関 行男 中佐
関 行男 中佐(せき ゆきお)
1921年8月29日 生まれ~1944年10月25日は、日本の海軍軍人である。レイテ沖海戦において、初の神風特別攻撃隊の一隊である「敷島隊」の隊長として特攻し、アメリカ海軍の護衛空母セント・ローを撃沈したことで、死後「敷島隊五軍神」の1人として顕彰された。
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神風特攻隊の一番機として出撃し、昭和19年10月25日にレイテ沖海戦で米護衛空母「セント・ロー」に体当たりして海に散った関 行男中佐、当時(23)が家族らに宛てた遺書を現代訳にて紹介します。
✼戦争賛美などの気持ちは全く有りません。それは当時も今も同じだと思います。それに至った経緯や日本人の気概を皆さまに考えて頂きたいと思います。
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―――両親宛―――
父上様、母上様
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以て母艦に体当たりを行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に
―――(妻宛)―――
満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ
御両親様に孝養を専一と心掛け生活して行く様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ
*恵美ちゃん坊主は妻の妹の事です
―――教官時代の教え子宛―――
教へ子へ
教へ子よ散れ山桜此の如くに
軍神 広瀬武夫中佐
広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年生まれの岡藩(大分県竹田市)藩の出身です。
広瀬武夫中佐は、幼少時に母親が亡くなったため、お婆ちゃんに育てられたそうです。
明治にはいり、西南戦争で家が焼失したため、一家は飛騨の高山へ引っ越しました。
小学校を卒業した広瀬中佐は、地元で小学校の教師などをしていたのですが、猛勉強して、明治18(1885)年には、17歳で海軍兵学校に入学しました。
柔道を講道館で学び、有段者紅白戦では、五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。
海軍兵学校時代の広瀬中佐に逸話があります。
中佐は大運動会のマラソンのとき、左足が骨膜炎で、左足切断を宣告されるまで至りながら、見事完走しているのです。
でも何事も貫く事を信条としていました。
卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、その訓練の途中、中佐を含む50名程度の海軍見習い士官が、駿河(静岡県)の清水港に上陸しました。
そこで彼らは、侠客・清水次郎長親分を訪ねています。やってきた一同をジロリと見渡した次郎長親分は
「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」
と、一同をけしかけました。
このあたりが、親分の意地の悪いところです。
そうやってけしかけて、男を探そうとしたのです。そうと知った広瀬中佐は、前に出て
「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやる。びっくりするな!」
と、いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴り出したのです。これには次郎長も感心し
「なるほど、お前さんは男らしい」
と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。
明治30(1897)年、広瀬中佐は、ロシアに駐在武官として赴任しまし、明治33(1900)年には、少佐に昇進します。
そして1904年(明治37年)2月8日に日露戦争が始まります。
東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
それは、旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦でした。
作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は
「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」
と作戦に反対しました。
この二人が、会議で意見が対立しました。
あくまでも閉塞作戦に反対する秋山参謀、断固実施すべしとする広瀬中佐。
会議は、広瀬中佐の
「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない。」
というひとことで、ついに旅順港閉塞作戦は実施と決まりました。
しかし第一回の閉塞作戦は失敗しました。
第二回の作戦は、明治27(1904)年3月27日に実施されました。
