日本人の精神性
戦前の日本は現在の都市部の生活からは想像出来ないほど、共同体意識が強かった。
引越しなどの移動が現在ほど多くなかった戦前の日本は、代々その土地に住み、血縁地縁で深く結びついた社会だった。誰もが郷土に対する強い意識をもち、国際的にもトップクラスの教育によって、これまで先人が築いてきた日本の歴史を知ったいた。最も近親である父母妻子、それを拡大した郷土、さらには郷土を内包する国、これらすべてを象徴する天皇。
彼ら戦前の日本人に共通してみられるのは、この家族同様に国を認識する高い公共性と、先人から受け継いできた日本を次世代へと受け継いだ使命感だ。
今を生きる私達はこの精神性を受け継がねばならぬ。この精神性を見失えば2500年以上も続いた国の根幹が揺らぐ。
精神性を受け継ぐ為には真実を学び日本の日本人の道を知り歩まねばならない。
先の大戦で我が国は初めて戦争に負け、強すぎたためにGHQより自虐史観とプロパガンダを植え付けられた。ただ、我が日本国民には、それを撥ねつける潜在能力が備わっている。
今はネットの時代だ。マスメディアが流す情報で腑に落ちぬ事があれば調べる事ができる。
日本人の精神性を理解できれば日本国は永遠に続くと確信する。
お帰りなさいコンサート
横田めぐみさんの同級生の会、代表
池田正樹氏のFacebookを転用します。
当時13歳だった横田めぐみさんは53歳になっています。
横田めぐみさんのご両親にとって、この40年間の年月は如何なるものであったのか。
横田 滋さん1932年生まれ
妻、早紀江さん1936年生まれ
横田めぐみさんのご両親もご高齢になりました。
今年こそはと願っております。
以下から池田正樹氏のFacebook転用です。
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横田めぐみさんとの再会を誓って同級生たちで毎年、コンサートを開催しています。
今年、下記のように新潟県民会館を
『お帰りなさいコンサート』として予約しました。お越し頂けますでしょうか。
■日時
2017年10月8日(日)
13時開場 14時開演
■会場
新潟県民会館小ホール
■金額
前売券 2000円
当日券 2500円
*売上金は会場費等の必要最低限の経費を
除いて横田めぐみ基金として
御両親にお渡しします。
■内容
メッセージ
横田早紀江さん
拉致問題担当大臣
国会議員、知事、市長 等
拉致被害者救出を願う歌
翼をください 同級生たちによる合唱
*拉致される四ヶ月前に
横田さんと合唱した曲
三島由紀夫が号泣した英霊の遺書
三島由紀夫は自決に先立つ、一か月前の昭和45年10月広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。
全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島は声を出して泣いたそうです。
それは昭和20年5月神雷部隊として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した古谷眞二少佐の残した遺書でした。
三島由紀夫はこの遺書を読んで
「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」
と言って号泣したそうです。
命がけのその遺書は戦後日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になる三島由紀夫をもかなわなかったそうです。
僕らの父や祖父が守り抜いたもの。。。
僕らが今の世に生きている事の意味を考えなければならぬ時だと思います。
ではその遺書を下記に紹介します。
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皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。
ものごころついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮 身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。
過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。
御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。
不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。
幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。
死すること強ち(あながち)忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。
萬事頼む。
眞二
十八年六月十日
箱根小涌谷にてしたゝむ
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古谷 眞二 少佐(ふるや しんじ)
(経歴)
1922年2月24日 ~1945年5月11日
大日本帝国海軍軍人
1922年2月24日に東京都で生まれる。
慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。
卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。
訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。
1945年に菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して南西諸島へ向かう。
「最期の血の一滴まで戦うのだ!」
と部下に命じ、自らは米国敵艦二艦に特攻・散華、二艦とも撃沈するという多大なる戦功を挙げた。
享年23歳。
戦艦 長門
戦艦長門(ながと)は長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で長門型戦艦の1番艦である。
大東亜戦前は日本海軍の象徴として親しまれた。敗戦後はアメリカ軍に接収され、原爆実験の標的艦となり沈没した。
