高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

永野修身元帥

永野修身元帥

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永野修身は土佐の人です。
一番尊敬していた人が、同郷の坂本龍馬だったそうです。


明治13(1890)年のお生まれで、高知海南中学(現・高知県立高知小津高等学校)を卒業後、海軍兵学校に入学しています。
兵学校では、入学時、卒業時とも成績は2番で大変優秀な方でした。

 

24歳のときに、日露戦争を戦い、その後、旅順旅順要塞攻撃の海軍陸戦重砲隊の中隊長に任官しています。

日露戦争で日本軍が、戦死者約5050名、負傷者約1万6930名という莫大な損害を出してまで旅順要塞を攻略したのには、理由があります。
旅順港に停泊するロシア太平洋艦隊を、なんとしても殲滅しなければならなかったのです。

旅順要塞の先にある山を越せば、旅順港は眼下に見下ろせます。
そこからなら、百発百中で、港にいるロシア艦隊を沈めることができます。
旅順港にいるロシア艦隊を陸路から攻撃するためには、要塞陥落後、艦を砲撃できるだけの大型の大砲を、艦隊を見下ろす位置まで、運ばなくてはなりませんが運ぶための道も時間もありません。
悠長なことをしていたら、旅順港にいるロシア艦隊は、日本がのんびりと道を造っている間に、とっとと逃げ出してしまいます。

旅順港のロシア艦隊と、バルチック艦隊が合流したら、もはや日本海軍に勝算等はありません。
なぜならロシアの戦力が倍になるからです。

 

日本海軍が負けたらどうなるか。


日本は制海権を失います。
すると、大陸にいる日本陸軍は退路を断たれます。


補給が失われ、ロシアの大軍の前に全滅の危機を迎えることになります。


日本としては、何が何でも、旅順港にいるロシア艦隊が「動き出す前に」これを撃滅しなければならなかったのです。

 

世界最強た旅順要塞の守備に安心しきっていたロシアの旅順港の艦隊は、エンジンを切っていました。


まさかの展開で、要塞が陥落すると、ロシア艦隊は、慌てて海上に艦を逃れさせようとしましたが当時の戦艦は、蒸気エンジンです。


エンジンをかけ、旅順港から出発できるまでには、ほぼ12時間がかかります。

逆にいえば、12時間以内に日本は、ロシア艦隊への砲撃を実現しなければならないのです。


けれど、砲撃ができる位置に大砲を運ぶには、山の木を伐り、道を造り、大砲を所定の位置まで移動させるのに、どんなに急いでも、最低でも3日以上かかります。
それでは、ロシア艦隊は逃げてしまいます。
ロシア艦隊を逃がしたら、なんのために多大な命を犠牲にして旅順要塞戦を戦ったかわからなくなってします。

 

「サァ、どうしようか」

 

となったとき、ひとりの若い海軍重砲隊の中隊長が提案を出します。

その若い中隊長の案は採用となりました。


若き日の永野修身です。

 

 

どういう案かというと、二〇三高地から着弾地点を観測し、敵艦の座標をもとにして、無線連絡で着弾点を補正し、命中させる、というものです。

当時の無線通信技術は、まだトンツートントンのモールス信号です。

そのトンツートントンだけで、リアルタイムに着弾点の補正をする。
大砲の方位と角度を微妙に調整し、火薬の量を調整し、正確に命中させる。

発射した大砲の弾の着弾地点を見て、具体的に方位何度、仰角何度修正、しかもその修正をモールス信号で無線で知らせ、その上で「撃て~!」とやるわけです。

 

そしてこのとき、最前線で着弾地点の観測した永野は、瞬時にこの方位、仰角の修正角を暗算し、修正角を無線で指示しています。


後方で大砲を撃つ砲術班は、その指示通りに、見えない敵艦をめがけて、大砲を発射する。

永野の指示した弾は、ことごとく命中したといいます。


まさに鍛え抜かれた、プロの匠み技だったわけです。

 

