高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

宮本武蔵 五輪書(風の巻)

 

兵法の道では、他流の道を知ることが大切と考えて、他流のさまざまな兵法をここに書付け、『風の巻』としてこの巻を表した。他流の道を知らなくては、一流の道を的確に表現することは出来ない。大きな太刀を使い、道場で強いということだけをその兵法の売りにしてはならない。、ある流派は短い太刀を使って剣法に専念する。あるいは多くの太刀筋を使い分けて、太刀の構えを表だ、奥だと称して道を伝える流派もある。
これらがのすべてが正しい道でないことを、この巻の中にはっきり書き表し、兵法の善悪理非をはっきりさせる。一流の兵法は彼らとは全く違ったものである。
他流の人々は武芸の道を生計の手段とし、華やかな技巧を飾って、道場で売りものに仕立てているのであって、全く兵法の正しい道からは外れたものである。また世間の兵法の発展を剣術だけに小さく限定してしまい、太刀を振る訓練をし、強い身のこなしを憶え、時間をかけているようだが、いずれも真の兵法のみちでない。
ここに他の流派の欠点をいちいち書き表しておくので、よくよく吟味してわが二刀一流の道理を学んでもらいたい。

 

一 他流に大なる太刀を持つ事
他流に大きな太刀を好むものがある。我が一流の兵法から見れば、この流派を弱者の兵法とみる。その理由は、他の流儀では敵に勝つ道理を云わず、手段に偏って勝つ方法を云い、太刀の長さを長所として、敵の太刀の届かぬところから勝ちを得ようとするので、長い太刀を好むからである。世間で”一寸、勝り”とを言っているのは兵法を知らぬ者の言い分にすぎない。そうであるから兵法の道理を会得していなくって、太刀の長さによって遠いところから勝ちを得ようとするのは、心の弱さのためであって、これをを弱者の兵法と見立てたのである。
もし敵と近づいて互いに組み会うほどのときは、太刀が長いほど打つことができず、太刀を自由に振り回すこともできず、太刀やっかいとなって、短い脇差を振るよりも劣るものである。オールマイティじゃない。長い太刀の流派にはその言い分はあろうが、それは独り善がりのへ理屈にすぎない。正しい道よりみれば道理のないことである。もし長い太刀を持たないで、短い太刀を使うときには必ず負けざるを得ないであろう。
また戦いの場所により、上下左右などに空間がないときや、また脇差だけが使える場合においても、長い太刀に執着していると兵法に対する不信感に発展していき、兵法自体の発展にも悪い。人によって、力が弱く長い太刀をを使えないものもある。昔から大は小兼ねるといわれており、むやみに長い太刀の嫌うのではない。ただ長い太刀にばかり執着する心を嫌うのである。
多人数の戦いにあてはめた場合、長い太刀は多くの人数に相当し、短い太刀は小人数にあたる。小人数と大人数と闘うことはできないであろうか。小人数で多人数に勝った例はいくらもある。我が流においては、狭い考えを嫌うのである。よくよく吟味しなければならない。

 

一 他流において強みの太刀と云ふ事
太刀において、強い太刀に弱い太刀ということはあるはずがない。強い気持ちで振る太刀は粗雑なものとなる。粗雑な太刀だけでは勝ちを得るのは難しいものである。また強い太刀だと言っても人切るとき、強く切ろうとするばかりでは、かえって切れないものである。試し切りの場合にも強く切ろうとするのはよくない。だれでも敵と切り合うとき弱く切ろう、強く切ろうとか考えるものではない。ただ、人を切り殺そうと思うときは、強くきろうとも思わず、もちろん、弱く切ろうとも思わない。敵を殺す程と思うだけである。また力を込めた太刀で、相手の太刀を強く打てば、体制が崩れ悪い結果が生じるものである。相手の太刀に強く当たれば、我が太刀もそのために折れてしまうものである。そういうわけであるから、強く振る太刀ということはありえないのである。多人数の戦いにあてはめてみれば、強力な軍勢を
持ち、戦いに力強く勝とうとすれば、敵も当然強力な兵卒をそろえて、激しい戦いをしようとするので、これはどちらも同じである。戦いに勝つことは正しい道理なしには勝つことはできない。我が一流の兵法の道おいては、無理なことは少しも思わず、兵法の智力によって、どのようにも勝ちを得るということをよくよく工夫せよ。

一 他流に短き太刀を用ゆる事
短い太刀で勝とうとするのは正しい道ではない。昔から太刀、小刀と分けて、長い、短いをいい表している。一般に力の強いものは大きな刀も軽く振ることができるので、わざわざ短い太刀を用いる必要はないのである。そのわけは長さの利点を活用して槍やなぎなたを使うものだからである。
短い太刀を特に愛用するものは、敵が振るう太刀の間を、隙につけ入ろうと思うのであり、このように心が偏ったのはよくない。また敵の好きな様になってばかりいると、すべてが後手となり、敵ともつれ合うことになってよくない。さらにまた、短い太刀によって敵の中へ入り込み1本とろうとするやり方では、(道場で1本取れるが)大敵の中では通用しないものである。
短い太刀ばかりを用いたものは多くの敵に対して、切り払おう、自由に飛び回ろうと思っても、すべてが受け太刀となり、敵とからみあってしまって、確実な兵法の正しい道ではない。同じことならば、わが身は強くまっすぐな状態にして、敵を追い回し、飛び跳ねさせ、うろたえさせるように仕掛けて、確実に勝利を得ることが道である。
多人数の戦いにあっても同じ道理である。同じことならば、大軍勢でいきなり敵に攻め込み、即座にせん滅することが兵法の道である。世間の人々が、兵法を習うのに、常日頃から受ける、交わす、くぐるなどのことばかりで習っていると、潜在的な心に引きずられて、後手に回り、敵に追い回されてしまうものである。兵法の道は正しく、まっすぐなものであるから、正しい道理を以って敵を追いまわし、相手を従えていくことが大切である。よくよく吟味せよ。

