高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

桐野 利秋(中村半次郎)

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中村半次郎(後年の桐野利秋)は「人斬り半次郎」と呼ばれ、幕末当時、その名を知らぬ者がいない存在だった。

 

白柄朱鞘の和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)を腰に帯びて、立派な体躯に絹布をまとい京都の大道を闊歩し、凜々しい眉の下から凄まじい眼光を放っていた ✨キラキラ

 

それにくわえて「人斬り半次郎」の異名が男たちに恐怖を与え、女性を妖しい魅力で惹きつけていた。

 

中村半次郎の剣術

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”中村の一手打ち”は新撰組や粗暴な浪士すら震え上がらせるほど強烈だった。

 

しかも中村はほとんど独力で一撃必殺の太刀捌きを身につけている。

 

伊集院鴨居のもとに通ったといわれるが、そこでは小示現流の手ほどきを受けたにすぎない。

 

中村 一家が貧苦にあえいでおり、昼夜となく耕作し、紙を漉(す)かねばいけなかったため彼は「吉野唐芋、紙漉武士」という侮蔑をこうむったのだが、闘争心を奮い立たせ、寸暇をぬすんでは樹木に木刀を叩きつけて剣技を磨き心胆を練った。

 

日々、中村半次郎は己を信じ その気持ちを樹木叩きつけていた。

 

そうして彼は薩摩の小松帯刀西郷隆盛に認められる存在となり、京へ出るようになった。

 

その頃から✨「人斬り半次郎」✨と呼ばれるようになるのだが、中村半次郎がどれだけの人を斬ったかは明らかになっていない。

 

 

しかし中村半次郎が剣の腕をあげる秘訣について

「ひと月に一人ずつ斬れば、日々剣法を学ぶにまさる」

 😱

と放言していたという逸話もあるのだから、相当な数を斬ったのだろう。

 

中村と親しかった中井弘は、

 

「中村は斬ると言えば、必ず斬る」

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と証言している。

 

……

 

その後、毎晩のように中村が悪夢にうなされるので、妾が揺り起こすと

 

「某所で斬った奴が血みどろになって挨拶に来た」

 

と言ったともいわれる。

 

それを聞けばおそしくなって妾が逃げ出すので、次々と妾ができても、居付くことはなかったとの事だ。

 

😱

 

……

 

っと以上はwww 「人斬り半次郎」に付随している伝説であって事実か否かはわからない。

 

 

しかし、中村が斬ったことを明かしている存在もいる。

 

彼が慶応三年に書きとめていた

『京在日記』

に「赤松小三郎」を斬ったことが記録されている。

 

赤松は砲術師範として薩摩藩に雇われていた人物だ。

 

中村も赤松から砲術を学んでいたが幕府側の間諜の疑いがあるため薩藩士田代五郎とともに暗殺している。

 

赤松の暗殺については

有馬藤太(ありまとうた)の談話

『維新の片鱗』

でも触れられ、やはり中村と田代が実行犯だと明言している。

 

有馬藤太の語るところによれば、中村の殺気を看取した小野強右衛門(剣術師範)が、中村を制止しようと追いかけた。

 

追いついたとき斬りかかる瞬間だったが、中村の鮮やかな太刀さばきに感服してしまい阻止できなかったという。

 

中村と田代が実行犯だと知るものは有馬と小野だけであり、師匠が殺されたといって仇討ちを企てる薩摩藩士もいたが、結局下手人が掴めずにおわったという。

 

痕跡をとどめないことにおいても、下手人と悟られないことにおいても中村は巧妙だったのだろう。

 

これはつぎに述べる用心深さに通ずるものがある。

 

用心深さ

彼は剣の腕のみに頼る匹夫ではなかった。

ほんのわずかな時間であっても一人で出歩かない用心深さがあり、こうしたところからして無謀の勇を誇る壮士輩とは異なり、後年の陸軍少将にのぼりつめたことは不思議なことではなかった。

(東郷嘉一郎談)

.....