本当に凄いですね٩(^ᴗ^)۶

 

後年、永野修身は、海軍軍令部総長にまで栄達します。
けれど彼は、単に頭がよく、人柄も良くて、体力、気力にも恵まれ、軍事に関する技量にも恵まれていたというわけではだけではありません。


若い頃から常に才能を磨き、新しい技術に挑戦し、工夫し、改善し、周囲の者と協調し、これを実現にまで漕ぎ着けるだけの徳を持っていました。

また永野は若い頃からたいへんに義侠心が強かったそうです。
一時は清水次郎長一家に本気で弟子入りしようとしています。

侠気がある、ということは、人の悲しみや辛さをわが事として理解し、同苦し、一緒に泣き、一緒に笑う男気がある、ということです。


🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

 

昭和16(1941)年9月6日、日本は昭和天皇の前で御前会議を開かれました。

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その席で昭和天皇

 

「外交が主か、戦争が主か」

 

と閣僚たちに尋ねられました。

及川海相

 

「重点は外交にある」

 

と答えました。


すると昭和天皇は、懐から紙片を取り出され、御自らお詠みになられました。

 

「よもの海 みなはらからと思ふ世に
      など波風のたちさわぐらむ」

 

明治天皇の御製です。


四方の海は、みんな同じ人間、同じ家族であり兄弟であると思うのに、なぜ争いの波風が起こるのだろうか。

 

昭和天皇のこのお言葉に、列席した閣僚たちは、全員、ただうなだれるより言葉がなかったといいます。


しばらくの間、誰もがうつむいてしまい、言葉を発することができなかったのです。


言えないです。

 

陛下が平和を望むお気持ちを、閣僚たちは全員、痛いほどわかっているのです。


けれど、米国の日本に対する戦争への挑発は、もはや引き返すことのできない所まできている。


それでも尚、平和を、和平を、外交による事態の好転をと昭和天皇はもとめられたのです。


昭和天皇は、その万感の思いを、明治大帝のお歌に託されたのです。

 

陛下の前で「それでも戦争せざるをえないです」などと、誰が言えましょう。


言おうとしたら、涙がとめどなくあふれてしまう。


まともに言葉なんて話せなくなる。


このとき、日本を代表する英才であり、すべての情報を知り尽くした日本の最高責任者たちが、陛下の御前で、声もなくうなだれ、涙をこらえるしかなかったのです。


日本はそこまで追いつめられていました。

 

当時の閣僚たちは、いまの内閣のように、昨日までただの市民運動家だった者が、なにかの弾みで大臣や総理になったような人々とは、まるで異なります。

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とりわけ軍の出身者は、日露戦争第一次大戦支那事変等を経由した実戦のプロであり、可愛い部下、愛する部下たちを直接失った悲しみの経験を持つ人たちでもあります。

戦うなら、勝たなければなりません。
けれど、敵は世界最強の米英です。
国力も軍事力も、当時の日本の百倍以上の力を持っている。
そういう相手と戦い、日本は勝利を得なければならないのです。
その決断をする苦しみと覚悟、幾度も検討を重ねた作戦と、部下を失わなければならない悲しみ、そういう諸々のことと、当時日本の置かれた厳しい現状という狭間の中で、彼らは苦しみ抜いていたのです。

 

この日、しばしの静寂あと、昭和天皇は海軍軍令部総長永野修身(ながのおさみ)に発言を求められました。


永野はしばしの沈黙のあと、ようやく重い口を開いて、答えました。


そのときの言葉です。

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹
アメリカの主張に屈服するというのは、日本が亡国の憂き目に遭うということです。
しかし、戦うのもまた、亡国であるかも知れません。
戦わないなら国が滅び、戦ったとしても国は滅びる。

けれど、戦わずに国が滅びるというのは、日本民族が、身も心も永遠に国を失うことになります。
もし戦い、護国の精神に徹するなら、たとえ戦いに勝てなかったとしても、祖国を護るという日本精神が残ります。
そうすれば、私たちの子孫は、必ず再起し、あるいは三起する。