 

一 他流に太刀かず多き事
他流において、数多くの太刀の使い方を人に伝えていることは、兵法を売り物に仕立てて、太刀の使い方をいろいろ知っていることを、初心者に感心させるためであろう。これは兵法で最も嫌うべきことである。
その理由は、人を切るのにいろいろの方法があると考えるのが誤りだからである。人を切るということに変わりはない。兵法知るもの知らないもの、女子供であっても、敵を切るということに多くのやり方があるわけではない。切るということ以外には、突く、薙ぐことがあるだけである。とにかく敵を切ることが兵法の道であれば、そのほかに多くの使い方があるべきはずはない。しかしながらその場所や事情によって、例えば上や脇がつまっているところでは、太刀がツカエない様に持つから、太刀の持ち方には五方といって、五種類はあるはずである。それ以外に付け加えて、手を捻るとか、身を捻り、飛びひらき、敵を切ることは正しい兵法の道ではない。敵を切るのに、ひねったり、飛んだり、開いたりして切れるものではない、全く役に立たないことである。
わが兵法にあっては身も心もまっすぐにして、敵をひるませ、ゆがめて、平静さを失ったところで勝つ、このように思う事が肝心なのである。よくよく吟味せよ。(小技は決定的チャンスを掴むまでの便法で,失敗の可能性もあり、合戦では応用できない。)

 

一 他流に太刀の構を用ゆる事
太刀の構え方に重点を置くのは誤った考え方である。世間一般には構えをするということは敵がいない場合のことであろう。そのわけは昔からの先例や、今の時代の方法はなどと法則性をつくることは、勝負の道にはあり得ない。相手に具合が悪いように仕込むことなのである。物事の構えというのは、動遥しない体制をとるための用心なのである。城ををかまえたり、陣をかまえたりすることは、人に仕掛けられても、少しも動遥しない状態をいい表しているのであるが、これは平常のことである。ところが兵法の勝負の道では、何事も先手先手を心掛けることである。これに反して構えるということは、先手を待っている状態である。よくよく工夫せよ。
兵法の勝負の道では、、相手の構えを揺させ、おびやかし、敵をうろたえさせ、敵が混乱して拍子が狂っているところに乗じて勝つのであるから、構えなどという後手の態度を嫌うのである。従ってわが兵法においては、有構無構すなわち構えがあって構えがないというのである。
多人数の戦いの場合にも、敵の兵数に多少を知って、戦場の状態を見極め、我が人数の程度ははかり、その長所を生かして人数を決め、戦いを始めることが合戦に最も重要なことである。人に先手を仕掛けられたときと、自分から仕掛けたときには戦いの有利さは倍も違う。太刀をよく構え、敵の太刀をよく受けよく、弾いたと思っても、所詮受け身というものは、槍や薙刀のような長いものを持っていても、防御にこしらえた柵が槍長太刀を跳ね返しているのと同じことで、本当に敵を打つことはできない。どちらにしても、結果的に負けるなら槍薙刀の代わりに柵木を武器にしても同じである。よく吟味すべきである

 

一 他流に目付といふ事
他流では目付といって、それぞれの流儀により、敵の太刀に見を付けるものと、手に目をつけるもの、また、顔、足などに目をつけるものがある。このように特別に目付けを強調すると、それに惑わされて、兵法の迷いとなるものである。その訳は例えば、鞠蹴る人は鞠に目をつけていないのに、自在に蹴る。ものに習熟するということによって、確かに目でものを追う必要はない。また曲芸などをするものの技にも其の道に習熟すれば、戸板を鼻の上に立てたり、刀をいくらでも手玉に取る、これも皆確かに目をつけることなのだけれども、いつも手慣れているから自然によく見える。兵法においてもその時々の敵との戦いに熟れ、人の技量が解り、兵法の道をを体得できれば、太刀の遠近遅速までもすべて見えるものである。目のつけどころは、相手の心に付いた目で、心眼を働らかせねばならないのである。であるから
我が一流においては、観、見の二通りの目付けがある。観の目を強くして敵の心を見、その場の位を見、大きく目つけてして、その戦いの流れを見て、正しくを勝つことに専心しなければならない。多人数の戦いにおいて、小さいいいところに目をつけてはならない。前にも書いたように、細く小さく目をつけることは、大きな目的を見失い、迷う心が出来て、勝つことを逃すものである。この道理をよくよく吟味して鍛錬すべきである。

