高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

敬天愛人

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敬天愛人

道は天地自然の物にして、人はこれを
行うものなれば、天を敬するを目的とす。


天を敬い人を愛し、天を知り、己を尽くし、
人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ねるべし。


即ち天とは、宇宙を含め、天地自然の道であり、人の道である。

 

故に天地自然を敬うは天意である。


天は人も我も、同一に愛し給うゆえ
我を愛する心を以って、人を愛するなり。

 

 



五省

五省(ごせい)

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大日本帝国海軍士官学校である海軍兵学校(現在は海上自衛隊幹部候補生学校)において用いられた五つの訓戒。


一 至誠に悖(もと)るなかりしか
〔誠実さや真心、人の道に背くところはなかったか〕

 

二 言行に恥づるなかりしか
〔発言や行動に、過ちや反省するところはなかったか〕

 

三 気力に欠くるなかりしか
〔物事を成し遂げようとする精神力は、十分であったか〕

 

四 努力に憾(うら)みなかりしか
〔目的を達成するために、惜しみなく努力したか〕

 

五 不精に亘(わた)るなかりしか
〔怠けたり、面倒くさがったりしたことはなかったか〕


五省は昭和7年、当時の海軍兵学校長 松下 元(はじめ)少将が創始したものです。

松下校長は、将来海軍将校となるべき兵学校生徒の訓育に意を用い、日々の各自の行為を反省させて明日の修養に備えさせるため、5ヵ条の反省事項を考え出し、これを日々生徒に実施させました。

その方法は、毎晩、自習終了5分前になるとラッパの合図を鳴らし、生徒はそれによって自習をやめ、机の上を片づけて瞑目静座し、当番の学生が五省を発唱し、各自心の中で反省するものでした。

 

今も五省海上自衛隊幹部候補生学校に継承されています。

一源三流

一源三流(いちげんさんりゅう)

と言う言葉があります。剣道をやられていた方は道場にこの言葉が掲げてあり目にされた事もあろうかと思います。

一源三流とは、人間の身体から流れ出るものには3つのもの、血と汗と涙があると言う事で、そしてこの三流は誠の心という一つの源から流れ出るという教えであります。

一源三流は江戸期の儒者伊藤仁斎の言葉だという説や幕末の剣豪、山岡鉄舟が唱えたという説もありますが、いずれも、三流の源は一つでそれは誠の心であり、この誠の心から三つの流れがほとばしる事、三つの流れは「血」と「汗」と「涙」である事が言えます。

〇国や正義を守るためには命を賭けて「血」を流す。

〇自分や家族のために全身全霊を込めて働き「汗」を流す。

〇友や人と喜怒哀楽を分かち合い共に「涙」を流す。
この「一源三流」の精神こそが今の日本に求められている精神だと思います。

一源三流をわかりやすく考えてみました。

(一源)  誠の心

(三流)誠の心から三つの流れ

一、国のために血を流す(国家存亡の危機には、身を捨てて事にあたる“情熱”を)


一、家のために汗を流す(両親・兄弟の為、一心不乱に努力する“活力”を)


一、友のために涙を流す(友達のために、涙を流せる“情け”を)

 

誠の心がない人は人間ではありません。

その上で情熱と活力と情けは、忘れてはいけないと、この言葉は説いています。

横井小楠 ( 国是七条 )

国是七条

 

1.大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。


1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。


1.諸侯の室家を帰せ。


1.外様・譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ。


1.大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。


1.海軍をおこし兵威を強くせよ。


1.相対交易をやめ官交易となせ。

......................................................

 

1.大将軍上洛して列世の無礼を謝せ。

将軍は、京へ行き、これまでの徳川家中心の政治を、朝廷に謝る。

小楠は、徳川幕閣政治を、徳川家のための「私」の政治である、これを、「公共の政」に改めるべきである。と主張した。「私」の政治を、「公共の政」に変えるために、先ず、これまでの「私」の政治を、天下に謝るべきである。このために、将軍は京へ赴き朝廷に謝るべきとした。

 

1.諸侯の参勤を止めて述職となせ。

参勤交代制をやめて、各大名は、将軍に各藩の情況を報告する制度に改める。

参勤交代制は、徳川幕閣政治を維持するための中核であったが、幕末になると制度疲労を起こし、各藩にとっては財政的な負担が大きく、松平春嶽をはじめ各大名より、改革の声が出始めていた。小楠は、「私」の政治の象徴としての参勤交代を廃止し、大名の役割を、「述職」とすることで、「公共の政」へ政治の体制を変革を図った。また、参勤交代に費やす莫大な費用を、外国から国土を守るための財源とすることとした。

 