投入された艦は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の四隻です。
そして「福井丸」に、広瀬中佐が艦長として搭乗しました。
実行の三日前、秋山真之が旗艦三笠から、福井丸の広瀬中佐のもとに出向きました。
秋山参謀は、友でもある広瀬中佐に
「敵の砲撃が激しくなったら、必ず引き返せ」
と迫りました。作戦はもちろん成功させたい。
しかし、友を決して死なせたくなかったからです。
旅順港閉塞いよいよ決行の日となりました。
ところが、近づいたところをロシアの哨戒艇に発見されてしまい、サーチライトを浴びます。
照明に照らされた千代丸に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
集中砲火を受けた千代丸は、湾の入り口の南東、海岸から100メートルの地点に沈んでしまいます。
次鋒は弥彦丸でした。
弥彦丸は、湾の入り口手前まで近づきますが、猛烈な砲火を浴び、旅順港の入り口に対して、縦に沈んでしまいます。
また失敗です。
続けて猛烈な砲火の中、副将の米山丸が湾の入り口に進み、弥彦丸と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
これで港の入り口は、ようやく半分がふさがりました。
けれど、まだ閉塞は実現していません。
「なにがなんでも、湾を塞がねばならぬ」
世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきています。日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍はせん滅させられてしまうのです。
広瀬は、最後の福井丸を駆って旅順港の入り口に向かいました。
残り半分をどうしても塞がねばならないからです。
敵のサーチライトを浴びました。
丘から砲弾が矢のように飛んできます。
福井丸は、ようやく湾の入り口に到達しました。
福井丸は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとります。
あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
あとすこし、あとすこしです。
ところがそのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、福井丸の船首に命中しました。
その一撃で、福井丸の船首は、こなごなに、吹き飛ばされてしまいます。
福井丸は、船首から海に沈み始めます。
艦の操船不能。もはやこれまで。
広瀬中佐は、救命ボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。
「俺が捜すっ!」
広瀬中佐は、ひとり上甲板に戻りました。
敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
丘に近いのです。銃弾も飛んできます。
砲弾も飛来する。
艦は浸水し、沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
艦の沈没の渦に巻き込まれたら、命はありません。
「杉野~!、杉野はいいるか~!!、杉野はどこだ~!!」
これまで、厳しい訓練に耐え、寝食を共にしてきた可愛い部下です。
決して決して死なせるわけにはいかない。
無事に連れて帰りたい。
広瀬中佐は、必死に杉野兵曹をさがしましたあ。
しかし杉野上等兵曹は見つかりません。
やむなく広瀬中佐は、福井丸が海にのみ込まれようとする、ぎりぎりになって、ボートに乗り移りました。
そしてボートが、六挺身ほど離れたころで、福井丸の爆薬に点火しました。
半ば沈んだ福井丸が大爆発を起こします。
福井丸の爆発によって、救命艇が、敵の前にさらけ出されます。
そこをめがけて、敵弾が飛んで来きます。
場所は湾の入り口のすぐそばです。
広瀬中佐は、他の乗組員に
「頭を下げろ〜!」
と大声で命令し、自分も頭を低くしました。
けれど、広瀬中佐は艦長です。
そしてこの作戦の指揮官でもあります。
戦況を、きちんと確認しておかなければならない。
広瀬中佐は、銃弾の中で顔をあげました。
そのときです。
広瀬中佐の頭部に敵の銃弾が命中したのです。
中佐の頭が吹き飛びました。
身体が海中に落ちました。
「艦長~~!!艦長~~!!」
日ごろから広瀬中佐を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。
その模様を、朝日艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には
「頭部に撃たる海中に墜落」
と書かれています。
また明治天皇紀には
「一片の肉塊を残して海中に墜落」
と書かれています。
広瀬中佐が敵弾の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめたそうです。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示されます。