一 他流に足つかひ有事
足の踏み方に浮き足、飛び足、はね足、踏みつける足、からす足などと言っていろいろとある。これらはわが兵法から見ればすべて不十分と思われる。浮き足を嫌う理由は、戦いになれば必ず足は浮くようになるので、しっかりと確実に足を踏むことが大切である。また飛び足もよくないのは、飛びあがるとそれによって、次の動作が自由を失うからである。幾度も飛ぶ必要はないのだから、飛び足はよくないのである。また、はねるという気持ちがあってはうまく行かないものである。踏みつける足は待ちの足で特に嫌う、敵に先手を取られる。その他にからす足などと、いろんな速い足遣いがある。また沼、深田、山、川、石原、細道などでも闘う場合が在るから、その場所によって飛び跳ねることができない。平常心のときの姿勢で足らず、あまらず、足が乱れのないようにすべきだ。多人数の戦いにあっても、足の運びが肝要である。敵の意図や手段が理解できないまま、やたらに早くかかれば拍子が狂って、勝ちがたいものである。敵にうろたえがあって、崩れ目が見えるのに、早く勝負をつけることができなくなるのである。敵がうろたえ,崩れる状況をよく見わけて、少しも敵に余裕を与えないようにして勝つことが肝心である。よくよく鍛錬せよ。

 

一 他の兵法に早きを用ゆること
兵法で、さばきが素早いというのは本筋ではない。素早いということは、物事にある拍子のリズムに合わせるもので、速いリズム、遅いリズムといろいろあり、上級者のリズムは早いようには見えないえないものだ。例えば、朝から暮れまでで160キロから200キロと、早く歩く人もある。要領の悪い人は1日中急ぎ続けてもハカがいかず、くたびれ儲けになる。踊り上手に合わせるのに、謡が下手ならば遅れるのを恐
れて、忙しいリズムになる。またツツミ太鼓で老松を打つと静寂感が漂うものだが、下手はこれにも遅れる。高砂は急テンポのリズムだが、早すぎるとよくない。”こける”と言って間が外れる、もちろん遅れてはよくない。とにかく上手のすることはゆっくり見えて、間が飛んだりしない。何事も慣れた、上手のをすることは、忙しくは見えない。鍛錬して、道の理を知れ。特に兵法の道で早すぎるリズムはよくない。沼、深田では、足も、体も動かしにくいので、太刀筋はもっと動かしにくい。早く切ろうと焦ると、扇や小刀のような小ぶりなものならともかく、着実に切ろうとしても切れない、よく考慮せよ。多人数の戦いにしても、早く早くと急ぐう気持ちはよくない。”枕を押さえる”を思い出し、それくらいの気持ちで丁度良い。無駄で無分別の行動はしないで、冷静になり、人に動かされないことが肝要である。この心を工夫し鍛錬するべきである。

 

一 他流に奥表と云う事
兵法のことにおいて、いずれを表といい、何を奥ということができようか。芸によっては時折、極意秘伝などと言って、奥義に通ずる入り口があるけれども、いざ敵と討ち合うときになれば、表で戦い奥で人で切るなどというものではない。わが兵法を人に教える場合には、初めて兵法を習うなう人には、その人の技量に応じて、早く出来そうなところからまず習わせ、早く理解できるような道理などを教え、理解しがたい道理については、その人の理解の進んでいったところ頃合いに従って、次第に深い道理をの後に教えていくように心がけている。しかしながら大抵は実際に敵と打ち合うときの道理を通して理解させているのであるから、奥義に通じる入り口ということはないのである。例えば世間一般に山の奥へ行こうとしてもっと奥へ行こうと思えばかえって、入り口に出てしまうものである。何事の道であっても奥義が役に立つこともあり、また表を使って有効なこともある。この兵法の道にあっては、何をかくして、何を公にするか、などあるであろうか。従ってわが流儀を伝えるには誓詞やは罰文などというものは用いない。この兵法を学ぶ人の智力を見て正しい道を教え、兵法を学ぶうちに身につくさまざまな欠点を除き、自然に武士の道の正しいあり方を悟らせて、動揺しない心にすることがわが兵法の人に教える道であるよくよく鍛錬しなければならぬ。

右は他流の兵法を九カ条として風の巻としてあらまし書き表した。一流一流について、入り口より奥義までを詳しく書きが表さなければならないが、わざと何々の何の極意といった名を記すことはしなかった。そのわけは、それぞれの流派による理論は、その人、各自の考えがあるから、同じ流儀の中でも多少は見解の違いがあるものであるから、後々までのためにどの流派の太刀筋ということは書かなかったのである。そこで他流の大体を九つに分けてみたのである。世間の正しい道理からすれば、長い太刀に偏り、あるいは短い太刀こそ良しとし、強弱のみにこだわり、大まかなことも、また細かなこともすべて偏った道であることが、他流の入り口や奥義のことを書かなくともすべて解るはずであろう。我が一流の兵法にあっては太刀の使い方に初心も奥義もない。極意の構えなどということもない。ただ心の正しい動きによって兵法の特長をわきまえることが最も肝心なのである

宮本武蔵 五輪書(火の巻)

 