1.諸侯の室家を帰せ。

各大名の奥方を、江戸へ常駐させず、各藩へ帰す。

大名の奥方は、いわば人質のようにして、江戸常駐が義務づけられていた。これも、「私」の政治を守る制度であり、その為の維持費の負担も、各藩にとっては莫大なものであった。参勤交代制同様に、この制度の変革を図った。

 

1.外様・譜代にかぎらず賢をえらびて政官となせ。

政治を司る地位には、これまでの伝統にこだわらず、優秀な人材の登用を行う。

徳川幕閣政治は、徳川家のまわりの人々によって政治が行われてきた。外国から条約の締結を要求される時代には、徳川家を守るという事を第一義に考える政治は通用しない。これまでの慣例にとらわれず、優秀な人材を登用することで、「私」の政治から「公共の政」へ改める事によって、諸外国との交易も行えるとした。

 

1.大いに言路をひらき天下とともに公共の政をなせ。

密室で、一部の地位の人だけで決めていく政治を改め、多くの人々の意見を集約する政治を行う。

徳川幕閣政治は、一部の地位の人々による専制政治であった。「日米和親条約」にしても、井伊大老を中心に、徳川幕閣政治を守るにはしかたがないという考えで、一部の人々の意見のみで、条約締結を行った。小楠は、国の大事な方針は、諸大名を集めて議論をし、皆の納得の上で決めていくべきだ、とした。徳川家の「私」の政治から、「公共の政」への転換。徳川家の「専制政治」から、「共和政治」への転換を図った。

 

1.海軍をおこし兵威を強くせよ。

外国の侵攻を防ぎ、日本を守るには海軍の増強が必要。

米・露・英などの国がアジアへ押し寄せ、インド・中国を支配下に置き、日本に対しても、一方的な条件で国交の要求をしてきている中で、国を守るには、海軍の増強が必要であるとした。しかし、徳川幕府のみでは海軍を増強するための財政力はないために、各藩との協力してその体制を作る必要があるとした。

 

1.相対交易をやめ官交易となせ。

外国との貿易を、国の管理下に置き、国の財政基盤を強化する。

外国のいいなりになる、自由貿易はせずに、貿易は当面は国の管理下に置くべきだとした。越前藩では、藩の管理下での貿易「物産総会所」で、藩が莫大な利益を得た。これを手本とし、国も貿易を管理下に置き利益を得ることで、海軍増強の費用の捻出を行うこととした。

乃木希典と「中朝事実」

元治元年(一八六四)年三月、当時学者を志していた乃木希典は、家出して萩まで徒歩で赴き、吉田松陰の叔父の玉木文之進への弟子入りを試みた。

ところが、文之進は乃木が父希次の許しを得ることなく出奔したことを責め

「武士にならないのであれば農民になれ」

と言って、弟子入りを拒んだ。それでも、文之進の夫人のとりなしで、乃木はまず文之進の農作業を手伝うことになった。

そして、慶應元(一八六五)年、乃木は晴れて文之進から入門を許された。乃木は、文之進から与えられた、松陰直筆の

「士規七則」

に傾倒し、松陰の精神を必死に学ぼうとした。

乃木にとって、「士規七則」と並ぶ座右の銘

『中朝事実』

であった。

実は、父希次は密かに文之進に学資を送り、乃木の訓育を依頼していたのである。そして、入門を許されたとき、希次は自ら『中朝事実』を浄書して乃木にそれを送ってやったのである。

以来、乃木は同書を生涯の座右の銘とし、戦場に赴くときは必ず肌身離さず携行していた。
日露戦争後の明治三十九年七月、参謀総長児玉源太郎が急逝すると、山縣有朋は、明治天皇に児玉の後任として乃木を参謀総長に任命されるよう内奏した。ところが、天皇陛下

「乃木については朕の所存もあることじゃから、参謀総長には他のものを以て補任することにせよ」

と仰せられた。そこで、参謀総長には奥保鞏が任命された。
他日、山縣が天皇に拝謁すると、天皇陛下

「先日乃木を参謀総長にとのことであったが、乃木は学習院長に任ずることにするから承知せよ。近く三人の朕の孫達が学習院に学ぶことになるのじゃが、孫達の教育を託するには乃木が最も適任と考えるので、乃木をもってすることにした」

こうして、明治四十年一月、乃木は学習院長に任ぜられた。明治天皇は、就任に際して、次の御製を贈られた。

『いさをある人を教への親として おほし立てなむ大和なでしこ』

乃木は、学習院の雰囲気を一新するため、全寮制を布き、生徒の生活の細部にわたって指導しようとした。この時代、乃木は自宅へは月に一、二度帰宅するだけで、それ以外の日は寮に入って生徒たちと寝食を共にした。

寮の談話室で、乃木は

山鹿素行と『中朝事実』

について、生徒たちに次のように語った。


「この本の著者は山鹿素行先生というて、わしの最も欽慕する先生じゃ。わしは少年時代、玉木文之進という恩師から山鹿先生を紹介せられ、爾来先生の思想、生活から絶大な感化指導を受け、わしが日本人としての天職を悟るに非常に役立つたというものじゃ」


