない様にするのが兵法の大事なのである。これらは個人の戦いにも、また多人数の戦いにも同じように重要である。こうしたことは忙しいときに急に身につけることはできないものである。この書付けをこころがけ、いつも目つきの変わらないように、反省しておくべきである。

 

一 太刀の持様の事
太刀の持ち方は親指と薬指を浮かすような心持ちで持ち、中指は閉めず緩めず、薬指と小指を締める気持ちで持つ。締め方に緩みがあるのはよくない。敵を切ることを念頭に置いて、太刀を持つ事に気がとらわれても良くない。敵を切るときにも、手の具合は変わることなくて、委縮して動きのとれないことがない様に持つべきである。もし敵の太刀を打ったり、受けたり、当たったり、抑えたりずることがあっても親指と、人さし指の調子を少し変えるくらいの気持ちで、とにかく相手を切るのだという気持ちで、太刀を取らなければならぬ。試し切りにするときも、また真剣で切り会う場合にも、『人を切るのだ』、ということでは刀の持ち方に変わりはない。
太刀の動きにせよ、刀の持ち方によ、とらわれ過ぎて『居着く』。動きがなくなってはならない。とらわれ過ぎて『居着く』ことは死の手であり、『居着く』事がないことが生の手である。
このことを十分に心得る必要がある。

 

一 足づかいの事
足の運びは、つま先を少し浮かせて、踵を強く踏む。足の使い方は、その時によって、大小遅速の相違は在るが、普通に歩むように使うこと。
飛ぶような足、浮きあがった足、固着するような足の三っはよくない足である。
足の使い方では、陰陽とういうことが肝心とされている。陰陽といのは、片足だけが動かされるのではなく、、切る時も、退く時も、受ける時も、右左と足を運ぶのである。くれぐれも、片足立ちの状態にならないよう十分注意しなければならない。


一 五方の構の事
五つのかまへは上段、中断、下段、ひだりのわき、右の脇に構える。
構えを五つに分かれるけれども、みな人を切るためで、待ち構える形はどう在るべきなどと思案するより、先に思案すべきは、敵を切ることであると考えよ。
構えは場合により、有利な方をとれ、上中下は本構え、両脇にかまえるのは応用の構え。兵法の極意では,最善の構えは中段であると心得よ。中段は大将の座である。後の四つはこれに従う。
、よくよく研究せよ。


一 太刀の道と云ふ事
太刀には道筋がある。どういうものかというと、普段自分が差す太刀を二本の指で振った時判る。、太刀をどのように振るべきかということをよく知っていれば、自由に振れるものである。太刀を早く振ろうとするから、太刀の道筋に逆らって自由に振れなくなるのである。太刀は振りいいように、静かに、振る気持ちが大切である、扇、小刀のように、早く振ろうと思うから、太刀の道筋を誤って振れなくなるのである。そうのような振り方は、”小刀刻み”、といって、こんな太刀で人を切ることはできないものである。太刀を使う時は、上げやすいほうに上げ、横に振った時は、横に戻し、自在に、大きくヒジを伸ばし、強く振ることが太刀の道である。我が兵法の五つの基本をよく使いおぼえれば、太刀を振る道が決まり、振り易くなるのである。よくよく鍛錬しなければならない。


一 五つの表(基本)第一の次第の事
五つの基本型について、その第1。第1の構えは、中段を取り、太刀先を敵の顔に付ける、敵にでくわし、敵が太刀をうち掛ける時、太刀を右に外して押さえる。また敵がうちかけた時、切先返しでうち、うちおろした太刀をそのままにしておきながら、敵が打ってくれば、下から敵の手をうつ。これが第1の基本型である。全てこの5つの基本型を読んだだけでは、それが合点できるものではない。五つの基本型については、手にとって太刀の道を稽古するべきところである。、この5つの太刀筋によって、わが兵法の道を体得すると、自在に、敵の打ってくる時の道筋がわかるようになる。従ってわが二刀の太刀の構えには、五つよりほかはないと教える所以である。、よくよく鍛錬すべきである。