大東亜戦争後、長門はアメリカ軍の核実験「クロスロード作戦」に標的艦として使用された。二度も被爆しながらも4日後まで沈まなかった事は、当時の日本で長門が名鑑であり、日本の造船、造艦技術が優秀である事の証明だ。
戦艦長門はビキニ環礁で全長220メートルもの体躯を海底によこたわらせている。
長門の船体はダイビングスポットとして貴重な環境拠点となっているものの、核実験の放射線の影響の為、艦体に直接ダイバーが触れる事は許可されていない。現状は上下逆さまで沈んでおり艦橋部分は折れている。
千人針(せんにんばり)
千人針(せんにんばり)は戦前まで日本でさかんに行われた、多くの女性が一枚の布に糸を縫い付けて結び目を作る祈念の手法、および出来上がったお守りの事です。
武運長久、つまり兵士の戦場での幸運を祈る日本人女性の祈りが込められています。
千人針の画像をいくつか紹介します。
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桜花に忠誠の文字がある。
腹巻形もの
昭和13年5月25日、都城歩兵第23連隊入営時贈られたもの
武運長久の文字
関 行男 中佐
関 行男 中佐(せき ゆきお)
1921年8月29日 生まれ~1944年10月25日は、日本の海軍軍人である。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。
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神風特攻隊の一番機として出撃し、昭和19年10月25日にレイテ沖海戦で米護衛空母「セント・ロー」に体当たりして海に散った関 行男中佐、当時(23)が家族らに宛てた遺書を現代訳にて紹介します。
✼戦争賛美などの気持ちは全く有りません。それは当時も今も同じだと思います。それに至った経緯や日本人の気概を皆さまに考えて頂きたいと思います。
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―――両親宛―――
父上様、母上様
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に
―――(妻宛)―――
満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ
御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ
*恵美ちゃん坊主は妻の妹の事です
―――教官時代の教え子宛―――
教へ子へ
教へ子よ散れ山桜此の如くに
軍神 広瀬武夫中佐
広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年生まれの岡藩(大分県竹田市)藩の出身です。
広瀬武夫中佐は、幼少時に母親が亡くなったため、お婆ちゃんに育てられたそうです。
明治にはいり、西南戦争で家が焼失したため、一家は飛騨の高山へ引っ越しました。
小学校を卒業した広瀬中佐は、地元で小学校の教師などをしていたのですが、猛勉強して、明治18(1885)年には、17歳で海軍兵学校に入学しました。
柔道を講道館で学び、有段者紅白戦では、五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。
海軍兵学校時代の広瀬中佐に逸話があります。
中佐は大運動会のマラソンのとき、左足が骨膜炎で、左足切断を宣告されるまで至りながら、見事完走しているのです。
でも何事も貫く事を信条としていました。
卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、その訓練の途中、中佐を含む50名程度の海軍見習い士官が、駿河(静岡県)の清水港に上陸しました。
そこで彼らは、侠客・清水次郎長親分を訪ねています。やってきた一同をジロリと見渡した次郎長親分は
「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」
と、一同をけしかけました。
このあたりが、親分の意地の悪いところです。
そうやってけしかけて、男を探そうとしたのです。そうと知った広瀬中佐は、前に出て
「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやる。びっくりするな!」
と、いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴り出したのです。これには次郎長も感心し
「なるほど、お前さんは男らしい」
と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。
明治30(1897)年、広瀬中佐は、ロシアに駐在武官として赴任しまし、明治33(1900)年には、少佐に昇進します。
そして1904年(明治37年)2月8日に日露戦争が始まります。
東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
それは、旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦でした。
作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は
「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」
と作戦に反対しました。
この二人が、会議で意見が対立しました。
あくまでも閉塞作戦に反対する秋山参謀、断固実施すべしとする広瀬中佐。
会議は、広瀬中佐の
「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない。」
というひとことで、ついに旅順港閉塞作戦は実施と決まりました。
しかし第一回の閉塞作戦は失敗しました。
第二回の作戦は、明治27(1904)年3月27日に実施されました。
投入された艦は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の四隻です。
そして「福井丸」に、広瀬中佐が艦長として搭乗しました。