中村半次郎と有馬藤太は無二の親友なのだが、彼が会津藩士二人に囲まれたときですら中村は姿を見せず、有馬が一人を斬り払い、もう一人が逃げたあとから出てきて


「実はさきほどからあの店先で見ていた。お前のことだから下手なことはしまいが、危うくなれば助太刀しようと様子を見ていたのだが、お前の今の早業にはまったく恐れ入った」


と言ったということである。

 

彼はこのように用心深く、しかも余裕綽々としていた(無論、有馬が危地に陥っていたら彼は例のごとき早業で片づけていただろうが)。

 

彼が「人斬り半次郎」で終わらず陸軍少将

 

桐野利秋

となることができた一因がここにある。

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肥後 敬神党(神風連)

幕末の熊本には三党派ありました。

学校党(佐幕攘夷)

勤王党(尊王攘夷)

実学党(尊王開国)

 

薩摩・長州によって成立した明治維新政府は

五カ条の誓文により公議世論の尊重と開国和親の方針を明らかにしました。

したがって、熊本の「実学党」の主張は政府に近く「学校党」、「勤王党」の攘夷論は政府と対立する立場にありました。

勤王党は林桜園(はやしおうえん)の私塾

『原道館(げんどうかん)』

の門弟を中心とした党派でしたが、明治5年ごろ神力による攘夷を主張しまし、

敬神党

が分立しました。

敬神党の特色は、神の意によって世の中は動く、人も神の意のままに行動すべきであるという信条・信念をもった人々でありました。

敬神党の人たちは明治政府の宗教政策に不満を持っていました。

神社の格付けや御神体調べに反対しました。

明治6年の政変以後、不平士族の反乱が実行されました。

 

 

明治九年(一八七六)に新開大神宮宮司

太田黒伴雄を首領とする敬神党(神風連)の志士が挙兵し、熊本鎮台を襲撃しました。


国を憂いた敬神党(神風連)の志士たち彼らは

「神事は本なり、人事は末なり」

といって、神道をふみ行うことを信条としていました。

この世に起こる事は、すべての神の作用によるものであり、誠心をつくして祈り、心力を時事につくせば、神様は必ず感応してくださる。

生死は人界にしかなく、神界にはない。

道を治めるものは昇天を尊ぶということを

『昇天秘話』

に書いています。

この思想が宮部鼎蔵や太田黒伴雄をはじめとする敬神党(神風連)の志士たちの精神的な支柱となりました。

神風連の志士たちには日本古来の神道に基づいた政治が行われるという期待がありました。

 

ところが、時の政府は欧化政策を進め、法律も制度も外国をまねて次々に変わっていきました。

攘夷を口にしていた政府の高官は外国に迎合し、尊皇攘夷論者を押さえるために各地に鎮台を設置しました。

忠義も孝行もすたれてゆく風潮を、神風連の人々は憂慮したのです。

 

新風連の変は、宇気比(うけい)の戦いといわれています。

宇気比とは神慮を伺う秘法で、『古事記』にも天の岩戸の前章に宇気比の神話があるほどです。

宇気比には三つの作法があります。

一、

審神者(神主・祈祷師)を以て神命を問うこと

二、

〆事(みそぎ・祓い)を以て神の心を問う

三、

夢見て神の訓を請う(願をかける、ひたすら祈ること)。

明治七年に新開大神宮(現熊本市内田町)で一度宇気比が行われましたが、直接行動は許されませんでした。

明治八年も同じ。。。

しかし、明治九年になって廃刀令が出され、断髪令も出されました。

この後、行われた宇気比で、初めて念願の宇気比の許しが出ました。

 

それを受けて、明治九年十月二三日の深更、

敬神党(神風連)太田黒伴雄を首領とする一七〇人の志士たちが決起したのです。

 

彼らは古来の刀槍の武器をもって、近代火砲を装備した熊本鎮台に攻め込んでいきました。

 

彼らは、勝敗を論じる戦略はなく、国体護持のために、むしろいかに死んでいくかを考えていたようです。。。

 

信仰に殉じ、主義に殉じ、日本の危機に殉じていた敬神党(神風連)の人々。。。。。。

 

我が故郷、肥後熊本が誇るご先祖さまを紹介しました。

 

 