 

一 表第二の次第の事
第二の太刀の振り方は上段にかまえ、敵がうちかけてくるところを一気に打つのである。敵を打ちはずした時は太刀をそのまんまにし、敵がまたうち掛けてきたとごろを下たからすくい上げてうつ。もう1度うつ場合も同じである。この基本型においては、様様な心の持ち方やいろいろの拍子があり、この基本形によって我が流の鍛錬をすれば、五つの太刀の振り方をこまやかに体得して、どのようにも勝つことできる、よく、稽古しなければならない。


一 表第三の次第の事
第三の太刀の振り方は、下段に構えひき下げたような気持ちで、敵がうち掛けてきたところ、下から手をうつのである、手を打つところを敵はまた打ってくる。または、わが太刀をうち落とそうとする。そのタイミングの先を捉えて、敵の二の腕を横に切る気持ちである。下段で、敵の打ってくるところを一気に打ち止めてしまうことである。下段の構えは太刀筋を修練するのに、初心のときにも、鍛錬を積んだときにも、よく出会うものである。太刀をとって鍛錬すべきである。

 

一 表第四の次第の事
第四の構えは、左の脇に太刀を、横にかまえて敵がうち掛けてきた手を下から打たねばなぬ。下から打つのを、敵が我が太刀をうち落とそうとする。そこで、敵の手をうつ気持ちで、そのまま敵の太刀筋を受け、こんどは、自分の肩の上からハスカイに切る、これが太刀の振りようである、また敵がうちけてきたときにも、太刀の道筋で受けて、勝つことできる方法である、十分に研究しなければならない。

 

一 表第五の次第の事
第5は、太刀の構えは自分の右の脇に横にかまえて、敵がうち掛けてくるのを受け、我が太刀を横からハスカイに上段に振り上げ、上からまっすぐに切るのである。この振り方は、太刀の道をよく知るためのものである、この基本で、太刀を振りつけていれば、重い太刀も自由に振ることができるようになる。この5つの基本形については、細かく書きしるすことはできない。我が流の太刀の振り方をひと通り知り、拍子をこころえ、、敵の太刀筋を見分けることができるように、まず五つの太刀筋を日頃から鍛錬し、技を磨くことが肝要である。この太刀筋に習熟して、敵の心を見抜いては、様様な拍子で、どのようにも勝つことができるようになる、よくよく心得なければならん。

 

一 有構無構(構えがあって構えが無い)の教への事
構えがあって、構えがないというのは、太刀を構える形というものは、あるべきことではない。しかしながら5つの方向に向けることはかまえということもできる。太刀は敵の出方をきっかけとして、その場所により、状況に従い、臨機応変に、敵を切りやすいように構えることである。例えば上段も、場合によって、少し下げ気意味になれば中段となり、中段を、状況に応じてややあげれば上段となり、下段もときによって、少しあげれば、中段となる。また両脇の構えを位置によって、少し中の方へ出せば、中段、中段もまたは下段になるのである。このようなわけでかまえというものは、あってない理になる。ともかく太刀をとって、どんなことをしても、、敵を切ることが重要である。もし敵が切りかかってくる太刀を、あたる、ねばる、さわるなどいうことがあっても、それらは全て、敵を切るきっかけである、と心得よ。受けること、打つこと、あたること、さわることに思いが片寄るならば、敵を切ることはできなくなるであろ。何事も切るためのきっかけであるということ思うことが大切である、これをよく、よく検討しなければならない。大きな合戦ににあてはめてみれば、、軍勢を配置することが、構えにあたる、、これもすべて合戦に勝つ手段である。決まった形にとらわれることは悪いのである。よくよく、工夫すべきである。

 

一 敵を打に一拍子の打の事
敵を打つ拍子に、一拍子の打ちといって、敵とわれ等が太刀の届くほどところに位置をしめて、敵の心構えが出来ていない前に、自分の身も動かさず、気配もださず、素早く一気に打つ拍子がある。敵が太刀を引こう、外そう、打とう、、などと思う心が起こらないうちに打つ拍子が一拍子である。この拍子をよく習得し、、素早く打つことを、鍛錬しなければならぬ。