実行の三日前、秋山真之が旗艦三笠から、福井丸の広瀬中佐のもとに出向きました。
秋山参謀は、友でもある広瀬中佐に
「敵の砲撃が激しくなったら、必ず引き返せ」
と迫りました。作戦はもちろん成功させたい。
しかし、友を決して死なせたくなかったからです。
旅順港閉塞いよいよ決行の日となりました。
ところが、近づいたところをロシアの哨戒艇に発見されてしまい、サーチライトを浴びます。
照明に照らされた千代丸に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
集中砲火を受けた千代丸は、湾の入り口の南東、海岸から100メートルの地点に沈んでしまいます。
次鋒は弥彦丸でした。
弥彦丸は、湾の入り口手前まで近づきますが、猛烈な砲火を浴び、旅順港の入り口に対して、縦に沈んでしまいます。
また失敗です。
続けて猛烈な砲火の中、副将の米山丸が湾の入り口に進み、弥彦丸と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
これで港の入り口は、ようやく半分がふさがりました。
けれど、まだ閉塞は実現していません。
「なにがなんでも、湾を塞がねばならぬ」
世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきています。日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍はせん滅させられてしまうのです。
広瀬は、最後の福井丸を駆って旅順港の入り口に向かいました。
残り半分をどうしても塞がねばならないからです。
敵のサーチライトを浴びました。
丘から砲弾が矢のように飛んできます。
福井丸は、ようやく湾の入り口に到達しました。
福井丸は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとります。
あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
あとすこし、あとすこしです。
ところがそのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、福井丸の船首に命中しました。
その一撃で、福井丸の船首は、こなごなに、吹き飛ばされてしまいます。
福井丸は、船首から海に沈み始めます。
艦の操船不能。もはやこれまで。
広瀬中佐は、救命ボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。
「俺が捜すっ!」
広瀬中佐は、ひとり上甲板に戻りました。
敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
丘に近いのです。銃弾も飛んできます。
砲弾も飛来する。
艦は浸水し、沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
艦の沈没の渦に巻き込まれたら、命はありません。
「杉野~!、杉野はいいるか~!!、杉野はどこだ~!!」
これまで、厳しい訓練に耐え、寝食を共にしてきた可愛い部下です。
決して決して死なせるわけにはいかない。
無事に連れて帰りたい。
広瀬中佐は、必死に杉野兵曹をさがしましたあ。
しかし杉野上等兵曹は見つかりません。
やむなく広瀬中佐は、福井丸が海にのみ込まれようとする、ぎりぎりになって、ボートに乗り移りました。
そしてボートが、六挺身ほど離れたころで、福井丸の爆薬に点火しました。
半ば沈んだ福井丸が大爆発を起こします。
福井丸の爆発によって、救命艇が、敵の前にさらけ出されます。
そこをめがけて、敵弾が飛んで来きます。
場所は湾の入り口のすぐそばです。
広瀬中佐は、他の乗組員に
「頭を下げろ〜!」
と大声で命令し、自分も頭を低くしました。
けれど、広瀬中佐は艦長です。
そしてこの作戦の指揮官でもあります。
戦況を、きちんと確認しておかなければならない。
広瀬中佐は、銃弾の中で顔をあげました。
そのときです。
広瀬中佐の頭部に敵の銃弾が命中したのです。
中佐の頭が吹き飛びました。
身体が海中に落ちました。
「艦長~~!!艦長~~!!」
日ごろから広瀬中佐を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。
その模様を、朝日艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には
「頭部に撃たる海中に墜落」
と書かれています。
また明治天皇紀には
「一片の肉塊を残して海中に墜落」
と書かれています。
広瀬中佐が敵弾の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめたそうです。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示されます。
広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
遺体はロシア軍によって埋葬されました。
広瀬武夫柱、享年36歳でした。
広瀬中佐は、翌日、一階級昇進によって中佐になりました。
そして「軍神」となりました。
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戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
しかし皆さん広瀬中佐の話をどう感じるでしょうか。
軍神広瀬中佐は部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にして部下の姿を追い求めました。
そういう広瀬中佐の、日ごろからの人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気が、多くの人々に、愛され、尊敬されたのです。
だからこそ、広瀬中佐は「軍神」とされたのです。
正々堂々と清々しく生き、危険や苦難に際しても部下への気遣いを忘れない。
一源三流
これを実践した人が軍神となりました。
僕たちは先人のその様な気概を学び実践し、そして子供達に伝える事が大切であると深く思います。