乃木は『中朝事実』に真価について

 

「要はわが日本国本然の真価値、真骨髄をじゃな、よくよく体認具顕しその国民的大信念の上に日本精神飛躍の機運を醸成し、かくして新日本の将来を指導激励するということが、この本の大眼目をなしておるのじゃ」

 

と述べ、その序文については、次のように語っていた。


「人は愚かな者で幸福に馴れると幸福を忘れ、富貴に馴れると富貴を忘れるものじゃ。高潔なる国土、連綿たる皇統のもとに生を享けても、その国土、その大愛に狃れると自主独往すべき根本精神を忘却し、いたずらに付和雷同して卑屈な人間と堕する者が頻々として続出する。これが国家存立の一大危機というものじゃ」

 

「どうじゃな、ここの中華とは中朝と同じく日本国家の事じゃ。これは決して頑迷な国粋論を主張しているものではない。よきをとりあしきをすてて外国におとらぬ国となすよしもがな、
と御製にもある通り、広く知識を求め外国の美風良俗を輸入して学ぶことは国勢伸張の秘鍵ではあるが、それは勿論皇道日本の真価値を識り、その大精神を認識した上でのことでなければならぬのじゃ。盲滅法に外国人に盲従し西洋の糟を舐めて随喜し、いたずらに自国を卑下し罵倒するというのは、その一事すでに奴隷であって大国民たるの資格はない。国家興亡の岐路はそこにあるのじゃ。個人でも国家でも要は毅然たる独立大精神に生き、敢然と自主邁進するにある」

 

明治四十五年七月三十日、明治天皇崩御され、大正元年九月十三日に御大喪が行われることとなった。

殉死の二日前の九月十一日、乃木は午前七時に参内して皇太子(昭和天皇)と淳宮、光宮の三人が揃うのを待って、人ばらいをした。

そして

 

「私がふだん愛読しております書物を殿下に差上げたいと思いましてここに持って参りました。いまに御成長になったら、これをよくお読みになって頂きたい」

 

とお願いし、自ら写本したのが

 

『中朝事実』

 

だった。

南洲翁遺訓

第一ケ条

政府に入って、閣僚となり国政を司るのは天地自然の道を行なうものであるから、いささかでも、私利私欲を出してはならない。だから、どんな事があっても心を公平にして、正しい道を踏み、広く賢明な人を選んで、その職務に忠実に実行出来る人に政権を執らせる事こそ天意である。だから本当に賢明で適任だと認める人がいたら、すぐにでも自分の職を譲る程でなくてはならい。従ってどんなに国に功績があっても、その職務に不適任な人を官職に就ける事は良くない事の第一である。官職というものはその人をよく選んで授けるべきで、功績のある人には、俸給を多く与えて奨励するのが良いと南洲翁が申されるので、それでは尚書しょうしょ(中国の最も古い経典、書経しょきょう)仲虺ちゅうき(殷いんの湯王ゆおう (紀元前1600年前)の大臣)の誥こう(朝廷ちょうていが下す辞令書じれいしょ)の中に「徳の高いものには官位を与え、功績の多いものには褒賞ほうしょうを多くする」というのがありますが、この意味でしょうかと尋ねたところ、南洲翁は大変に喜ばれて、まったくその通りだと答えられた。

 

第二ケ条

 立派な政治家が、多くの役人達を一つにまとめ、政権が一つの体制にまとまらなければ、たとえ立派な人を用い、発言出来る場を開いて、多くの人の意見を取入れるにしても、どれを取り、どれを捨てるか、一定の方針が無く、仕事が雑になり成功するはずがないであろう。昨日出された命令が、今日またすぐに、変更になるというような事も、皆バラバラで一つにまとまる事がなく、政治を行う方向が一つに決まっていないからである。 

 

第三ケ条

政治の根本は国民の教育を高め充実して、国の自衛の為に軍備を整理強化し、食料の自給率、安定の為、農業を奨励するという三つである。その他の色々の事業は、皆この三つ政策を助ける為の手段である。この三つの物の中で、時の成り行きによってどれを先にし、どれを後にするかの順序はあろうが、この三つの政策を後回しにして、他の政策を先にするというようなことがあっては決してならない。

 

第四ケ条

国民の上に立つ者(政治、行政の責任者)は、いつも自分の心をつつしみ、品行を正しくし、偉そうな態度をしないで、贅沢をつつしみ節約をする事に努め、仕事に励んで一般国民の手本となり、一般国民がその仕事ぶりや、生活ぶりを気の毒に思う位にならなければ、政令はスムーズに行われないものである。ところが今、維新創業の初めというのに、立派な家を建て、立派な洋服を着て、きれいな妾をかこい、自分の財産を増やす事ばかりを考えるならば、維新の本当の目的を全うすることは出来ないであろう。今となって見ると戊辰(明治維新)の正義の戦いも、ひとえに私利私欲をこやす結果となり、国に対し、また戦死者に対して面目ない事だと言って、しきりに涙を流された。