統帥部としては、もとよりあくまでも外交交渉によって平和的解決を望んでいます。
けれどもし、不幸にして開戦と決し、陛下の大命が発せられるようなことになるなら、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟でございます。」

―――

(原文)
政府側陳述によれば、アメリカの主張に屈服すれば亡国必至であるとのことであったが、戦うもまた亡国であるかも知れない。
すなわち戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう。
統帥部としてはもとより先刻申したとおり、あくまで外交交渉によって目的貫遂を望むものであるが、もし不幸にして開戦と決し大命が発せられるようなことになるならば、勇躍戦いに赴き最後の一兵まで戦う覚悟である。
―――

当時、日本が欧米列強に呑み込まれる、すなわち戦わず負けることを承諾するということは、日本人全員が、白人の奴隷となることを意味していたのです。
そうなれば民族の誇りもなにもあったものではなくなります。

誇りどころか、日本人には一切の私権がなくなり、教育も奪われ、日本人は米英の植民地奴隷に成り下がる。
それが当時の「世界の常識」だったのです。

そして永野軍令部総長は、とても大切なことをここで語られています。

 

それは開戦に先立ち、


「たとい戦い勝たずとも、祖国護持の精神がのこり、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」

 

と述べたことです。


ここでいう子孫というのは誰のことでしょう。
いまの日本に生きる私たち、ひとりひとりに向けられた言葉です。

大東亜戦争で散華された英霊は236万柱です。
なぜ「柱」というのかといえば、散華された英霊の皆様は、日本の神々となられたからです。
「柱」というのは神を数える際の数詞です。

そしてその神々は、今を生きる私たちに、


「俺たちは祖国を守るために死を選んだ。日本は亡国の危機に陥るかもしれないが、君たちは祖国護持の精神を持ち、必ず再起三起せよ」

 

と語りかけてくれている。


そのことを、永野修身の言葉は象徴していると思います。

 

戦後、東京裁判において永野はA級戦犯とされました。
永野は、開戦に反対でした。
ですから彼が東京裁判において「自分は当初から反対だった」と証言すれば、それは彼の裁判を、有利なものにする証言となったかもしれません。

 

けれど彼は、裁判を通じ、そうした

「自らにとって有利になる弁明」

を一切しませんでした。


そればかりか

真珠湾攻撃の責任の一切は自らにある」

 

と明言しました。
戦死した山本らに真珠湾の責任を押しつけるような発言さえも一切しませんでした。

その姿に、米国海軍大将のジェームズ・リチャードソンは


「マーシャル永野こそ、真の武人である」

 

と、惜しみない絶賛をしています。

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いま、永野修身閣下は、靖国神社に祀られ、墓所は、東京都世田谷区の浄真寺と、地元高知の筆山墓地に置かれています。

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軍神 西住 小次郎 陸軍歩兵大尉

我が故郷、熊本に「軍神」として最初に指定された軍人がいました。

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名前を西住 小次郎(にしずみ こじろう)と言います。

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1914年〈大正3年〉1月13日~1938年〈昭和13年〉5月17日)大日本帝国陸軍の軍人で熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身で僕の出身地の隣まちです。

日中戦争支那事変)における第二次上海事変から徐州会戦に至るまで、八九式中戦車をもって戦車長として活躍しました。

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🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

西住大尉の父も祖父も西南戦争に参加しており、江戸時代は西住家は武家でもありました。

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昭和9(1934)年、陸軍士官学校を卒業して、宇都宮の歩兵第59連隊に入隊した西住は、同年10月に少尉に任官すると、昭和11(1936)年から、久留米の戦車第一連隊所属となります。


ここは、国産初の戦車である「八九式戦車」の部隊です。


そして中尉に昇進した西住は、昭和12(1937)年には戦車第5大隊配下の戦車小隊長として第二次上海事変に出征しました。
支那の呉淞から、宝山攻城戦、月甫鎮の戦い、羅店鎮の戦いと転戦します。