"二の腰の拍子"
"二の腰の拍子”というのは、自分がうちかかるタイミングで、敵が、いちはやく、はりのけ後退しときで、、敵が緊張した後のわずかな気のゆるみを見つけ、すかさず打つか、引いて出た気のゆるみをみつけを打つ。これが"二の腰の打ち”である、この書物だけでは、なかなか打つことはできないであろうが教え受ければ、たちまち、合点のいくところである。

 

”無念無想の打ち”
敵が打ちかかろうとし、われもをうち出そうとする。見も心も爆発しそうな緊張の一瞬。この瞬間、空の状態になり、鍛錬した身のこなしは(平常)心の命ずるまま打つのである。これを無念無想の打ちといって、最も大切な、うちでありしばしば出会ううちである、よくよく習得して鍛錬すべきである

 

”流水の打ち”
流水の打ち”とは敵と互角に競り合うとき、敵が早く引こう,早くはずそう、早く太刀をはねのけようとするのを、こちらは身も心も大きく保ち、太刀は体よりも遅く、いかにもゆっくりと、川の流れがよどんで静止するように、大きく打つ。
この打ちかたを習得すれば、確かに打ち良い、この時、敵の位置を良く見極めることが肝要である


一 石火の当りと云ふ事
"石火のあたり”とは、敵の太刀、と我が太刀とが接着し合う状態で、わが太刀を少しも上げることなく、はなはだ強く打つのである。これには足も強く、身も強く、手も強くして、その足と、身、手との3カ所の力を持って、早く打たなければならない、この打ち方はしばしば修練しなければ、打てないものである、よくよく鍛錬すれば強く打てるものである。

 

一 紅葉の打と云ふ事
"紅葉の打ち”とは、敵の太刀をたたき落としてしまうのだ。敵が中段に構え、打とう、たたこう、受けようとする時、自分は無念無想の打ち、あるいは、石火の打ち、などで敵の太刀を強くをうち、そのまま、敵の太刀をはねる気持ちで、切っ先を押し下げつつ打つならば、必ず敵の太刀は落ちるものである。このうちは鍛錬すれば、敵の、太刀を打ち落とすことは容易である。よくよく稽古しなければならない。


一 太刀に代はる身と云ふ事
”太刀にかわる身”。ということは”身にかわる太刀”といってもよい。敵を打つ場合に、わが太刀もわが身も、いっしょに動かして打ってかかっていく事は無いものである。敵の状態に応じてまずわが身を打ち込む態勢とし、太刀はそれに構わずして、敵に打ち込むのである
。もしくは身はそのままの態勢で、まず太刀によって打つこともあるが大抵の場合は身をまず打つ態勢にし、太刀はこれに従って打っていくものである。よくよく研究して打つ修練をつまなければならぬ。

 

一 打と当ると云ふ事
"打つ”ということ”『あたる』ということは別のものである。打つというのは、どのような打ち方でも、意識的に確実に打つということをいう。あたるというのは進んでいったところ突き当たったという心持ちで、非常に強くあたったとし、敵がたちまち死ぬほどあたっても、これはあたりなのである。打つというのは、意識的に打つことである。この点をよくよく調べてみなければならぬ。
敵の手でも足でもあたるというのはまずあたることである。それはあたってから強く打つためである。あたるとはさわるというほどのことである。よく習得するならば、これは別々のことであることがわかる。工夫すべきである。


一 しゅうこうの身と云ふ事
”秋(さる)猴身”とは、手を出さないという心持ちである。敵にわが身を寄せていくとき少しも手を出す心を持たず、敵が打つより早くへ身を寄せていくことである。手を出そうと思えば必ずには遠のいてしまうものであるから全身を素早く敵に寄せてしまうことである。互いに手の届くほどの間合ならば、身を寄せてしまうことも容易である。よくよく調べなければならぬ