 

第五ケ条

ある時『何度も何度も辛い事や苦しい事にあった後、志というものは始めて固く定まるものである。志を持った真の男子は玉となって砕けるとも、志をすてて瓦のようになって長生きすることを恥とせよ。自分は我家に残しておくべき訓があるが、人はそれを知っているであろうか。それは子孫の為に良い田を買わない、すなわち財産を残さないという事だ。』という七言絶句の漢詩を示されて、もしこの言葉に違うような事があったら、西郷は言う事と実行する事とが、反対であると言って見限っても良いと言われた。

 

第六ケ条
人材を採用する時、良く出来る人(君子)と普通(小人)の人との区別を厳しくし過ぎると、かえって問題を引起すものである。その理由は、この世が始まって以来、世の中で十人のうち七、八人までは小人であるから、よくこのような小人の長所をとり入れ、これをそれぞれの職業に用い、その才能や技芸を十分発揮させる事が重要である。藤田東湖先生(水戸藩士、尊王攘夷論者)が申されるには、「小人は才能と技芸があって使用するに便利であるから、ぜひ使用して仕事をさせなければならない。だからといって、これを上役にして、重要な職務につかせると、必ず国をひっくり返すような事になりかねないから、決して上役に立ててはならないものである。」と言われた。

 

第七ケ条 

どんな大きい事でも、小さい事でも、いつも正しい道をふみ、真心をつくし、一時の策略を用いてはならない。人は多くの場合、難しい事に出会うと、何か策略を使ってうまく事を運ぼうとするが、策略した為にそのツケが生じて、その事は必ず失敗するものである。正しい道を踏み行う事は、目の前では回り道をしているようであるが、先に行けばかえって成功は早いものである。

 
第八ケ条 

広く諸外国の制度を取り入れ、文明開化を押し進もうと思うならば、まず我が国の本体を良くわきまえ、風俗教化を正しくして、そして後、ゆっくりと諸外国の長所を取り入れるべきである。そうではなく、ただみだりに諸外国の真似をして、これを見習うならば、国体は弱体化して、風俗教化は乱れて、救いがたい状態になり、そしてついには外国に制せられる事になるであろう。

  

第九ケ条 

忠孝(よく君、国に仕え、親を大事にする事)仁愛(他人に対して恵み、いつくしむ心)教化(良い方に教え導くこと)は政治の基本であり、未来永遠に、宇宙、全世界になくてはならない大事な道である。道というものは天地自然の物であるから、たとえ西洋であっても同じで、決して区別はないものである。

 
第十ケ条

人間の知恵を開発、即ち教育の根本目的は愛国の心、忠孝の心を持つことである。
国の為に尽し、家のため働くという、人としての道理が明らかで有るならば、すべての事業は進歩するであろう。耳で聞いたり、目で見たりする分野を開発しようとして、電信を架け、鉄道を敷き、蒸気仕掛の機械を造って、人の目や耳を驚かすような事をするけれども、どういう訳で電信、鉄道が無くてはならないか、欠くことの出来ない物で有るかということに目を注がないで、みだりに外国の盛大なことをうらやみ、利害、損得を議論しないで、家の造り構えから、子供のオモチャまで一々外国の真似をし、身分不相応に贅沢をして財産を無駄使いするならば、国の力は衰退し、人の心は軽々しく流され、結局日本は破綻するより他ないではないか。

 

第十一ケ条

文明というのは道義、道徳に基づいて事が広く行われることを称える言葉であって、宮殿が大きく立派であったり、身にまとう着物が綺麗あったり、見かけが華やかであるいうことではない。世の中の人の言うところを聞いていると、何が文明なのか、何が野蛮なのか少しも解らない。自分はかってある人と議論した事がある。自分が西洋は野蛮だと言ったところ、その人はいや西洋は文明だと言い争う。いや、いや、野蛮だとたたみかけて言ったところ、なぜそれほどまでに野蛮だと申されるのかと強く言うので、もし西洋が本当に文明であったら開発途上の国に対しては、いつくしみ愛する心を基として、よくよく説明説得して、文明開化へと導くべきであるのに、そうではなく、開発途上の国に対するほど、むごく残忍なことをして、自分達の利益のみをはかるのは明らかに野蛮であると言ったところ、その人もさすがに口をつぼめて返答出来なかったと笑って話された。 