 

同年10月21日の大場鎮の戦いでは、敵陣の真正面約150メートルの地点まで進出し、そこから戦車の大砲を猛射して戦況を切り開くという離れ業をやってのけています。

 

この戦いでは、大場鎮の手前にある小さな村が戦局の要衝となり敵軍は準備万端整えて日本軍を待ち受けていました。


日本軍は猛攻しましたが、なかなかそこを抜けられませんでした。

 

そのとき西住中尉は2台の戦車で、敵陣の真正面に進出します。


そしてなんと連続9時間も、そこから大砲を撃ちまくりました。
これにより、敵陣は崩壊し、敵の守備兵は算を乱して逃げ出しました。


これが突破口となり、大場鎮は陥落しています。

 

この戦いで、大殊勲を挙げた西住中尉ですが、彼の事後報告はたいへん控えめで、戦績を誇るという風がまるでなかったそうです。


平素は万事控えめですが、いざ戦いとなるとまさに鬼神も恐れる勇猛ぶりでした。


西住大尉はそういう男でした。

 

大場鎮の戦いのあと、蘇州河に進出した西住大尉は、反転して南翔攻城戦に参加しました。


必死で防戦する敵のため、戦闘は膠着状態になりました。

 

ここでも西住中尉は、戦車で果敢に敵の真正面に突入します。


ところが、敵のはなった砲が、なんと西住大尉の戦車を直撃しました。
中尉の戦車は、このため戦車正面に大きな穴が空いてしまいます。

普通ならそこで戦車を放棄して、後方に下がるところですが西住中尉は、狭い戦車の中で操縦手と射手を左右の側壁に隠しながら、自分は天蓋にぶら下がり、その状態でなおも2時間近くも戦闘を継続しています。

 

この戦いの最中、部下の山根小隊を見失ってしまいましたが、そのとき西住中尉は、敵前で敵弾がうなり声を上げる中を戦車から飛び降り、真っ暗な前線で声を限りに部下を探し、呼び続けました。

 

あとでわかったのは、山根小隊は単に引き揚げルートを間違えただけで、西住隊とは、無事合流しましたが、このとき西住中尉は

「良かった良かった」

と、山根隊の無事を喜んで、男泣きに泣いていたそうです。
本気で部下を心配していたのですね。

 

その本気で心配していた西住中尉は、声を限りに部下を捜している最中に、敵弾で左足を撃たれています。
やむなく軍靴の長靴を脱いだ西住中尉は、下駄を左足に縛り付けて、部下を捜し、そして戦闘を継続しました。

そして戦闘後、自分の痛む傷をほっておいて、重傷を負った部下のために、野戦病院で付きっきりで看病してたといいます。

怪我もまだ癒えないうちに、続けて南京攻城戦に参加した西住中尉は、南京城占領後、続けて徐州作戦に向かいました。

この徐州作戦の最中、それは昭和13年5月17日ですが中尉は、宿県南方の黄大庄付近で、敵陣に数十メートルというところで、乗っている戦車が手前の小川に阻まれてしまいます。

 

西住中尉は、小川の深さを測るため、戦車を飛び降ります。


そしてようやく戦車の通れる地点を見定め、そのことを中隊長に報告しようと走り出だしたとき、敵の銃弾が西住中尉の右太ももを貫通しました。

銃弾は、西住中尉の左大腿部の動脈を切断してしまいます。
出血がとまりません。

急いで部下が集まり、中尉を戦車に救い入れ、介抱しましたが動脈出血は、止めようがありません。

死を悟った西住中尉は、中隊長に、


「中隊は左から攻撃しなければいけない」

 

と報告します。

そして、近くにいた部下の高松上等兵に


「お前らとわずか1年で別れるとは思わなかった。立派な軍人になれ」

 

と言い残しました。

再び中隊長に、


「お先に失礼します。どうかしっかりやって下さい」

 