広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
遺体はロシア軍によって埋葬されました。
広瀬武夫柱、享年36歳でした。
広瀬中佐は、翌日、一階級昇進によって中佐になりました。
そして「軍神」となりました。
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戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
しかし皆さん広瀬中佐の話をどう感じるでしょうか。
軍神広瀬中佐は部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にして部下の姿を追い求めました。
そういう広瀬中佐の、日ごろからの人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気が、多くの人々に、愛され、尊敬されたのです。
だからこそ、広瀬中佐は「軍神」とされたのです。
正々堂々と清々しく生き、危険や苦難に際しても部下への気遣いを忘れない。
一源三流
これを実践した人が軍神となりました。
僕たちは先人のその様な気概を学び実践し、そして子供達に伝える事が大切であると深く思います。
愛國行進曲
愛國行進曲
作詞:森川 幸雄作曲:瀬戸口 藤吉
1番
見よ東海の空明けて旭日高く輝けば
天地の正気(せいき)潑溂(はつらつ)と
希望は踊る大八洲(おおやしま)
おお晴朗(せいろう)の朝雲に
聳(そび)ゆる富士の姿こそ
金甌(きんおう)無欠(むけつ)揺るぎなき
わが日本の誇りなれ
2番
起て(たて)一系の大君(おおきみ)を
光と永久(とわ)に頂きて臣民(しんみん)我等皆共に御稜威(みいつ)に副(そ)はむ大使命
往け(いけ)八紘(はっこう)を宇(いえ)となし四海(しかい)の人を導きて
正しき平和打ち立てむ理想は花と咲き薫る
3番
今、幾度(いくたび)か我が上に試練の嵐哮(たけ)るとも
断乎(だんこ)と守れその正義、進まむ道は一つのみ
嗚呼(ああ)悠遠(ゆうえん)の神代(かみよ)より
轟く(とどろく)歩調受け継ぎて
大行進の行く彼方
皇国、常(つね)に栄えあれ
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【正気】(せいき)・・・文天祥の「正気歌」に由来。藤田東湖の「天地正大気、粋然鍾神州」ではじまる「正気歌」は有名で、1943年の学徒出陣壮行式では東条首相もこれを引用している。
【大八洲】・・・記紀にみえる、国生みで生じた8つの島。転じて日本の意味。
【金甌無欠】・・・国威精強で外襲を受けないことの喩え。
【一系】・・・万世一系概念。
【往け八紘を宇となし】・・・神武紀に由来。「掩八紘而為宇不亦可乎」。ここから「八紘一宇」という子供が田中智学によってつくられた。
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愛國行進曲は内閣情報部が国民精神総動員を目的として公募した国民歌です。
1937(昭和12)年9月25日に先ず歌詞の募集が行われました。同年10月20日の締め切りまでに5万7500余首もの詩が集まりました。国内のみならず、外地や外国、前線兵士からの応募もあったといいます。
最終的にその中から鳥取県西伯郡の森川幸雄の詩が選ばれました。
内閣情報部は当選歌詞を発表すると同時に、今度は「愛国行進曲作曲懸賞募集」を発表し、曲を募集しました。
同年11月30日の締切までに今度は9555篇が集まり、12月20日その中より「軍艦行進曲」を手がけた瀬戸口藤吉の作品が選ばれました。
こうして大々的に「愛国行進曲」は製作され「国民が永遠に愛唱し得べき国民歌」とするために、レコード各社も音盤化に総力をあげました。
翌1938年1月にレコード会社各社から一斉にレコードが発売されます。各社とも人気歌手に続々と吹き込ませた結果、レコードの類型売り上げ枚数は100万枚を越えました。
永野修身元帥
永野修身元帥
永野修身は土佐の人です。
一番尊敬していた人が、同郷の坂本龍馬だったそうです。
明治13(1890)年のお生まれで、高知海南中学(現・高知県立高知小津高等学校)を卒業後、海軍兵学校に入学しています。
兵学校では、入学時、卒業時とも成績は2番で大変優秀な方でした。
24歳のときに、日露戦争を戦い、その後、旅順旅順要塞攻撃の海軍陸戦重砲隊の中隊長に任官しています。
日露戦争で日本軍が、戦死者約5050名、負傷者約1万6930名という莫大な損害を出してまで旅順要塞を攻略したのには、理由があります。
旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を、なんとしても殲滅しなければならなかったのです。
旅順要塞の先にある山を越せば、旅順港は眼下に見下ろせます。
そこからなら、百発百中で、港にいるロシア艦隊を沈めることができます。