 
第十二ケ条

西洋の刑法はもっぱら、罪を再び繰り返さないようにする事を、根本の精神として、むごい扱いを避けて、人を善良に導く事を目的としており、だから獄中の罪人であっても緩やかに取り扱い、教訓となる書籍を与え、場合によっては親族や友人の面会も許すということである。もともと昔の聖人が、刑罰というものを設けられたのも、忠孝、仁愛の心から孤独な人の身上をあわれみ、そういう人が罪に陥るのを深く心配されたが、実際の場で今の西洋のように配慮が行き届いていたかどうかは書物には見あたらない。西洋のこのような点は誠に文明だとつくづく感ずることである。


第十三ケ条

税金を少なくして国民生活を豊かにすることこそ国力を高めることになる。
だから国の事業が多く、財政の不足で苦しむような事があっても決まった制度をしっかり守り、政府や上層の人達が損をしても、下層の人達を、苦しめてはならない。昔からの歴史をよく見るがよい。道理の明らかに行われない世の中にあって、財政の不足で苦しむときは、必ずこざかしい考えの小役人を用いて、その場しのぎをする人を財政が良く分かる立派な役人と認め、そういう小役人は手段を選ばず、無理やり国民から税金を取り立てるから、人々は苦しみ、堪えかねて税の不当な取りたてから逃れようと、自然に嘘いつわりを言って、お互いに騙し合い、役人と一般国民が敵対して、終には、国が分裂して崩壊するようになっているではないか。

 

第十四ケ条

会計出納(金の出し入れ)は、すべての制度の基本であって、あらゆる事業はこれによって成り立ち、秩序ある国家を創る上で最重要事であるから、慎重にしなければならない。その方法を申すならば、収入の範囲内で、支出を押えるという以外に手段はない。総ての収入の範囲で事業を制限して、会計の総責任者は一身をかけてこの制度を守り、定められた予算を超えててはならない。そうでなくして時勢にまかせ、制限を緩かにして、支出を優先して考え、それに合わせ収入を計算すれば、結局国民から重税を徴収するほか方法はなくなるであろう。もしそうなれば、たとえ事業は一時的に進むように見えても国力が疲弊して、ついには救い難い事になるであろう。

 
第十五ケ条 

常備する軍隊の人数も、また会計予算の中で対処すべきで、決して無限に軍備を増やして、から威張りをしてはならない。兵士の気力を奮い立たせて優れた軍隊を創りあげれば、たとえ兵隊の数は少くても、外国との折衝にあたってあなどりを受けるような事は無いであろう。

 

第十六ケ条

道義を守り、恥を知る心を失うようなことがあれば国家を維持することは決して出来ない。西洋各国でも皆同じである。上に立つ者が下の者に対して利益のみを争い求め、正しい道を忘れるとき、下の者もまたこれに習うようになって、人の心は皆財欲にはしり、卑しくケチな心が日に日に増し、道義を守り、恥を知る心を失って親子兄弟の間も財産を争い互いに敵視するのである。このようになったら何をもって国を維持することが出来ようか。徳川氏は将兵の勇猛な心を抑えて世の中を治めたが、今は昔の戦国時代の武士よりもなお一層勇猛心を奮い起さなければ、世界のあらゆる国々と対峙することは出来無いであろう。普、仏戦争のとき、フランスが三十万の兵と三ケ月の食糧が在ったにもかかわらず降伏したのは、余り金銭のソロバン勘定に詳しかったが為であるといって笑われた。

 

第十七ケ条

正しい道を踏み、国を賭けて、倒れてもやるという精神が無いと外国との交際はこれを全うすることは出来ない。外国の強大なことに萎縮し、ただ円満にことを納める事を主として、自国の真意を曲げてまで、外国の言うままに従う事は、軽蔑を受け、親しい交わりをするつもりがかえって破れ、しまいには外国に制圧されるに至るであろう。

 
第十八ケ条

話が国の事に及んだとき、大変に嘆いて言われるには、国が外国からはずかしめを受けるような事があったら、たとえ国が倒れようとも、正しい道を踏んで道義を尽くすのは政府の努めである。しかるに、ふだん金銭、穀物、財政のことを議論するのを聞いていると、何という英雄豪傑かと思われるようであるが、実際に血の出ることに臨むと頭を一カ所に集め、ただ目の前のきやすめだけを謀るばかりである。戦の一字を恐れ、政府の任務をおとすような事があったら、商法支配所、と言うようなもので政府ではないというべきである。 

 

第十九ケ条

昔から、主君と臣下が共に自分は完全だと思って政治を行った世にうまく治まった時代はない。自分はまだ足りない処がある、と考える処から始めて、下々の言うことも聞き入れるものである。自分が完全だと思っているとき、人が自分の欠点を正すと、すぐ怒るから、賢人や君子というような立派な人は、おごり高ぶっている者に対しては決して味方はしないものである。

 