杉本 五郎 中佐

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杉本中佐は昭和12(1937)年9月に支那事変の戦闘で戦死している。弁慶ではないが、立ったまま往生を遂げている。敵の手榴弾を浴びて倒れた杉本中佐は、軍刀を杖にして、立ち上がり、号令をかけ、倒れることもなく遙か皇居の方向に正対、挙手敬礼をして絶命したという。

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

Wikipediaより杉本五郎中佐を引用する

 

杉本 五郎(すぎもと ごろう)

明治33年(1900年)5月25日 ~昭和12年(1937年)9月14日)は、日本の陸軍軍人。

遺言本『大義』が大ベストセラーとなり、当時の思想に影響を与えた。

 

広島県安佐郡三篠町(現在の広島市西区打越町)生まれ。少年期から将校に憧れ、大正2年(1913年)、質実剛健を伝統とする広島藩の元藩校である旧制修道中学校(現修道中学校・修道高等学校)入学。大正7年(1918年)修道中学校を卒業し陸軍士官候補生として広島の歩兵第11連隊に入隊。しかし同年起こった米騒動は、日本帝国の内部的危機の開始を告げる大事件となり、国体安泰の安易な夢が一瞬に打ち破られ、杉本の深刻な思索と悲壮な人生が始まった。小作争議が激化し日本資本主義の屋台骨は揺らぎ始め、ロシア革命の影響で社会主義が台頭、また軍事的封建的支配の圧迫が加わり、社会に暗い圧迫感と絶望感が充満した。兵営の中から混乱した世の中を眺めた杉本は、危機を直感し自ら救世の先達になる決意を固めたのでは、と言われている。

しかし軍隊に入った杉本には窓は一方にしか開かれておらず、皇国の精神を発揚し実践するための勉学と修養とに全精神を傾倒していく。

 

大正8年(1919年)陸軍士官学校(33期)本科入校。大正10年(1921年)同校卒業。歩兵少尉に任官、再び歩兵第11連隊附となり、陸軍戸山学校、陸軍科学研究所で短期間の教育を受ける。また軍務の傍ら広島から毎週1回は必ず三原市にある臨済宗大本山・仏通寺に修養に通い出征までの9年間これを続けた。本来個人の精神的な修養原理である禅を国家論や道法論、人生論に持ち込み、独自の思想を形成していく。

 

昭和6年(1931年)、満州事変では第5師団臨時派遣隊第2大隊第8中隊長として出征、中国天津方面で軍事行動ののち帰還。この後、出世コースである陸軍大学校受験をしきりに薦められたが

「中隊長という地位が私の気持に一番よく叶っている。これ以上の地位につきたくない」

と拒否

「兵とともに在り、兵と生死をともにしたい」

と願った。

実際は、上官の受験への強い勧めに抗しきれず、一度だけ陸軍大学を受験している。結果は不合格であった。息子同然である兵の身上をよく調べ、貧しい兵の家庭へは、限られた給料の中から送金を欠かさなかった。昭和11年(1936年)勃発した二・二六事件に対しては「皇軍の恥」として、共産主義に対すると同様に不忠の汚名をかぶせ非難した。翌昭和12年(1937年)支那事変(日中戦争)が勃発。同年8月少佐に昇進、第2中隊長のまま、長野部隊に属し中国激戦地に従軍。同年9月、山西省広霊県東西加斗閣山の戦闘に於て戦死。

岩壁を登って敵兵約600の陣地へ、号令をかけながら突撃。手榴弾を浴び倒れたが、軍刀を杖としてまた立ち上がると再び号令をかけ、倒れる事なく遥か東方、皇居の方角に正対、挙手敬礼をして立ったまま絶命した。

38歳の生涯であった

(大義 )

死の寸前まで四人の息子への遺書として書き継がれた20通の手紙を妻へ送っている。これに接した同志らによって、これは私蔵すべきでない、と20章からなる遺書形式の文章『大義』として昭和13年(1938年)5月に刊行された。

これが青年将校士官学校の生徒など、戦時下の青少年の心を強く捉え「軍神杉本中佐」の名を高からしめ、終戦に到るまで版を重ね29版、130万部を超える大ベストセラーとなった。