と言い残した。

そして、母に向けて


「お母さん、小次郎は満足してお先に参ります。これからお一人でお淋しい事と思います。永い間、可愛がっていただきました」

 

姉には


「姉さん、いろいろお世話になりました」

 

弟には


「弟よ立派に」

 

と言い残し、こと切れたそうです。

 

それは、前進する戦車の中でのでき事でした。


西住小次郎中尉、享年25歳でした。

 

西住中尉は、支那の戦地で負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という苛烈な戦いを行いました。
そして戦死ときの階級は中尉だったのだけれど、特進して大尉となりました。

亡くなられた西住小次郎大尉は、戦闘中にはいつも戦車の中に、吉田松陰の歌を貼っていたそうです。

 

 親思ふ 心にまさる親心
 今日のおとづれ 何ときくらむ

 

その「親心」を想う西住大尉は、出陣に際して母に

 

「もう生きてはお目にかかりません」

 

と言い残したそうです。

―――

大尉の戦死の知らせは、母のもとに新聞社の社員が知らせに来ました。
知らせを聞いた母は、静かに立って仏壇を拝み、再び戻ってきて、

 

「小次郎は軍人に志願の折から既に今日あるを覚悟していました。少しでもお国のためになりますれば本懐です。ただあれがどんな死に方をしたかそれだけが心配です。」

 

と述べられたそうです。

 

ほんとうに気丈なお母さんだと思います。

けれどそのお母さんは、西住大尉が、本当は陸大入学を目指して猛勉強していたのを知っていました。
そして、大尉は兄弟の中でもいちばん元気良い子供だったのだそうです。

新聞記者の前では、気丈に振る舞ったお母さんですが、その心中は察して余りあります。

 

第二次上海事変以降の支那事変で、負傷5回、戦車に浴びた弾丸1100発という西住大尉の活躍、部下思いの姿勢、亡くなる瞬間まできちんとした報告を行った軍陣魂、そして親を想う心。

 

西住小次郎大尉は、まさに「軍神」の名にふさわしい戦いをしてくれた日本人の誇りとなるべき軍人だった西住小次郎大尉は我が故郷の英雄、軍神であります

 



 

桐野 利秋(中村半次郎)

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中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、幕末当時、その名を知らぬ者がいない存在だった。

 

白柄朱鞘の和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京都の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放っていた ✨キラキラ

 

それにくわえて「人斬り半次郎」の異名が男たちに恐怖を与え、女性を妖しい魅力で惹きつけていた。

 

中村半次郎の剣術

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”中村の一手打ち”は新撰組や粗暴な浪士すら震え上がらせるほど強烈だった。

 

しかも中村はほとんど独力で一撃必殺の太刀捌きを身につけている。

 

伊集院鴨居のもとに通ったといわれるが、そこでは小示現流の手ほどきを受けたにすぎない。

 

中村 一家が貧苦にあえいでおり、昼夜となく耕作し、紙を漉(す)かねばいけなかったため彼は「吉野唐芋、紙漉武士」という侮蔑をこうむったのだが、闘争心を奮い立たせ、寸暇をぬすんでは樹木に木刀を叩きつけて剣技を磨き心胆を練った。

 

日々、中村半次郎は己を信じ その気持ちを樹木叩きつけていた。

 

そうして彼は薩摩の小松帯刀西郷隆盛に認められる存在となり、京へ出るようになった。

 

その頃から✨「人斬り半次郎」✨と呼ばれるようになるのだが、中村半次郎がどれだけの人を斬ったかは明らかになっていない。

 

 

しかし中村半次郎が剣の腕をあげる秘訣について

「ひと月に一人ずつ斬れば、日々剣法を学ぶにまさる」

 😱

と放言していたという逸話もあるのだから、相当な数を斬ったのだろう。

 

中村と親しかった中井弘は、

 

「中村は斬ると言えば、必ず斬る」

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と証言している。

 

……

 

その後、毎晩のように中村が悪夢にうなされるので、妾が揺り起こすと

 