第二十ケ条

どんなに制度や方法を論議しても、それを行なう人が立派な人でなければ、うまく行われないだろう。立派な人あって始めて色々な方法は行われるものだから、人こそ第一の宝であって、自分がそういう立派な人物になるよう心掛けるのが何より大事な事である。

 

第二十一ケ条

道というものは、天地自然の道理であるから、学問の道は『敬天愛人』を目的とし、自分を修には、己れに克つという事を心がけねばならない。己れに克つという事の真の目的は「意なし、必なし、固なし、我なし」我がままをしない。無理押しをしない。固執しない。我を通さない。という事だ。一般的に人は自分に克つ事によって成功し、自分を愛する(自分本位に考える)事によって失敗するものだ。よく昔からの歴史上の人物をみるが良い。事業を始める人が、その事業の七、八割までは大抵良く出来るが、残りの二、三割を終りまで成しとげる人の少いのは、始めはよく自分を謹んで事を慎重にするから成功し有名にもなる。ところが、成功して有名になるに従っていつのまにか自分を愛する心がおこり、畏れ慎むという精神がゆるんで、おごり高ぶる気分が多くなり、その成し得た仕事を見て何でも出来るという過信のもとに、まずい仕事をするようになり、ついに失敗するものである。これらはすべて自分が招いた結果である。だから、常に自分にうち克って、人が見ていない時も、聞いていない時も、自分を慎み戒めることが大事な事だ。

 

第二十二ケ条

自分に克つと言う事は、その時、その場の、いわゆる場あたりに克とうとするから、なかなかうまくいかぬものである。かねて精神を奮い起こして自分に克つ修行をしていなくてはいけない。

 

第二十三ケ条

学問を志す者はその規模、理想を大きくしなければならない。
しかし、ただその事のみに片寄ってしまうと、身を修める事がおろそかになってゆくから、常に自分にうち克って修養することが大事である。規模、理想を大きくして自分にうち克つことに努めよ。男子は、人を自分の心の中に呑みこむ位の寛容が必要で、人に呑まれてはだめであると思えよと言われて、昔の人の詞を書いて与えられた。

 その志を、おし広めようとする者にとって、もっとも憂えるべき事は自己の事をのみ図り。

けちで低俗な生活に安んじ、昔の人を手本となして自分からそうなろうと修業をしようとしないことだ。

古人を期するというのはどういうことですかと尋ねたところ、尭・舜(共に古代中国の偉大な帝王)を以って手本とし、孔子(中国第一の聖人)を教師として勉強せよと教えられた。

 
第二十四ケ条

道というの天地自然のものであり、人は之にのっとって生きるべきものであるから何よりもまず、天を敬う事を目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛し下さるから、自分を愛する心をもって人を愛する事が大事である。

 
第二十五ケ条

人を相手にしないで、天を相手にするようにせよ。天を相手にして自分の誠をつくし、人の非をとがめるような事をせず、自分の真心の足らない事を反省せよ。 

 
第二十六ケ条

自分を愛すること(即ち自分さえよければ良い)というような心はもっとも善くない事である。修業の出来ないのも、事業の成功しないのも、過ちを改める事の出来ないのも、自分の功績を誇り、驕りたかぶるのも、皆自分を愛することから生ずることで、決して自分だけを愛するようなことはしてはならない。

 
第二十七ケ条

過ちを改めるに、自分から過ったとさえ思いついたら、それで良い。その事をさっぱり捨てて、ただちに一歩前進するべし。過ちを悔しく思って、あれこれと取りつくろおうと心配するのは、たとえば茶わんを割って、その欠けらを集めて、合わせて見るのも同様で何の役にも立たぬ事である。

 

第二十八ケ条

道を行う事に、身分の尊いとか、卑しいとかの区別は無いものである。要するに昔のことを言えば、古代中国の尭・舜(共に古代中国の偉大な帝王)は国王として国の政治を行っていたが、もともとその職業は教師であった。孔子(中国第一の聖人)は魯の国を始め、どこの国にも政治家として用いられず、何度も困難な苦しいめに遭い、身分の低いままに一生を終えられたが、三千人といわれるその子弟は、皆その教えに従って道を行ったのである。

 

第二十九ケ条

正しい道を進もうとする者は、もともと困難な事に会うものだから、どんな苦しい場面に立っても、その事が成功するか失敗するかという事や、自分が生きるか死ぬかというような事に少しもこだわってはならない。事を行なうには、上手下手があり、物によっては良く出来る人、良く出来ない人もあるので、自然と道を行うことに疑いをもって動揺する人もあろうが、人は道を行わねばならぬものだから、道を踏むという点では上手下手もなく、出来ない人もない。
だから精一杯道を行い、道を楽しみ、もし困難な事にあってこれを乗り切ろうと思うならば、いよいよ道を行い、道を楽しむような、境地にならなければならぬ。