本書は戦時中の死生観を示す代表的な著書とされ、天皇を尊び、天皇のために身を捧げることこそ、日本人の唯一の生き方と説いている。

本書を読み杉本に憧れ軍人を志した者も少なくない。文中、幾ヶ所も伏字があり、これは杉本の思いがあまりにも純粋で、当時の権力者をも容赦せず、軍部の腐敗や軍規の緩みなども手厳しく批判した箇所といわれる。

あまりに純粋な言行を煙たがれ激戦地に送られた、という噂が戦後出た。

本書にも登場する仏通寺の山崎益州管長は「少佐の次の大尉でなく、中尉の上の大尉でない。中隊長としても、他と比較することの出来ない「絶対の中隊長」であり「永遠の中隊長」であった」と述べている。

 

大山澄太の『杉本中佐の尊皇と禅』

山岡荘八軍神杉本中佐』

城山三郎『大義の末』

奥野健男軍神杉本五郎の誕生』

中桶武夫『軍神杉本五郎中佐』などの関係本がある。

その他広島で被爆死した映画監督・白井戦太郎が1938年、大都映画で 『噫軍神杉本中佐 死の中隊』という映画を製作している。

 

仏通寺の境内に杉本を記念する小さな碑と、渓流を隔てた岩壁に杉本の大書した「尊皇」の二文字が残る。

 

杉本五郎中佐の生き方、国体論、大義を調べると人としての歩む道がみえてくるかもしれない。

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軍神 杉本 五郎中佐 「緒 言」

緒 言


吾児孫の以て依るべき大道を直指す。

名利何んするものぞ、地位何物ぞ、断じて名聞利慾の奴となる勿れ。


士道、義より大なるはなく、義は 君臣を以て最大となす。

出処進退総べて 大義を本とせよ。

 

大義を以て胸間に掛在せずんば、児孫と称することを許さず。

一把茅底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも、専一に 大義を究明する底は、吾と相見報恩底の児孫なり。


孝たらんとせば、大義に透徹せよ。
大義に透徹せんと要せは、すべからく先ず深く禅教に入つて我執を去れ。

もし根器堪えずんば、他の宗乗に依れ。

戒むらくは宗域に止まつて奴となる勿れ。

唯々我執を去るを専要とす。


次に願わくは、必死以て 大義擁護の後嗣を造れ。

而してそは汝子孫に求むるを最良とし、縁なきも大乗根器の大士ならば次策とす。

一箇忠烈に死して、後世をして憤起せしむるは止むを得ざるの下策と知れ。

よろしく大乗的忠の権化、楠子を範とせよ。
歳々大義の滅し去ること、掌を指すよりも明白なり。

汝ら 大義の章々を熟読体得し、協力一致、大義護持以て 皇國を富岳の安きに置き、
聖慮を安んじ奉れ。  至嘱々々

                 父  五 郎
   正 殿  外
        兄弟一統

蛍の光

蛍の光

1.蛍の光 窓の雪
  書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
  いつしか年も すぎの戸を
  開けてぞ今朝は 別れゆく

2.とまるも行くも 限りとて
  かたみに思う 千萬(ちよろず)の
  心のはしを ひとことに 
  幸(さき)くと許(ばか)り、歌うなり


3.筑紫のきわみ 陸(みち)の奥 
  海山遠く へだつとも
  その真心は へだてなく
  ひとえにつくせ 国のため

4.千島のおくも 沖縄も
  八洲の内の、守りなり
  至らん国に、勲(いさお)しく、
  努めよ我が背、恙無く(つつがなく)

 

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

 

一般的に知られているのは1番と2番ですが
実は、3番と4番もあります。


3番
筑紫の極み、陸の奥、海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔てなく、ひとつに尽くせ、国のため。

(意味)

筑紫の果て、陸奥の果てまで祖国防衛のために赴く夫。妻は、海や山も遠くに隔てるが真心は隔てることなく

「どうぞお国のために尽くして下さい」

と言う情景

4番
千島の奥も、沖縄も、八州(やしま)の内の、守りなり、いたらん国に、勲しく、努めよ我が背、つつがなく。

(意味)