一 しっかうの入身と云ふ事
”漆膠の身”とは漆膠をつけたように、敵の身に我が身を密着させて離れぬことである。敵の身に近づくとき、頭も、身も足もすべてへぴったりとよせ付ける、大抵の人は顔や足は速く寄せ付けても、とかく身だけは後に残るものである。敵の身にわが身をよくつけ、少しも身にすき間のない様に付けるものである。よくよく検討すべきである。


一 たけくらべと云ふ事
たけくらべ”というのは身の丈比べで、敵に身を寄せたとき、わが身が縮まないないようにして、足も腰も首も十分に伸ばし、敵の顔と自分の顔を並べ、背丈を比べれば、自分の方が勝つと思うほどに身を十分に伸ばし気でも押し、強く入ることが肝心である。よくよく工夫しなければならぬ。


一 ねばりをかくると云ふ事
粘り掛けるのだ!自分の太刀を敵の太刀につけて、離れないような気持ちで、身を入れることを言う。ねばるとは、太刀が容易に離れるようにする心持ちであり、あまり強くすぎない気持ちで入り込まねばならぬ。敵の太刀につけてねばり掛けて入り込むときにはどれだけ静かに身を入れてもよい。ねばるということと、もつれるということは違うことであり。ねばるのは強いが、もつれるのは弱い。このことをよくわきまえよ。


一 身のあたりと云ふ事
身あたりとは、敵の間際に入り込み、身で敵にあたることである。自分の顔をややそむけ、自分の左の肩を出し、敵の胸に突き当たるのである。ぶち当たって跳ね飛ばすき気概で、はずむように懐に入るのである。こうして入ることに修練を詰めば、敵を2間も3間もふっとばすほど強力となるものである。敵が死にそうになるまで、あたるものである。よくよく鍛錬せよ

三つの受けの事
三つの受け方というのは敵に入り込むのである。敵がうち出す太刀を受け、自分の太刀で敵の目を突く、敵の太刀を自分の右に外し入る。また、突きうけで、敵が打ってくる太刀を敵の右の目をつくようにして、首をはさむような心持ちで、突きかけ入る、又打かかってくるとき、短い太刀で受け、太刀はそれほど気にせず、左の手で、敵の顔をつくようにして入り込むのである。以上が3つの受け方であるが、いずれも左の手をにぎり、その拳で敵の顔をつくようにして入る。よくよく鍛錬せよ。

 

一 おもてをさすと云ふ事
顔を差すというのは、立会いのときに、たえず敵の顔を自分の刀の先でつく気持ちでいることである。気を前にだし、敵の顔を突き刺そうという心があれば、敵は顔も体ものけぞるようになる。敵が、顔や体身をのけぞらせれば、勝つチャンスが膨らむ。よくよく工夫せよ。戦いの間に、敵が身のけぞらせるような状態になれば、もはや勝利である。従って顔を差すことを忘れてはならない。兵法を稽古をする間に、この気の持ち方をよく鍛錬すべきである。


一 心をさすと云ふ事
心臓を刺すというのは、戦い中で、上がつかえ、脇もつかえているようなところで、切ることがどうしてもできない時、敵をつくことである。わが太刀の峰をまっすぐに敵に見せ、切先を下げ、太刀先がいがまないように引いておいて、敵の胸を突くのである。もし自分が疲れきった時あるいは刀が切れないようになったときには、。この方法をもっぱら用いるようにする。よくわかっていなければならぬ。

一 喝咄と云ふ事
”喝””咄”というのは、打ちかかり敵を押し込む時、敵がうち返し、跳ね返す時、下から刀を突き上げ、返す刀でを打つ。どちらも早い拍子で、喝とうち、咄と突き上げ、”喝咄”と打つ呼吸である。この拍子はいつも打ち合の際にはよく出会うものである。喝と咄のやり方は、刀の切先をあげるようにして敵をつく、刀を上げると同時に一気に打つ拍子である。よく稽古し調べてみなければならないことである。