自分は若い時代から、困難という困難にあって来たので、今はどんな事に出会っても心が動揺するような事は無いだろう。それだけは実に幸だ。

 
第三十ケ条

命もいらぬ、名もいらぬ、官位もいらぬ、金もいらぬ、というような人は始末に困るものである。

このような始末に困る人でなければ、困難を共にして、一緒に国家の大きな仕事を大成する事は出来ない。しかしながら、このような人は一般の人の眼では見ぬく事が出来ない、と言われるので、それでは孟子(古い中国の聖人)の書に

『人は天下の広々とした所におり、天下の正しい位置に立って、天下の正しい道を行うものだ。もし、志を得て用いられたら一般国民と共にその道を行い、もし志を得ないで用いられないときは、独りで道を行えばよい。
そういう人はどんな富や身分もこれをおかす事は出来ないし、貧しく卑しい事もこれによって心が挫ける事はない。また力をもって、これを屈服させようとしても決してそれは出来ない』

 

と言っておるのは、今、仰せられたような人物の事ですかと尋ねたら、いかにもそのとおりで、真に道を行う人でなければ、そのような精神は得難い事だと答えられた。

 
第三十一ヶ条

正しい道を生きてゆく者は、国中の人が寄って、たかって、悪く言われるような事があっても、決して不満を言わず、また、国中の人がこぞって褒めても、決して自分に満足しないのは、自分を深く信じているからである。
そのような人物になる方法は、韓文はんぶん公こう(韓退之かんたいし、唐とうの文章家ぶんしょうか)の「伯夷はくいの頌しょう」(伯夷はくい、叔斉しゅくさい兄弟きょうだいの節せつを守まもって餓死がししたことを褒め称えた文ぶんの一章いっしょう)をよく読よんでしっかり身に付けるべきである。

 

第三十二ヶ条

正しく道義を踏みおこなおうとする者は、偉大な事業を尊ばないものである。
司馬温公(中国北宋の学者)は寝室の中で妻と密かに語ったことも他人に対して言えないような事は無いと言われた。独りを慎むと言う事の真意は如何なるものであるかわかるでしょう。人をあっと言わせるような事をして、その一時だけ良い気分になることを好むのは、まだまだ未熟な人のする事で、十分反省すべきである。

 

第三十三ヶ条

かねて道義を踏み行わない人は、ある事柄に出会うと、あわてふためき、なにをして良いか判らぬものである。たとえば、近所に火事があった場合、かねて心構えの出来ている人は少しも動揺する事なく、これに対処することが出来る。しかし、かねて心構えの出来ていない人は、ただ狼狽して、なにをして良いか判らず的確に対処する事が出来ない。それと同じ事で、かねて道義を踏み行っている人でなければ、ある事柄に出会った時、立派な対策はできない。私が先年戦いに出たある日のこと、兵士に向かって、自分達の防備が十分であるかどうか、ただ味方の目ばかりで見ないで、敵の心になって一つ突いて見よ、それこそ第一の防備であると説いて聞かせたと言われた。

 

第三十四ヶ条 

策略(はかりごと)は普段は用いてはならない方が良い。
策略をもって行なった事は、その結果を見れば良くない事がはっきりしていて、必ず判るものである。ただ戦争の場合だけは、策略が無ければいけない。しかし、かねて策略をやっていると、いざ戦いという事になった時、上手な策略は決して出来るものではない。諸葛孔明(古代中国の宰相)はかねて策略をしなかったから、いざという時、あのように思いもよらない策略を行うことが出来たのだ。自分はかつて東京を引揚げたとき、弟(従道)に向かって

『自分はこれまで少しも、謀ごとを、やった事が無いので、ここを引揚げた後も、跡は少しも濁ることはあるまい。それだけはよく見ておけ』

と言っておいたという事である。

 

第三十五ヶ条

人をごまかして、陰でこそこそと策略する者は、たとえその事が上手に出来あがろうとも、物事をよく見抜く人がこれを見れば、醜い事がすぐ分かる。人に対しては常に公平で真心をもって接するのが良い。公平でなければ英雄の心を掴む事は出来ないものだ。

 

第三十六ヶ条

聖人せいじん賢者けんじゃになろうとする気持ちがなく、昔の人が行なった史実をみて、自分にはとてもまねる事が出来ないと思うような気持ちであったら、戦いに臨んで逃げるより、なお卑怯なことだ。朱子しゅし(昔むかしの中国ちゅうごく南宋なんそうの学者がくしゃ)は抜いた刀を見て逃げる者はどうしようもないと言われた。誠意をもって聖人せいじん賢者けんじゃの書を読み、その一生をかけて培われた精神を、心身に体験するような修業をしないで、ただこのような言葉を言われ、このような事業をされたという事を知るばかりでは何の役にも立たぬ。私は今、人の言う事を聞くに、何程もっともらしく論じようとも、その行いに精神が行き渡らず、ただ口先だけの事であったら少しも感心しない。本当にその行いの出来た人を見れば、実に立派だと感じるのである。聖人せいじん賢者けんじゃの書をただ上辺だけ読むのであったら、ちょうど他人の剣術を傍から見るのと同じで、少しも自分の身に付かない。自分の身に付かなければ、万一『刀を持って立ち会え』と言われた時、逃げるよりほかないであろう。