旅順港にいるロシア艦隊を陸路から攻撃するためには、要塞陥落後、艦を砲撃できるだけの大型の大砲を、艦隊を見下ろす位置まで、運ばなくてはなりませんが運ぶための道も時間もありません。
悠長なことをしていたら、旅順港にいるロシア艦隊は、日本がのんびりと道を造っている間に、とっとと逃げ出してしまいます。
旅順港のロシア艦隊と、バルチック艦隊が合流したら、もはや日本海軍に勝算等はありません。
なぜならロシアの戦力が倍になるからです。
日本海軍が負けたらどうなるか。
日本は制海権を失います。
すると、大陸にいる日本陸軍は退路を断たれます。
補給が失われ、ロシアの大軍の前に全滅の危機を迎えることになります。
日本としては、何が何でも、旅順港にいるロシア艦隊が「動き出す前に」これを撃滅しなければならなかったのです。
世界最強た旅順要塞の守備に安心しきっていたロシアの旅順港の艦隊は、エンジンを切っていました。
まさかの展開で、要塞が陥落すると、ロシア艦隊は、慌てて海上に艦を逃れさせようとしましたが当時の戦艦は、蒸気エンジンです。
エンジンをかけ、旅順港から出発できるまでには、ほぼ12時間がかかります。
逆にいえば、12時間以内に日本は、ロシア艦隊への砲撃を実現しなければならないのです。
けれど、砲撃ができる位置に大砲を運ぶには、山の木を伐り、道を造り、大砲を所定の位置まで移動させるのに、どんなに急いでも、最低でも3日以上かかります。
それでは、ロシア艦隊は逃げてしまいます。
ロシア艦隊を逃がしたら、なんのために多大な命を犠牲にして旅順要塞戦を戦ったかわからなくなってします。
「サァ、どうしようか」
となったとき、ひとりの若い海軍重砲隊の中隊長が提案を出します。
その若い中隊長の案は採用となりました。
若き日の永野修身です。
どういう案かというと、二〇三高地から着弾地点を観測し、敵艦の座標をもとにして、無線連絡で着弾点を補正し、命中させる、というものです。
当時の無線通信技術は、まだトンツートントンのモールス信号です。
そのトンツートントンだけで、リアルタイムに着弾点の補正をする。
大砲の方位と角度を微妙に調整し、火薬の量を調整し、正確に命中させる。
発射した大砲の弾の着弾地点を見て、具体的に方位何度、仰角何度修正、しかもその修正をモールス信号で無線で知らせ、その上で「撃て~!」とやるわけです。
そしてこのとき、最前線で着弾地点の観測した永野は、瞬時にこの方位、仰角の修正角を暗算し、修正角を無線で指示しています。
後方で大砲を撃つ砲術班は、その指示通りに、見えない敵艦をめがけて、大砲を発射する。
永野の指示した弾は、ことごとく命中したといいます。
まさに鍛え抜かれた、プロの匠み技だったわけです。
本当に凄いですね٩(^ᴗ^)۶
後年、永野修身は、海軍軍令部総長にまで栄達します。
けれど彼は、単に頭がよく、人柄も良くて、体力、気力にも恵まれ、軍事に関する技量にも恵まれていたというわけではだけではありません。
若い頃から常に才能を磨き、新しい技術に挑戦し、工夫し、改善し、周囲の者と協調し、これを実現にまで漕ぎ着けるだけの徳を持っていました。
また永野は若い頃からたいへんに義侠心が強かったそうです。
一時は清水次郎長一家に本気で弟子入りしようとしています。
侠気がある、ということは、人の悲しみや辛さをわが事として理解し、同苦し、一緒に泣き、一緒に笑う男気がある、ということです。
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昭和16(1941)年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開かれました。
その席で昭和天皇は
「外交が主か、戦争が主か」
と閣僚たちに尋ねられました。
及川海相が
「重点は外交にある」
と答えました。
すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられました。
「よもの海 みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ」
明治天皇の御製です。
四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。
昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかったといいます。
しばらくの間、誰もがうつむいてしまい、言葉を発することができなかったのです。
言えないです。
陛下が平和を望むお気持ちを、閣僚たちは全員、痛いほどわかっているのです。
けれど、米国の日本に対する戦争への挑発は、もはや引き返すことのできない所まできている。
それでも尚、平和を、和平を、外交による事態の好転をと昭和天皇はもとめられたのです。
昭和天皇は、その万感の思いを、明治大帝のお歌に託されたのです。
陛下の前で「それでも戦争せざるをえないです」などと、誰が言えましょう。
言おうとしたら、涙がとめどなくあふれてしまう。
まともに言葉なんて話せなくなる。