 二天一流の兵法におい、戦いのことを火の勢いに見立てて、勝負に関することを火の巻として、この巻に書きあらわすものである。世に兵法と呼ばれるものをだれもかれももが矮小化し、指先の力加減、手首の動きなどを。あるいは扇を持って、ひじから先の小器用さを述べ、また竹刀などでわずかなスピード技を述べ、手や足の動きを練習し、小器用さだけ得ようとしている。わが兵法にあっては、数度の勝負に命をかけて打ち合い、死ぬか生きるかの兵法を実戦した。刀の道筋をおぼえ、敵の打つ太刀の強弱を知り、太刀筋をわきまえ、敵を倒す鍛錬を覚えようというのに、このような小手先だけの、小さな、弱々しい技では問題にならない。特に六具に身をを固めた実戦の場などで、小手先によることなど考えることもできない。さらに命がけの戦いで、1人で5人、10人とも戦い、確実に勝利するのが我が道である。 従がって1人で10人に勝つことも、1,000人で万人に勝つことも何ら違いはないのが道理である。よくよく調べなければならない。しかしながら、普段の稽古で、1,000人も万人も集めて訓練をすることはできない。例えひとりで太刀をとっても、その時その時の敵の計り事を見抜き、敵の強弱や勝機への手だてを知り、兵法の智恵の力を以って万人に勝つところを極めた後、この道の達人たり得るのである。兵法の正しい道を、自分が極めようとしっかり決意し、朝に鍛、夕に錬、技を磨き尽くした後に、人は自在自然に奇特な力を得、自由自在の神秘な力を持つことができるようになるのである。これが兵法を行う神髄である。


一 場の次第と云ふ事

 場の位置を見極める。陽を後ろに背負って構えるのだ。陽を後ろにする事ができないときは、右の脇へ陽を持ってくる。座敷においても、明かりを後ろに、右脇に。自分の後ろの場がつまらないように。夜なども、敵の見える場においては、火を後ろに負ひ、または明かりを右わきにすること。敵を見下ろす、少しでも高いところに構える心を。座敷では上座が高きところ思うべし。 さて、戦いになって、敵を追い回すこと、自分の左の方へ 追い回す。難所を敵の後ろに、とにかく敵を難所追いやることが肝心である。 難所で敵に場を見せず、伺わせず油断なくせり込む。 座敷においても、敷居、鴨居、障子、縁、柱なども同様、いずれも適を追い回す。足場の悪い方へ。または、脇に構造物のあるところへ。いずれも場を利用し。場の利に勝ちを抑えることが肝心。よくよく吟味し鍛錬あるべきである。 兵法の道を鍛錬する者は、平常心の時から、座敷に居ても構造物の利や、位置の利を考え、野山に出ても、山の地の利を考え、川でも、沼でも、いつも地の利を考える心構えが肝要である。 一 三つの先と云ふ事(先手)

 三つの先、一つは我が方より敵へ掛る時の先手、之を『懸の先』と云ふなり。又一つは敵より我方にかゝる時の先手、是は『たいの先』と云ふなり。又一つは我もかゝり敵もかゝり合う時の先手、『対々の先』と云ふ是三つの先なり。何れの戦いの初めにも此三つの先より外はなし。先の状況により勝つ事を得るものなれば、『先』と云ふ事兵法の第一なり。先の状況の仔細は様々あるが、ケースバイケースで論理的に分析し利を生かし、敵の心を見、我兵法の智恵を以て勝つ事なれば、細やかに書き分ける事ではない。第一『懸の先』は、我かゝらんと思ふ時、静にして時をはかり、俄かに早くかゝるのが『先』である。身体の上を強く早くし、底をのこす気持ちでやる『先』、又我心の思いを強くして、しかも、足は常の足より少し早い程度で、敵のわきへ寄ると、早く揉(もむ)み立つる『先』、又心も敵に照準を合わせて、初、中、後、同じ事に敵を挫(くじく)ぐ心にて、こころの底までつよき心に勝を考え、標準をぶち抜く、是れ何れも懸の先なり。第二待(対)の先、敵が我方へかゝりくる時、感知出来ていず弱きやうに見せて、敵がちかくなって、つんと強くはなれて飛つくやうに見せて(狼狽を装い)、敵のたるみを見て、直につよく勝つ事、これ一つの先である。又敵かゝり来る時、我もなほ強くなって出る時、敵のかゝる拍子の変わるタイミングを受け、そのまゝ勝を得る事、是が『対の先』の利なり。第三『対々の先』、敵が早くかゝるには我は静につよくかゝり、敵近くなって、つんと思い切った態勢になり、敵が対応出来ないと見ゆる時、直につよく勝つのである、又敵静にかゝる時、我身軽やかに少し早くかゝりて、敵近くなりて一揉み揉み、敵の対応にしたがひ、強く勝つ事是体々の先である、此の道理を細かく書き分けがたし。此書き付けを以て大略工夫あるべし、此の三つの先はケースバイケースで、常時、我が方より先にかゝる訳でも無いのだが、我方より計って、敵を追い廻はしたいものである、いづれも『先』の事は兵法の智力を以て勝つ事を得る肝心の事で、よくゝゝ鍛錬あるべし

 

『枕を抑える』とは。

 頭を上げさせないということである。兵法勝負の道においては相手に自分をひき回され、後手に回ることはよくない。何としても敵を思いままに引き回したいものである。従って、相手もそのように思う。自分もその気があるわけで,であるから相手の出方を察知することができなくては、先手を取ることはできない。兵法において敵が打ってくるのを止め、突くのを抑え、組み付いてくるところを揉ぎ離すなどをすることなどである。枕を抑えるというのは、自分が一流の兵法を心得て、敵に向かい合うとしたら、敵が思う意図を事前に見破って、敵が打とうとするならば打つの字『う』で先制して、その後をさせないという意味であり、それがまくら押さえるとういうことである。例えば敵がかかろうとしすれば『か』の字で先制する、飛ぼうとうすれば『と』字で先制する、切ろうとすれば『き』の字で抑えていくことで、皆同じことである。敵が自分にどのように仕掛けてきたときも、役に立たないことは敵のするままに任せて、肝心の事をおさえて、敵にさせない様にするのが、兵法において特に重要である。敵のすること抑えようと思うのは後手である。まずこちらは、どんなことでも兵法の道に任せ、技を行いながら、敵も技を直そうとする出端をおさえ、敵のどんな企図も一切役に立たない様にし、敵を自由に引き来回すことこそ真の兵法の達人である。これはただ鍛錬の結果なのである。枕を抑えるということをよくよく調べなければならぬ。