妻が歌います。

「千島も沖縄も八州(日本)の内の守りであり、どうぞこれから向かうところで功を立て、ご無事で任務を全うして下さい」

―――

蛍の光」は、現在、卒業の別れの歌、閉店の歌などのようにインプリンティングされてしまっている感もありますが実は、国防の歌なのです。

明治14年、我が国の北と南の守りの国境が画定してから作られたのが唱歌「蛍の光」です。


祖国防衛の任務のため、国境に赴く夫を妻が送る別れの歌なのです。

千島と沖縄は、明治になってから、日本帝国の領土となりました。

 

その領土の防衛の歌なのです。

 

高村光太郎「12月8日」、記憶せよ!

記憶せよ、12月8日。


この日世界の歴史改まる。アングロサクソンの主権、この日東亜の陸と海とに否定さる。


否定するものは彼らのジャパン、眇(びょう)たる東海の国にしてまた神の国たる日本なり。

 

そを治(しろ)しめたまふ明津御神(あきつみかみ)なり。


世界の富を壟断(ろうだん)するもの、強豪米英一族の力、我らの国に於いて否定さる。


我らの否定は義による。

 

東亜を東亜にかへせといふのみ。

 

彼らの搾取に隣邦ことごとく痩せたり。


われらまさにその爪牙(そうが)を砕かんとす。


われら自ら力を養ひてひとたび起つ。


老若男女みな兵なり。

 

大敵非をさとるに至るまでわれらは戦ふ。

 

世界の歴史を両断する。

 

12月8日を記憶せよ。

いろは歌

いろは歌(いろはにほへと…)

「いろはにほへと」というのはご存知でしょう。

全部書くと

「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす」

です。

これは、「いろは歌」と呼ばれる、47文字のひらがなを全部1回ずつ使った歌に出てくる文字の順番です。

そのいろは歌について解説してみましょう。


原文

色は匂へど 散りぬるを
我が世誰そ 常ならむ
有為の奥山 今日越えて
浅き夢見じ 酔ひもせず
読み方(現代仮名遣いで)

いろはにおえど ちりぬるを
わがよたれそ つねならん
ういのおくやま きょうこえて
あさきゆめみじ えいもせず


意味

花は咲いても散ってしまう。
そんな世の中にずっと同じ姿で存在し続けるものなんてありえない。
「人生」という険しい山道を今日もまた1つ越えて
はかない夢は見たくないものだ、酔いもせずに。


解説

○色は匂へど 散りぬるを
昔の人は花が咲くことを「色が匂ふ」と表現していました。だから、この文章は「花が咲いても散ってしまうのに」という意味です。

 

○我が世誰そ 常ならむ
「我が世」は「私の住む世界」ですから、「この世の中に」という意味。「誰そ」は「何が~だろうか」という、疑問を表現する言葉。「常」はここでは「永遠に同じ姿のまま」という意味ですから、「誰そ常ならむ」は直訳すると「誰が永遠に同じ姿のままなのですか」という意味です。でも現代でも、「1億円もする宝石なんて誰が買うんだ?」というと、誰が買うのか知りたいのではなく、「1億円もする宝石なんて買う人はいないだろう」という、強い否定と同じ意味を表わしますよね。それと同じで、「誰そ常ならむ」は、「永遠に同じ姿で居続けるものなんていないよ」と言っているのです。

 

○有為の奥山 今日越えて
「有為」自体は「形あるものと形のないもの」、つまり「愛や憎しみといった形のないものまで含めてこの世に存在するすべてのもの」という意味ですが、「有為の奥山」というと、そんないろいろなものが渦巻く人生を比喩する言葉になります。「そんな険しい人生を、今日もまた1つ越えて」ぐらいの意味です。

 

○浅き夢見じ 酔ひもせず
「浅き夢」は、眠りの浅い時に見る夢のことですが、そのぐらいあっという間に消えてしまう願望のことも指すようです。「浅き夢見じ」の「じ」は「~したくない」という意味なので、文章全体では酔ってもいないのに、そんなはかない夢は見たくないということです。