このとき、日本を代表する英才であり、すべての情報を知り尽くした日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、涙をこらえるしかなかったのです。
日本はそこまで追いつめられていました。
当時の閣僚たちは、いまの内閣のように、昨日までただの市民運動家だった者が、なにかの弾みで大臣や総理になったような人々とは、まるで異なります。
とりわけ軍の出身者は、日露戦争、第一次大戦、支那事変等を経由した実戦のプロであり、可愛い部下、愛する部下たちを直接失った悲しみの経験を持つ人たちでもあります。
戦うなら、勝たなければなりません。
けれど、敵は世界最強の米英です。
国力も軍事力も、当時の日本の百倍以上の力を持っている。
そういう相手と戦い、日本は勝利を得なければならないのです。
その決断をする苦しみと覚悟、幾度も検討を重ねた作戦と、部下を失わなければならない悲しみ、そういう諸々のことと、当時日本の置かれた厳しい現状という狭間の中で、彼らは苦しみ抜いていたのです。
この日、しばしの静寂あと、昭和天皇は海軍軍令部総長の永野修身(ながのおさみ)に発言を求められました。
永野はしばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開いて、答えました。
そのときの言葉です。
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アメリカの主張に屈服するというのは、日本が亡国の憂き目に遭うということです。
しかし、戦うのもまた、亡国であるかも知れません。
戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。
けれど、戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。
もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。
そうすれば、私たちの子孫は、必ず再起し、あるいは三起する。
統帥部としては、もとよりあくまでも外交交渉によって平和的解決を望んでいます。
けれどもし、不幸にして開戦と決し、陛下の大命が発せられるようなことになるなら、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」
―――
(原文)
政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。
すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。
統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。
―――
当時、日本が欧米列強に呑み込まれる、すなわち戦わず負けることを承諾するということは、日本人全員が、白人の奴隷となることを意味していたのです。
そうなれば民族の誇りもなにもあったものではなくなります。
誇りどころか、日本人には一切の私権がなくなり、教育も奪われ、日本人は米英の植民地奴隷に成り下がる。
それが当時の「世界の常識」だったのです。
そして永野軍令部総長は、とても大切なことをここで語られています。
それは開戦に先立ち、
「たとい戦い勝たずとも、祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」
と述べたことです。
ここでいう子孫というのは誰のことでしょう。
いまの日本に生きる私たち、ひとりひとりに向けられた言葉です。
大東亜戦争で散華された英霊は236万柱です。
なぜ「柱」というのかといえば、散華された英霊の皆様は、日本の神々となられたからです。
「柱」というのは神を数える際の数詞です。
そしてその神々は、今を生きる私たちに、
「俺たちは祖国を守るために死を選んだ。日本は亡国の危機に陥るかもしれないが、君たちは祖国護持の精神を持ち、必ず再起三起せよ」
と語りかけてくれている。
そのことを、永野修身の言葉は象徴していると思います。
戦後、東京裁判において永野はA級戦犯とされました。
永野は、開戦に反対でした。
ですから彼が東京裁判において「自分は当初から反対だった」と証言すれば、それは彼の裁判を、有利なものにする証言となったかもしれません。
けれど彼は、裁判を通じ、そうした
「自らにとって有利になる弁明」
を一切しませんでした。
そればかりか
「真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」
と明言しました。
戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。
その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンは
「マーシャル永野こそ、真の武人である」
と、惜しみない絶賛をしています。
軍神 西住 小次郎 陸軍歩兵大尉
我が故郷、熊本に「軍神」として最初に指定された軍人がいました。
名前を西住 小次郎(にしずみ こじろう)と言います。