 

渡を越すというのは、

 例えば海を渡るのに、瀬戸というところもあり、また40里、50里の長い海上を渡るのを『渡』というように難所を乗り切るというほどの意味である。 人の一生のうちにも危機を超えるという場合も多いであろう。船路にあってはその『渡』のところを知り、船の位置を知り、日の良しあしをよく知って、友船を出さなくとも、1人で出港し、その時々の状況に応じて、あるいは横風に、あるいは追い風を受け、もし風向きが変わっても風に頼らず、二里や三里は櫓を漕いででも港に着く。『渡』を越す。人の世も一大事を乗り越える、『渡』を越すと思い全力を尽くして危機を乗り越えるということがなければならぬ。兵法戦いの時にも、渡を越す気持ちが大切である。敵の程度を知り、自分の能力を正しく判断して、兵法の道理によって危機を乗り切るということは、優れた船頭が海を渡るのと同じ。危機を乗り切ればその後は心配ないものである。渡を越したしたことによって敵に弱みを生じさせ、わが身は優位に立つことができ、たいていの場合早々と、勝ちを得ることができる。多人数の戦いの上でも、一対一の勝負の上でも、渡を起こすというのは大切なことである。よくよく調べなければならぬ。

 

一 景気を知ると云ふ事

 景気を見るというのは、多人数の戦いでは敵の意気が盛んか、衰えているかを知り、相手の人数のことを知り、その場の状況を知り、敵の状態をよく知って、こちらの人数をどう動かし、この兵法の利によって確実に勝てるというところを見込み、先の状況を見通して闘うということである。また一対一の戦いにあっては、敵の流派をわきまえ、相手の性質をよく見て、その人の短所長所を見分けて敵の意表をつき、間の拍子をよく知って先手をとっていくことが重要である。物事の景気というのは、自分の知力さえ優れていれば、必ず見えるものである。一流の兵法を自由にこなせれば、敵の心の内ををよく推し量って、勝ちをしめる手段は多く見いだすことができるはずである。十分に工夫すべきである

 

一 けんをふむと云ふ事

 剣を踏む。ということは、もっぱら兵法において用いるものである。まず多人数の戦いでは、敵が弓、鉄砲用いてこちらへ打ち掛け、仕掛けてくるというときには、敵はまず弓、鉄砲うち掛けて、その後から攻めかかるものであるから、こちらもまた、弓をツガエ鉄砲に火薬を詰めていては、敵陣に押し入ることはできない。このような場合、敵が弓鉄砲などを放つ前に、いち早く攻め入るように心がけ、早くかかれば敵は、弓の弦をあてがことも、鉄砲を撃つこともできない。敵が仕掛けてくるところをそのまま自然に受け止め、敵の攻撃を踏みつけて勝つことである。1対1の戦いでも、敵が打ってくる太刀を受けていては、とたんとたんという拍子になって、勝負のはかがいかない。敵が打ち掛ける太刀を踏みつける気概で、先制攻撃で勝ち、二の太刀など許さないようにすべし。踏むというのは、足にはかぎらず、身にても踏み、こころにても踏み、勿論太刀にても踏み付け、二の太刀などさせないように心得るべし。これが、すなわち、物事の先。敵の仕掛けるのと同時にぶつかるというのではなく、そのまま後に取り付き機先を制する(先制攻撃の本質である。ボクシングで言うならクロスカウンター)ことである。よくよく調べるべきことである。


一 くづれを知ると云ふ事

  崩れるということは何事についてもあるものである。家が崩れるのも、身が崩れるのも敵が崩れることもみな、その時にあたって、拍子が狂ってしまって崩れるのである。多人数の戦いにおいても、敵が崩れる拍子を捉まえて、その間を取り逃さないように追い立てることが肝心である。崩れるのを外してしまえば、盛り返す場合もある。また一対一の兵法においても、戦っているうちに、敵の拍子が狂って、崩れ目が出てくるものである。その時油断すれば敵はまた立ち直り、態勢を取り戻しどうにもならなくなるものである。敵の崩れ目を突き、立ち直ることができないように、確実に追い討ちをかけることが大切である。追い打ちをかけるとは、一気に強く打つことである。敵が立ち直れない様に討ちはなすものである。この討ちはなすということを、よくよく理解しなければならない。討ちはなさければ、ぐずぐずしがちになる。工夫すべきである。

 

一 敵になると云ふ事

  敵になるというのは、わが身を敵の身になり代わって考えるというのである。世の中を見ると、例えば盗人などが、家の中に立てこもったると、非常に強い敵のように思えてしまう。敵の身になっみいれば、逃げ込んで、世の中の人を皆敵とし、自分ではどうにもならなくなっている。進退極まった気持ちになっているのである。立てこもっているのは、キジであり討ち取りに入り込んでいくものは鷹である。この状態を分析すべきだ。多人数の戦いにおいても、敵は強いものと思いこんで、大事をとって消極的になるものである。しかし良い人数を持ち、兵法の道理を知り、敵にうち勝つところをよく心得ていれば心配すべきことではない。一対一の兵法においても、敵の身になって思ってみよ。兵法をよく心得て、剣の理にも明るく、道理に優れているものに当たっている。必ず負けると思っているものである。よくよく工夫すべきである。