一 はり受と云ふ事
はりうけとは敵と打ちあうとき、”とたんどたん”というような拍子で、敵が打ってくるのを自分の太刀ではたいて置いて打つことである。
はたくということはさして強くはたくものではなく、また受けるものでもない。敵が打ってくる太刀をはたき、敵を制して打つことである。はたくことによって先手を取り、先手を取って打つことが肝心である。はたく拍子が上手になると敵がどんなに強く打っても、少しでもはたく気さえあれば、こちらの太刀先が落ちることはない充分に習得して調べなければなら
ない。


一 多敵の位の事
多敵の位というのは、こちらは1人で大勢の敵と戦うときのことである。我が太刀と脇差を抜いて左右に広げ、構えるのである。敵が四方からかかってきても、一方へ追い回す気概である。敵がかかってくる位置、前後の気配をよく見抜いて、先にくるものとまず戦い、大きな全体の動きに目の配り、敵がうちかかってくる位置を心得、左右の刀を振り違える。切り下ろし、戻す刀で脇の敵を切る気概で、素早く太刀を両脇の態勢にもどす。敵が出てきたところを強く切り込み、打ち崩し、そのまま敵が出てくるの打ちかかり、打ち崩していくことである。大切なことは、一方から魚ツナガリの敵をを追い込むような心持ちでかかり、敵の隊列が乱れて、重なりあったと見たら、そのまま間はおかないで強く打ち込むのである。敵が固まっているところを真正面からまともに追い回せば、はかがいかない。また敵が出てきたところを、打とうとすれば、こちらが後手になってはかが行かない。敵の打ちかかる拍子を受けて、崩れる拍子を知り勝利を得ることである。折りに触れて大勢よせ集め、これを追い込む方法に習熟してその確信を得れば、1人の敵も10人20人の敵も冷静に戦えるものであるよくよく稽古して調べるべきである。

 

一 打あひの利の事
”打ち合いの利”ということ。(打ち合いで勝ちを収める道理)自得することである。細かには書き切れせることではない。よくよく稽古して勝利への道を知るべきである。全て兵法の真の道を表すは太刀である。口伝である。


一 一つの打と云ふ事
決闘に向かったら,確実に勝利を得ることである。しかし、これは兵法を十分に学ばなければその道を体得することはできない。このことをよくよく鍛錬すれば、兵法をこころのままに行うことができるようになり、思うとうりに勝利を得ることができる。よくよく稽古すべきである。

 

一 直通の位といふ事
直通の心というのは二刀一流の真実の極意を受けて伝えるものである。よくよく鍛錬してこの兵法の道を身につけることが肝要である。口伝である。


二天一流の剣術の概要をこの巻で述べた。兵法に従って太刀を取り、相手に勝つ道を会得するには、まず五つの基本形で、五方の構えを知り、太刀の使い方ををおぼえ、全身が柔らかになり、心を反応させ、従い、兵法の拍子を掴み、ひとりでに太刀も手さばきも冴えて、身も足も自然に円滑に動き、自由自在になる。それに従って、1人に勝ち。2人に勝ち。兵法における善悪がわかるようになり。この書物内容を、1か条1か条稽古して。敵と戦い、次第次第に兵法の利を会得するのである。
このことをいつも心掛けながら、しかも急がず、おりにふれて闘って、そのこつをおぼえ、どんな人と打ち合っても相手の心を知っておくのである。
千里の道も一歩ずつ運ぶのである、ゆっくりと気長に取り組み、この兵法の道を修業をすることは武士の務めであると心得て、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下手なものに勝つ。つぎには自分より上手なものに勝つと思い、この書物の通りに鍛錬を積み少しもわき道に心を迷わさないように考えよ。
たとえどんな敵にうち勝っても、一流に反するような勝ち方では、実の道ではない。この一流の道理を念頭に置き、一人で数十人の敵にも勝つ心得も忘れてはならない。そうなればあとは、実の知識と実践によって、多人数の時も、1対1の決闘のことも会得することができるであろう。千日の稽古を鍛といい。万日の稽古を錬というのである。よくよく調べるべきことである