1914年〈大正3年〉1月13日~1938年〈昭和13年〉5月17日)大日本帝国陸軍の軍人で熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身で僕の出身地の隣まちです。
日中戦争(支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍しました。
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西住大尉の父も祖父も西南戦争に参加しており、江戸時代は西住家は武家でもありました。
昭和9(1934)年、陸軍士官学校を卒業して、宇都宮の歩兵第59連隊に入隊した西住は、同年10月に少尉に任官すると、昭和11(1936)年から、久留米の戦車第一連隊所属となります。
ここは、国産初の戦車である「八九式戦車」の部隊です。
そして中尉に昇進した西住は、昭和12(1937)年には戦車第5大隊配下の戦車小隊長として第二次上海事変に出征しました。
支那の呉淞から、宝山攻城戦、月甫鎮の戦い、羅店鎮の戦いと転戦します。
同年10月21日の大場鎮の戦いでは、敵陣の真正面約150メートルの地点まで進出し、そこから戦車の大砲を猛射して戦況を切り開くという離れ業をやってのけています。
この戦いでは、大場鎮の手前にある小さな村が戦局の要衝となり敵軍は準備万端整えて日本軍を待ち受けていました。
日本軍は猛攻しましたが、なかなかそこを抜けられませんでした。
そのとき西住中尉は2台の戦車で、敵陣の真正面に進出します。
そしてなんと連続9時間も、そこから大砲を撃ちまくりました。
これにより、敵陣は崩壊し、敵の守備兵は算を乱して逃げ出しました。
これが突破口となり、大場鎮は陥落しています。
この戦いで、大殊勲を挙げた西住中尉ですが、彼の事後報告はたいへん控えめで、戦績を誇るという風がまるでなかったそうです。
平素は万事控えめですが、いざ戦いとなるとまさに鬼神も恐れる勇猛ぶりでした。
西住大尉はそういう男でした。
大場鎮の戦いのあと、蘇州河に進出した西住大尉は、反転して南翔攻城戦に参加しました。
必死で防戦する敵のため、戦闘は膠着状態になりました。
ここでも西住中尉は、戦車で果敢に敵の真正面に突入します。
ところが、敵のはなった砲が、なんと西住大尉の戦車を直撃しました。
中尉の戦車は、このため戦車正面に大きな穴が空いてしまいます。
普通ならそこで戦車を放棄して、後方に下がるところですが西住中尉は、狭い戦車の中で操縦手と射手を左右の側壁に隠しながら、自分は天蓋にぶら下がり、その状態でなおも2時間近くも戦闘を継続しています。
この戦いの最中、部下の山根小隊を見失ってしまいましたが、そのとき西住中尉は、敵前で敵弾がうなり声を上げる中を戦車から飛び降り、真っ暗な前線で声を限りに部下を探し、呼び続けました。
あとでわかったのは、山根小隊は単に引き揚げルートを間違えただけで、西住隊とは、無事合流しましたが、このとき西住中尉は
「良かった良かった」
と、山根隊の無事を喜んで、男泣きに泣いていたそうです。
本気で部下を心配していたのですね。
その本気で心配していた西住中尉は、声を限りに部下を捜している最中に、敵弾で左足を撃たれています。
やむなく軍靴の長靴を脱いだ西住中尉は、下駄を左足に縛り付けて、部下を捜し、そして戦闘を継続しました。
そして戦闘後、自分の痛む傷をほっておいて、重傷を負った部下のために、野戦病院で付きっきりで看病してたといいます。
怪我もまだ癒えないうちに、続けて南京攻城戦に参加した西住中尉は、南京城占領後、続けて徐州作戦に向かいました。
この徐州作戦の最中、それは昭和13年5月17日ですが中尉は、宿県南方の黄大庄付近で、敵陣に数十メートルというところで、乗っている戦車が手前の小川に阻まれてしまいます。
西住中尉は、小川の深さを測るため、戦車を飛び降ります。
そしてようやく戦車の通れる地点を見定め、そのことを中隊長に報告しようと走り出だしたとき、敵の銃弾が西住中尉の右太ももを貫通しました。
銃弾は、西住中尉の左大腿部の動脈を切断してしまいます。
出血がとまりません。
急いで部下が集まり、中尉を戦車に救い入れ、介抱しましたが動脈出血は、止めようがありません。
死を悟った西住中尉は、中隊長に、
「中隊は左から攻撃しなければいけない」
と報告します。
そして、近くにいた部下の高松上等兵に
「お前らとわずか1年で別れるとは思わなかった。立派な軍人になれ」
と言い残しました。
再び中隊長に、
「お先に失礼します。どうかしっかりやって下さい」
と言い残した。
そして、母に向けて
「お母さん、小次郎は満足してお先に参ります。これからお一人でお淋しい事と思います。永い間、可愛がっていただきました」
姉には
「姉さん、いろいろお世話になりました」
弟には
「弟よ立派に」
と言い残し、こと切れたそうです。
それは、前進する戦車の中でのでき事でした。
西住小次郎中尉、享年25歳でした。
西住中尉は、支那の戦地で負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という苛烈な戦いを行いました。