 

一 四手をはなすと云ふ事

 四つの手を離す。というのは敵もわれも同じ気持ちとなり、互いに張り合う状態になっては、戦いはどうにもならなくなるので、張り合うようになったと思えば、そのままの状態を捨て、別の方法で勝つことを知れというのである。多人数の戦いによっては、4つに張り合う状況になっては、決着がつかず、味方の人数も多く失うものである。こういう場合は、早く転身して敵の意表をつくような方法で勝つことが最も大切である。また一対一の兵法にあっても四つ手になったと思ったら、状況をかえて、敵の様子を見て、いろいろと変わった手段で、勝利を得ることが肝要である。よくよく考えなさい。 一 かげを動かすと云ふ事 陰を動かすというのは、敵の中の動きが見分けられない場合の方法である。多人数の戦いにあっても、どうしても敵の状況が分からないときには、こちらから強く仕掛けるように見せ掛けて、敵の出方を見分けるものである。出方が分かればいろいろな方法で、勝つことはたやすいものである。また一対一の戦いにおいても、敵が後ろに太刀をかまえたり、脇にかまえたりしたとき、不意に討とうとすれば、敵はその意図を、太刀に表すものである。敵の意図があらわれ、知れた時には、こちらはそれに応じた手をとって、確かに勝利を収めることができる。こちらが油断すれば、拍子を外してしまうものである。よく調べなければならぬ。

 

一 影を抑ふると云ふ事

 影を抑えるというのは、敵の方からかかってくる意図が見えた時の方法である。多人数の戦いにあっては、敵が仕掛けてこようとするところを、こちらからその戦法を抑える調子を強く見せれば、敵は強い態度をに押されて、やり方を変えるものである。こちらも戦法をかえて虚心に、敵の先手を取り、勝ちを得るのである。一対一の戦いにおいても、敵から生じる強い気を、我が拍子によって抑え、くじけた拍子に、こちらは勝利を見出し、先手を取っていくのである。よくよく工夫しなければならぬ。

 

一 移らかすと云ふ事

 物事には移らせるということがある。例えば眠りなどもうつり、あるいは、あくびなども人にうつるものである。時が移るということもある。多人数の戦いにおいて、敵落ち着きがなく、ことを急ごうとする気が見えたときは、こちらは少しもそれに構わぬようにして、いかにもゆったりとなったと見せると、敵もこちらに引き込まれて、気分がたるむものである。そのような気分が、敵に移ったと思ったとき、こちらは心を空にして早く強く打ちかかることによって、勝利を得ることができる。個人の戦いにおいても、わが身も心もゆったりと、敵がたるむ間をとらえて、強く早く、先手を打って勝つことが重要である。また酔わせるといって、これに似たことがある。ひとつは心にイヤ気が差すこと。ひとつは心に落ち着きがなくなること。ひとつは心が弱くなることであり、こちらの心に相手を引き込むことなのである。よくよく工夫せよ。

 

一 むかつかすると云ふ事

 心を興奮動揺させるということは、いろんな場合にはある。ひとつは危険な場合、二つは無理な場合に、三つには予測しないことが起きた場合である。これをよく研究すべきである。多人数の戦いでも、相手方の心を動揺させることが肝心である。敵の予測しないところを激しい勢いで仕掛けて、敵のこころが定まらないうちに、こちらの有利なように、先手をかけて勝つことが大切である。また一対一の戦いでもはじめはゆっくりした様子で、急に強くかかり、敵の心の動揺に応じて、息を抜かず、こちらの優位のまま、勝ちを得ることが肝心である。よくよくが味わうべきである 一 おびやかすと云ふ事 おびえるということは物事によくあることで、思いもよらぬことに怯えることである。多人数の戦いにあって敵を脅かすことは、目に見えることだけではない。あるいはものの声で脅し、あるいは小さな兵力を大きく見せて脅し。または、横から不意に脅かすなど、すべて脅かすことである。そして敵がおびえた拍子をとらえて、有利に勝ねばならない。1対1の戦いにおいても、身をもって脅し、太刀を以って脅かし、声をもって脅し、敵が思いもかけのことを不意に仕掛けて、敵がおびえたところにつけ入り、そのまま勝利を得ることが肝要である。よくよくを味わうべきである。

 

一 まぶるゝと云ふ事

 まぶるるというのは、敵と自分が接近して、互いに強く張り合って、思うようにならないとみれば、そのまま敵とひとつに混ざり合って、まざりあううちに有利に勝つこと、大切な事である。多人数の戦いでも少人数の戦いでも、敵と味方が分かれて向き合っていて、違いに張り合って勝負が決まらないときには、そのまま敵とからみあい、互いに敵味方の区別が分からなくなるようにして、その中で有利な方法をつかみ、絶対に勝つことが大切である。よくよく吟味せよ。 一 かどにさはると云ふ事 角にさわるというのは、一般に強いものを押すのに、そのまままっすぐに押し込むのは容易なことではない。多人数の戦いにあっては、敵の人数をよく見て、強く突出した所の角を攻めて、優位に立つことができる。突出した角がのめるに従い、全体も勢いがなくなる。その勢いのなくなる中でも、出ているところ、出ているところを攻めて、勝利を得ることが大切である。一対一の戦いでも、敵の体の角に損傷をあたえれば、からだの全体が次第に崩れた態勢になって、容易に勝ちを得ることができる。この道理をよくよく検討して勝ちを得ることをわきまえることが大切である