「某所で斬った奴が血みどろになって挨拶に来た」

 

と言ったともいわれる。

 

それを聞けばおそしくなって妾が逃げ出すので、次々と妾ができても、居付くことはなかったとの事だ。

 

😱

 

……

 

っと以上はwww 「人斬り半次郎」に付随している伝説であって事実か否かはわからない。

 

 

しかし、中村が斬ったことを明かしている存在もいる。

 

彼が慶応三年に書きとめていた

『京在日記』

に「赤松小三郎」を斬ったことが記録されている。

 

赤松は砲術師範として薩摩藩に雇われていた人物だ。

 

中村も赤松から砲術を学んでいたが幕府側の間諜の疑いがあるため薩藩士田代五郎とともに暗殺している。

 

赤松の暗殺については

有馬藤太(ありまとうた)の談話

『維新の片鱗』

でも触れられ、やはり中村と田代が実行犯だと明言している。

 

有馬藤太の語るところによれば、中村の殺気を看取した小野強右衛門(剣術師範)が、中村を制止しようと追いかけた。

 

追いついたとき斬りかかる瞬間だったが、中村の鮮やかな太刀さばきに感服してしまい阻止できなかったという。

 

中村と田代が実行犯だと知るものは有馬と小野だけであり、師匠が殺されたといって仇討ちを企てる薩摩藩士もいたが、結局下手人が掴めずにおわったという。

 

痕跡をとどめないことにおいても、下手人と悟られないことにおいても中村は巧妙だったのだろう。

 

これはつぎに述べる用心深さに通ずるものがある。

 

用心深さ

彼は剣の腕のみに頼る匹夫ではなかった。

ほんのわずかな時間であっても一人で出歩かない用心深さがあり、こうしたところからして無謀の勇を誇る壮士輩とは異なり、後年の陸軍少将にのぼりつめたことは不思議なことではなかった。

(東郷嘉一郎談)

.....


中村半次郎と有馬藤太は無二の親友なのだが、彼が会津藩士二人に囲まれたときですら中村は姿を見せず、有馬が一人を斬り払い、もう一人が逃げたあとから出てきて


「実はさきほどからあの店先で見ていた。お前のことだから下手なことはしまいが、危うくなれば助太刀しようと様子を見ていたのだが、お前の今の早業にはまったく恐れ入った」


と言ったということである。

 

彼はこのように用心深く、しかも余裕綽々としていた(無論、有馬が危地に陥っていたら彼は例のごとき早業で片づけていただろうが)。

 

彼が「人斬り半次郎」で終わらず陸軍少将

 

桐野利秋

となることができた一因がここにある。

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肥後 敬神党(神風連)

幕末の熊本には三党派ありました。

学校党(佐幕攘夷)

勤王党(尊王攘夷)

実学党(尊王開国)

 

薩摩・長州によって成立した明治維新政府は

五カ条の誓文により公議世論の尊重と開国和親の方針を明らかにしました。

したがって、熊本の「実学党」の主張は政府に近く「学校党」、「勤王党」の攘夷論は政府と対立する立場にありました。

勤王党は林桜園(はやしおうえん)の私塾

『原道館(げんどうかん)』

の門弟を中心とした党派でしたが、明治5年ごろ神力による攘夷を主張しまし、

敬神党

が分立しました。

敬神党の特色は、神の意によって世の中は動く、人も神の意のままに行動すべきであるという信条・信念をもった人々でありました。

敬神党の人たちは明治政府の宗教政策に不満を持っていました。

神社の格付けや御神体調べに反対しました。

明治6年の政変以後、不平士族の反乱が実行されました。

 

 