そして戦死ときの階級は中尉だったのだけれど、特進して大尉となりました。
亡くなられた西住小次郎大尉は、戦闘中にはいつも戦車の中に、吉田松陰の歌を貼っていたそうです。
親思ふ 心にまさる親心
今日のおとづれ 何ときくらむ
その「親心」を想う西住大尉は、出陣に際して母に
「もう生きてはお目にかかりません」
と言い残したそうです。
―――
大尉の戦死の知らせは、母のもとに新聞社の社員が知らせに来ました。
知らせを聞いた母は、静かに立って仏壇を拝み、再び戻ってきて、
「小次郎は軍人に志願の折から既に今日あるを覚悟していました。少しでもお国のためになりますれば本懐です。ただあれがどんな死に方をしたかそれだけが心配です。」
と述べられたそうです。
ほんとうに気丈なお母さんだと思います。
けれどそのお母さんは、西住大尉が、本当は陸大入学を目指して猛勉強していたのを知っていました。
そして、大尉は兄弟の中でもいちばん元気良い子供だったのだそうです。
新聞記者の前では、気丈に振る舞ったお母さんですが、その心中は察して余りあります。
第二次上海事変以降の支那事変で、負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という西住大尉の活躍、部下思いの姿勢、亡くなる瞬間まできちんとした報告を行った軍陣魂、そして親を想う心。
西住小次郎大尉は、まさに「軍神」の名にふさわしい戦いをしてくれた日本人の誇りとなるべき軍人だった西住小次郎大尉は我が故郷の英雄、軍神であります
桐野 利秋(中村半次郎)
中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、幕末当時、その名を知らぬ者がいない存在だった。
白柄朱鞘の和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京都の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放っていた ✨キラキラ
それにくわえて「人斬り半次郎」の異名が男たちに恐怖を与え、女性を妖しい魅力で惹きつけていた。
中村半次郎の剣術
”中村の一手打ち”は新撰組や粗暴な浪士すら震え上がらせるほど強烈だった。
しかも中村はほとんど独力で一撃必殺の太刀捌きを身につけている。
伊集院鴨居のもとに通ったといわれるが、そこでは小示現流の手ほどきを受けたにすぎない。
中村 一家が貧苦にあえいでおり、昼夜となく耕作し、紙を漉(す)かねばいけなかったため彼は「吉野唐芋、紙漉武士」という侮蔑をこうむったのだが、闘争心を奮い立たせ、寸暇をぬすんでは樹木に木刀を叩きつけて剣技を磨き心胆を練った。
日々、中村半次郎は己を信じ その気持ちを樹木叩きつけていた。
そうして彼は薩摩の小松帯刀や西郷隆盛に認められる存在となり、京へ出るようになった。
その頃から✨「人斬り半次郎」✨と呼ばれるようになるのだが、中村半次郎がどれだけの人を斬ったかは明らかになっていない。
しかし中村半次郎が剣の腕をあげる秘訣について
「ひと月に一人ずつ斬れば、日々剣法を学ぶにまさる」
😱
と放言していたという逸話もあるのだから、相当な数を斬ったのだろう。
中村と親しかった中井弘は、
「中村は斬ると言えば、必ず斬る」
と証言している。
……
その後、毎晩のように中村が悪夢にうなされるので、妾が揺り起こすと
「某所で斬った奴が血みどろになって挨拶に来た」
と言ったともいわれる。
それを聞けばおそしくなって妾が逃げ出すので、次々と妾ができても、居付くことはなかったとの事だ。
😱
……
っと以上はwww 「人斬り半次郎」に付随している伝説であって事実か否かはわからない。
しかし、中村が斬ったことを明かしている存在もいる。
彼が慶応三年に書きとめていた
『京在日記』
に「赤松小三郎」を斬ったことが記録されている。
赤松は砲術師範として薩摩藩に雇われていた人物だ。
中村も赤松から砲術を学んでいたが幕府側の間諜の疑いがあるため薩藩士田代五郎とともに暗殺している。
赤松の暗殺については
有馬藤太(ありまとうた)の談話
『維新の片鱗』
でも触れられ、やはり中村と田代が実行犯だと明言している。
有馬藤太の語るところによれば、中村の殺気を看取した小野強右衛門(剣術師範)が、中村を制止しようと追いかけた。
追いついたとき斬りかかる瞬間だったが、中村の鮮やかな太刀さばきに感服してしまい阻止できなかったという。
中村と田代が実行犯だと知るものは有馬と小野だけであり、師匠が殺されたといって仇討ちを企てる薩摩藩士もいたが、結局下手人が掴めずにおわったという。
痕跡をとどめないことにおいても、下手人と悟られないことにおいても中村は巧妙だったのだろう。
これはつぎに述べる用心深さに通ずるものがある。
用心深さ
彼は剣の腕のみに頼る匹夫ではなかった。
ほんのわずかな時間であっても一人で出歩かない用心深さがあり、こうしたところからして無謀の勇を誇る壮士輩とは異なり、後年の陸軍少将にのぼりつめたことは不思議なことではなかった。
(東郷嘉一郎談)
.....