 

一 うろめかすと云ふ事

 うろたえさせるというのは、敵にしっかりとした心を持たせない様にすることである。多人数の戦いにあっては、戦場において敵の意図を見抜き、わが兵法の智力によって、敵の心をそこか、ここか、あれやこれやと迷わせたり、遅いか早いかと迷わせて、敵の心がうろたえたさせた拍子を捕まえて、確実に勝利を得る方法をわきまえることである。また一対一の戦いにおいても、自分は時期をとらえて、いろいろな技を仕掛け、あるいは打つと見せ、あるいは突くと見せ、また入り込むと思わせ、敵のうろたえた様子につけ込み、思いのままに勝つところ、これが是れ戦の専であるよくよく検討せよ。


一 三つの声と云ふ事

 三つの声とは初、中、後の声といって、三つに分けた声のことを言う。時と場所により、声を掛けるということが大切である。声は勢いを付けるものであるから、火事や、風波に向かってもかけるものである。声は勢いを示すものである。多人数の戦いにあっては、戦いの最初にかける声は、相手を威圧するように大きく掛ける。また戦いの間の声は調子を低くし、底から出るような声をかける。戦いに勝った後には、大きく強く声をかける、これが三つの声である。一対一の戦いにおいても、敵を動かそうとするためには、打つと見せて、初めにエイと声をかけ、声の後から太刀を出すものである。また敵をうち破った後に声をかけるのは、勝ちを知らせる声である。これを戦後の声という。太刀を打つとを同時に大きく声を掛けることはない。もし戦いの最中にかける声は、拍子に乗るための声で、低く掛けるのである。よくよく調べよ。

 

  一 まぎるゝと云ふ事 まぎれるというのは、多人数の戦いの場合に人数が対峙し合って、敵が強いと見たときは、まぎれるといって、敵の一方にかかり、敵が崩れたと見たならば、直ちにうち捨てて、また他の強いところにかかるのをいう。いわばつづら織り模様にかかることである。1人で多勢を敵に回して、闘うときにもこの心がけが大切である。一方ばかりに勝ち抜くのではなく、一方が逃げ出せば、今度は別の強い方へかかり、敵の拍子を見とって、あるいは左、あるいは右と、つづら折りの心持ちで打って行くのである。敵の力の程度を見極め、打ち込んでいく場合には、一歩も引かぬ心持ちで、強く打ち込み勝利を得るのである。1対1の時も、敵の足元に身を寄せて入り込んでいく、敵が強いときにはやはりこの心得が必要である。まぎれるというのは一歩も引くことを知らず、紛れ込んでいことで。あるよくよく理解せよ。

 

 一 ひしぐと云ふ事 ひしぐというのは、例えば敵を弱く見なして、自分は強い気で一気におし潰すことを言う。多人数の戦いにはあっては敵が少人数であることを見抜いたとき、又は、たとえ多人数であっても、敵がうろたえて弱みが見えれば、初めから優勢に乗じて完膚なきまでにうちのめすものである。もし一気におし潰すことが出来ないと、盛り返されることがある。手のうちにに握って、おしつぶすことをよく理解せよ。 また一対一の戦いのときにも自分より未熟な者、また敵の拍子が狂ったとき、退めになったときには、少しも息をつかせず、目を会わせないないようにして、一気にうちのめすことが肝心である。少しも立ち直ることができないことが第一である。(水に落ちた犬は打て)よくよく吟味せよ。

 

一 山海の変りと云ふ事

  山海の心というのは、敵とわれ等が戦う時に同じことをたびたび繰り返すことはないというのである 同じことを2度繰り返すのは仕方がないが、三度してはならない。敵にわざを仕掛けるのに、1度で成功しない時には、もう1度攻めたててもその効果はなくなる。全く違ったやり方を、敵の意表をついて仕掛け、それでもうまくいかなければ、さらにまた別の方法を仕掛けよ。 このように敵が山と思えば海、海と思えば山と意表をついて仕掛けるのが兵法の道である。よくよく吟味すべきことである。

 

一 底をぬくと云ふ事

  底を抜くというのは、敵と戦ううちに、兵法の技をもって形の上では敵に勝つように見えても、敵が敵愾心を持ち続けているので、表面では負けていても、心底では負けていないことがある。そのような時にはこちらは素早く心持ちを変えて、敵の気力をくじき、敵を心底から負けた状態にしてしまうことを見届けることが肝要である。こうして底を抜くというのは太刀によっても、体によっても、また心によっても底を抜くのである。敵が心底から崩れてしまった場合にはこちらも心を残しておく必要はないが、そうでないときには、心を残しておかねばならぬ。敵も心を残しているなら、なかなか崩れないものである。多人数の戦いにも一人ひとりの戦いにもこの底を抜くということをよくよく鍛錬しなければならない。

 

一 新になると云ふ事

  新になるというのは、敵が自分と戦うときに、もつれる状況になってうまくはかがいかなくなったとき、自分の意図をふり捨てて、新しく物事を始める気持ちで、その拍子になり勝ちを見いだすことである。新になるのは、何時も敵と自分とがギシギシするような状況になったと思えば、そのままこちらの意思を変え、まったく違った方法で勝ちを締めるのである。 多人数の戦いにあっても、新たになるということをわきまえることが肝心である。兵法に達っしたものの智力をもってすれば、容易に見えるものであるよくよく吟味せよ。