明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司

太田黒伴雄を首領とする敬神党(神風連)の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃しました。


国を憂いた敬神党(神風連)の志士たち彼らは

「神事は本なり、人事は末なり」

といって、神道をふみ行うことを信条としていました。

この世に起こる事は、すべての神の作用によるものであり、誠心をつくして祈り、心力を時事につくせば、神様は必ず感応してくださる。

生死は人界にしかなく、神界にはない。

道を治めるものは昇天を尊ぶということを

『昇天秘話』

に書いています。

この思想が宮部鼎蔵や太田黒伴雄をはじめとする敬神党(神風連)の志士たちの精神的な支柱となりました。

神風連の志士たちには日本古来の神道に基づいた政治が行われるという期待がありました。

 

ところが、時の政府は欧化政策を進め、法律も制度も外国をまねて次々に変わっていきました。

攘夷を口にしていた政府の高官は外国に迎合し、尊皇攘夷論者を押さえるために各地に鎮台を設置しました。

忠義も孝行もすたれてゆく風潮を、神風連の人々は憂慮したのです。

 

新風連の変は、宇気比(うけい)の戦いといわれています。

宇気比とは神慮を伺う秘法で、『古事記』にも天の岩戸の前章に宇気比の神話があるほどです。

宇気比には三つの作法があります。

一、

審神者(神主・祈祷師)を以て神命を問うこと

二、

〆事(みそぎ・祓い)を以て神の心を問う

三、

夢見て神の訓を請う(願をかける、ひたすら祈ること)。

明治七年に新開大神宮(現熊本市内田町)で一度宇気比が行われましたが、直接行動は許されませんでした。

明治八年も同じ。。。

しかし、明治九年になって廃刀令が出され、断髪令も出されました。

この後、行われた宇気比で、初めて念願の宇気比の許しが出ました。

 

それを受けて、明治九年十月二三日の深更、

敬神党(神風連)太田黒伴雄を首領とする一七〇人の志士たちが決起したのです。

 

彼らは古来の刀槍の武器をもって、近代火砲を装備した熊本鎮台に攻め込んでいきました。

 

彼らは、勝敗を論じる戦略はなく、国体護持のために、むしろいかに死んでいくかを考えていたようです。。。

 

信仰に殉じ、主義に殉じ、日本の危機に殉じていた敬神党(神風連)の人々。。。。。。

 

我が故郷、肥後熊本が誇るご先祖さまを紹介しました。

 

 

杉本 五郎 中佐

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杉本中佐は昭和12(1937)年9月に支那事変の戦闘で戦死している。弁慶ではないが、立ったまま往生を遂げている。敵の手榴弾を浴びて倒れた杉本中佐は、軍刀を杖にして、立ち上がり、号令をかけ、倒れることもなく遙か皇居の方向に正対、挙手敬礼をして絶命したという。

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

Wikipediaより杉本五郎中佐を引用する

 

杉本 五郎(すぎもと ごろう)

明治33年(1900年)5月25日 ~昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。

遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。

 

広島県安佐郡三篠町(現在の広島市西区打越町)生まれ。少年期から将校に憧れ、大正2年(1913年)、質実剛健を伝統とする広島藩の元藩校である旧制修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)入学。大正7年(1918年)修道中学校を卒業し陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。しかし同年起こった米騒動は、日本帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉本の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。小作争議が激化し日本資本主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉本は、危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。

しかし軍隊に入った杉本には窓は一方にしか開かれておらず、皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養とに全精神を傾倒していく。

 

大正8年(1919年)陸軍士官学校(33期)本科入校。大正10年(1921年)同校卒業。歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、人生論に持ち込み、独自の思想を形成していく。

 

昭和6年(1931年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、中国天津方面で軍事行動ののち帰還。この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが

「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」

と拒否

「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」

と願った。

実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。結果は不合格であった。息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、限られた給料の中から送金を欠かさなかった。昭和11年(1936年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、共産主義に対すると同様に不忠の汚名をかぶせ非難した。翌昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)が勃発。同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。同年9月、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘に於て戦死。

岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。

38歳の生涯であった

(大義 )

死の寸前まで四人の息子への遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、と20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938年)5月に刊行された。

これが青年将校士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ね29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。

本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。

本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思いがあまりにも純粋で、当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍規の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれる。