中村半次郎と有馬藤太は無二の親友なのだが、彼が会津藩士二人に囲まれたときですら中村は姿を見せず、有馬が一人を斬り払い、もう一人が逃げたあとから出てきて
「実はさきほどからあの店先で見ていた。お前のことだから下手なことはしまいが、危うくなれば助太刀しようと様子を見ていたのだが、お前の今の早業にはまったく恐れ入った」
と言ったということである。
彼はこのように用心深く、しかも余裕綽々としていた(無論、有馬が危地に陥っていたら彼は例のごとき早業で片づけていただろうが)。
彼が「人斬り半次郎」で終わらず陸軍少将
「桐野利秋」
となることができた一因がここにある。
肥後 敬神党(神風連)
幕末の熊本には三党派ありました。
学校党(佐幕攘夷)
勤王党(尊王攘夷)
薩摩・長州によって成立した明治維新政府は
五カ条の誓文により公議世論の尊重と開国和親の方針を明らかにしました。
したがって、熊本の「実学党」の主張は政府に近く「学校党」、「勤王党」の攘夷論は政府と対立する立場にありました。
勤王党は林桜園(はやしおうえん)の私塾
『原道館(げんどうかん)』
の門弟を中心とした党派でしたが、明治5年ごろ神力による攘夷を主張しまし、
「敬神党」
が分立しました。
敬神党の特色は、神の意によって世の中は動く、人も神の意のままに行動すべきであるという信条・信念をもった人々でありました。
敬神党の人たちは明治政府の宗教政策に不満を持っていました。
神社の格付けや御神体調べに反対しました。
明治6年の政変以後、不平士族の反乱が実行されました。
明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司の
太田黒伴雄を首領とする敬神党(神風連)の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃しました。
国を憂いた敬神党(神風連)の志士たち彼らは
「神事は本なり、人事は末なり」
といって、神道をふみ行うことを信条としていました。
この世に起こる事は、すべての神の作用によるものであり、誠心をつくして祈り、心力を時事につくせば、神様は必ず感応してくださる。
生死は人界にしかなく、神界にはない。
道を治めるものは昇天を尊ぶということを
『昇天秘話』
に書いています。
この思想が宮部鼎蔵や太田黒伴雄をはじめとする敬神党(神風連)の志士たちの精神的な支柱となりました。
神風連の志士たちには日本古来の神道に基づいた政治が行われるという期待がありました。
ところが、時の政府は欧化政策を進め、法律も制度も外国をまねて次々に変わっていきました。
攘夷を口にしていた政府の高官は外国に迎合し、尊皇攘夷論者を押さえるために各地に鎮台を設置しました。
忠義も孝行もすたれてゆく風潮を、神風連の人々は憂慮したのです。
新風連の変は、宇気比(うけい)の戦いといわれています。
宇気比とは神慮を伺う秘法で、『古事記』にも天の岩戸の前章に宇気比の神話があるほどです。
宇気比には三つの作法があります。
一、
審神者(神主・祈祷師)を以て神命を問うこと
二、
〆事(みそぎ・祓い)を以て神の心を問う
三、
夢見て神の訓を請う(願をかける、ひたすら祈ること)。
明治七年に新開大神宮(現熊本市内田町)で一度宇気比が行われましたが、直接行動は許されませんでした。
明治八年も同じ。。。
しかし、明治九年になって廃刀令が出され、断髪令も出されました。
この後、行われた宇気比で、初めて念願の宇気比の許しが出ました。
それを受けて、明治九年十月二三日の深更、
敬神党(神風連)太田黒伴雄を首領とする一七〇人の志士たちが決起したのです。
彼らは古来の刀槍の武器をもって、近代火砲を装備した熊本鎮台に攻め込んでいきました。
彼らは、勝敗を論じる戦略はなく、国体護持のために、むしろいかに死んでいくかを考えていたようです。。。
信仰に殉じ、主義に殉じ、日本の危機に殉じていた敬神党(神風連)の人々。。。。。。
我が故郷、肥後熊本が誇るご先祖さまを紹介しました。