 

第三十七ヶ条

未来みらい永劫えいごうまでも信じて心から従う事が出来るのは、ただ一つの真心だけである。昔から父の仇を討った人は数えきれないほど大勢いるが、その中でひとり曽我兄弟きょうだいだけが、今の世に至るまで女子子供でも知らない人のないくらい有名なのは、多くの人にぬきんでて真心が深いからである。真心がなくて世の中の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。真心が深いと、たとえその当時、知る人がなくても後の世に必ず心の友が出来るものである。

 

第三十八ヶ条

世の中の人の言うチャンスとは、多くはたまたま得た偶然の幸せの事を指している。しかし、本当のチャンスというのは道理を尽くして行い、時の勢いをよく見きわめて動くという場合のことだ。つね日頃、国や世の中のことを憂える真心がなくて、ただ時のはずみにのって成功した事業は、決して長続きしないものである。 

 

第三十九ヶ条

今の人は、才能や知識だけあれば、どんな事業でも思うままに出来ると思っているが、才能に任せてする事は、危なかしくて見てはおられないものだ。しっかりした内容があってこそ物事は立派に行われるものだ。肥後の長岡先生(長岡監物、熊本藩家老、勤皇家)のような立派な人物は、今は見る事が出来ないようになったといって嘆かれ、昔の言葉を書いて与えられた。

 

『世の中のことは真心がない限り動かす事は出来ない。才能と識見がない限り治める事は出来ない。真心に撤するとその動きも速い。才識があまねく行渡っていると、その治めるところも広い。才識と真心と一緒になった時、すべての事は立派に出来あがるであろう』

 
第四十ヶ条

南洲翁に従って犬を連れて兎うさぎを追い、山や谷を歩いて一日中狩り暮らし、田舎の宿で風呂に入って、身も心も、きわめて爽快そうかいになったとき、悠々ゆうゆうとして言われるには『君子の心はいつもこのように爽さわやかなものであろうと思う』と。

 
第四十一ヶ条

修行して心を正して、君子の心身を備えても、事にあたってその処理の出来ない人は、ちょうど木で作った人形と同じ事である。たとえば数十人のお客が突然おしかけて来た場合、どんなに接待しようと思っても、食器や道具の準備が出来ていなければ、ただおろおろと心配するだけで、接待のしようもないであろう。いつも道具の準備があれば、たとえ何人であろうとも、数に応じて接待する事が出来るのである。だから、普段の準備が何よりも大事な事であると古語を書いて下さった。

 

『学問というものはただ文筆の業のことをいうのではない。
必ず事に当ってこれをさばくことのできる才能のある事である。武道というものは剣や楯をうまく使いこなす事を言うのでは無い。必ず敵を知ってこれに処する知恵のある事である。才能と知恵のあるところはただ一つである』

 

 

 

宮本武蔵 五輪書(空の巻)

 二刀一流の兵法の道を空の巻として書きあらわす。空というものは、見ようとして見えないもので、心と体にいっぱいに満たした状態が空である。もちろん、空とはないということである。存在が見えない。世間一般においては、悪い言い方をすれば、物をわきまえていないことを空であると誤解している。それは本当の空ではない。この兵法の道においても、武士の兵法を理解していないので、空の状態にはなっていないのに、いろいろと迷い、どうしていいのか分からなくなり、空虚になってしまっている状態を空と誤解しがちであるけれども、これは真の空ではない。武士は兵法の道を確かに覚え、その他の武芸をよく理解し、武士のおこなう道がはっきり理解出来ていて、心が迷わない状態で、日々を怠らずに鍛錬し、心、意の2つの心を磨き、観、見の目を研ぎ、少しもくもりがなく、迷いの雲が晴れている状態こそ真の空と思うべきである。


実の道を知らずにいるのは、仏法によらず、世間の法によらず、自分で正しい道と思っていて、いいことだと思っているけれども、本当の道から考えると、世の中の大きなほんものの尺度に合わせてみると、贔屓目であったり、歪んでいたりで、正しい道から外れているのである。この道理をよくわきまえて、まっすぐなところに基本を置き、実の心を道として、兵法の道を広く行い、ただしく、明らかに、物事を大きく捉え、空の境地に到達し、道は空に成る事だと見極める。


空には、善があり惡無し 智があり、理があり、道が有り、(真)心の根本は空也