あまりに純粋な言行を煙たがれ激戦地に送られた、という噂が戦後出た。

本書にも登場する仏通寺の山崎益州管長は「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった」と述べている。

 

大山澄太の『杉本中佐の尊皇と禅』

山岡荘八軍神杉本中佐』

城山三郎『大義の末』

奥野健男軍神杉本五郎の誕生』

中桶武夫『軍神杉本五郎中佐』などの関係本がある。

その他広島で被爆死した映画監督・白井戦太郎が1938年、大都映画で 『噫軍神杉本中佐 死の中隊』という映画を製作している。

 

仏通寺の境内に杉本を記念する小さな碑と、渓流を隔てた岩壁に杉本の大書した「尊皇」の二文字が残る。

 

杉本五郎中佐の生き方、国体論、大義を調べると人としての歩む道がみえてくるかもしれない。

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軍神 杉本 五郎中佐 「緒 言」

緒 言


吾児孫の以て依るべき大道を直指す。

名利何んするものぞ、地位何物ぞ、断じて名聞利慾の奴となる勿れ。


士道、義より大なるはなく、義は 君臣を以て最大となす。

出処進退総べて 大義を本とせよ。

 

大義を以て胸間に掛在せずんば、児孫と称することを許さず。

一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に 大義を究明する底は、吾と相見報恩底の児孫なり。


孝たらんとせば、大義に透徹せよ。
大義に透徹せんと要せは、すべからく先ず深く禅教に入つて我執を去れ。

もし根器堪えずんば、他の宗乗に依れ。

戒むらくは宗域に止まつて奴となる勿れ。

唯々我執を去るを専要とす。


次に願わくは、必死以て 大義擁護の後嗣を造れ。

而してそは汝子孫に求むるを最良とし、縁なきも大乗根器の大士ならば次策とす。

一箇忠烈に死して、後世をして憤起せしむるは止むを得ざるの下策と知れ。

よろしく大乗的忠の権化、楠子を範とせよ。
歳々大義の滅し去ること、掌を指すよりも明白なり。

汝ら 大義の章々を熟読体得し、協力一致、大義護持以て 皇國を富岳の安きに置き、
聖慮を安んじ奉れ。  至嘱々々

                 父  五 郎
   正 殿  外
        兄弟一統

蛍の光

蛍の光

1.蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も すぎの戸を
  開けてぞ今朝は 別れゆく

2.とまるも行くも 限りとて
  かたみに思う 千萬(ちよろず)の
  心のはしを ひとことに 
  幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり


3.筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 
  海山遠く へだつとも
  その真心は へだてなく
  ひとえにつくせ 国のため

4.千島のおくも 沖縄も
  八洲の内の、守りなり
  至らん国に、勲(いさお)しく、
  努めよ我が背、恙無く(つつがなく)

 

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一般的に知られているのは1番と2番ですが
実は、3番と4番もあります。


3番
筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔てなく、ひとつに尽くせ、国のため。

(意味)

筑紫の果て、陸奥の果てまで祖国防衛のために赴く夫。妻は、海や山も遠くに隔てるが真心は隔てることなく

「どうぞお国のために尽くして下さい」

と言う情景

4番
千島の奥も、沖縄も、八州(やしま)の内の、守りなり、いたらん国に、勲しく、努めよ我が背、つつがなく。

(意味)

妻が歌います。

「千島も沖縄も八州(日本)の内の守りであり、どうぞこれから向かうところで功を立て、ご無事で任務を全うして下さい」

―――

蛍の光」は、現在、卒業の別れの歌、閉店の歌などのようにインプリンティングされてしまっている感もありますが実は、国防の歌なのです。

明治14年、我が国の北と南の守りの国境が画定してから作られたのが唱歌「蛍の光」です。


祖国防衛の任務のため、国境に赴く夫を妻が送る別れの歌なのです。

千島と沖縄は、明治になってから、日本帝国の領土となりました。

 

その領土の防衛の歌なのです。