 

一 鼠頭牛首と云ふ事

  『ネズミの頭牛の首と』いうのは、敵と戦ううちに互いに細かいところばかり気を取られて、もつれる状況になったとき、兵法の道をネズミの頭から牛の首を思うように、細かなところにとらわれず、ポイントを思い返し、局面の転換を図ることを兵法の心掛けで、”鼠頭牛首”と云ふ。武士たる者は平生も、ネズミの頭を牛の首のように、変化を見ることが肝心である。多人数の戦いおいてもこの心掛けを忘れてはならない。 よくよく吟味すべきである 一 将卒を知ると云ふ事 将卒を知るというのは、どんな戦いの時にも自分の思うようになったら、たえずこの”将卒を知る”という方法を行い、兵法の智力を得て、自分の敵となるものすべて我が兵卒と考えて、自分の指図のままに従わせることができるものと心得て、敵を自由に引き回すことを言う。このようになれば自分は将、敵は兵卒となるよく工夫せよ

 

一 束をはなすと云ふ事

 柄を離すというのは、いろんないろいろな意味がある。刀を持たないでも勝つ道もあり、また太刀以外のもので勝つこともある。さ まざまな意味があるのでいちいち書きしるすことはできない。よくよく鍛錬せよ。 一 岩石の身と云ふ事 巌の身というのは兵法の道を得ることにより、たちまちにして厳のように堅固となり、どんなことがあっても切られることなく、動かされぬようになることである。口伝である。 右に書き記したことはに、一流の剣術の場合に絶えず思いあたることである。今初めて兵法に勝つ道を書きあらわしたものであるから、前後の道理が少し混乱して細かく表現することができない。しかしながらこの道を修めようとする人のためには、道しるべとなる。自分が若年のときから兵法の道に心を傾け、剣術の1通りのことを修練し、鍛錬しさまざまな考え方を身に付けたが、他の流派を見ていると、あるいは口先だけでうまい講釈をしたり、あるいは手先で細かい技巧こなし、他人の目には有為のように見えるが、ひとつも真実がない。もちろんこうした兵法は、体を鍛え心を鍛えているとは思うけれども、皆後世への病弊となり、兵法の本当の道が伝わらない。兵法の正しい道が朽ちていく。剣術の正しい道というものは、敵と戦って勝つことであり、これこそ絶対に変わらないことである。わが兵法の智力を得て正しい兵法の道を実践していけば、勝ち得ることは絶対に疑い得ないものである。

宮本武蔵 五輪書(水の巻)

《水の巻》

二天一流の中心は水を手本として利のある方法をおこなうのものであるから、水の巻として一流の太刀筋を此の書に書顕すものなり。この道を細かく、心のままに書くことはできないが、たとえ言葉は届かなくとも、その利は自然とわかるであろう。この書物に記したことについては1言1言1字1字深く考えてほしい、いいかげんに思って学んだのでは、道と違う事を理解してしまうであろう。兵法において、勝つ道については、1人と1人の勝負として描き表してあっても、万人と万人の合戦の方法のことと考え大きく見ることが大切である。
兵法に限って、少しでも道を間違えたり、迷ったりすると道を外してしまうものである。この書物をただ見るだけでは法の神髄を極めることはできない。この書物に書かれていることをわが身にとっての書付と心づけ、心得てただ見るだけと思わず、親しむだけとも思わず、物まねするのでなく真に自分が見いだした利とするように、常に、それが身に付くよう、よくよく工夫しなければならない。


一 兵法心持の事
兵法の道においては、心の持ち方は『平常の心』と変わってはならない。平常も、戦いの時も、少しも変わることなく、心を広く、素直で敏感にし、緊張しすぎることなく、少しもたるむことなく、こころが偏らないように、真理を見抜き、心を流動自在な状態に保ち、その流れが一瞬も留まらないようによくよく注意しなければならない。動作が静かな時にも、心を静止させず、動作が激しく動くときにも、心を平静に保ち、心が動作に引きずられることなく、動作が心にとらわれることなく。どちらかと言うと、身より心の持ち方に気を配り、心は充実させ、また余計なところに心をとらわれぬようにする。外見は弱くとも、底の心は強く、底の心は他人に見抜かれないようにする。身分の低い者は大成している人の物の考え方を知り、成功者も大雑把すぎずに小さなことにも気を使って、大身も小身も、心をまっすぐにして、自分自身をひいき目に見ないように心を持つことが大切である。心の内がにごらず、ひろやかな心でとらわれないところから、物事を考えればならない。知恵も、心もひたすら磨くことが大切である。智恵を磨ぎ天下の理非をわきまへ、物事の善悪を知り、万の芸能其の道にわたり、世間の人に少しもだまされざる様にして後、兵法の智恵成るなり。兵法の智恵に於て、とりわけ間違いやすいものなり、戦の場万事せわしき時なりとも、兵法の道理を極め、動遥なき心、能々吟味すべし

 

一 兵法の身なりの事
体の姿勢は顔はうつむかず、あおむかず、まげず目を動かさず、額にしわを寄せず、眉の間にに皺をよせず、目の玉を動かさないようにして、瞬きをしないような気持ちで、目をやや細める様にする。
おだやかに見えるような顔つきで、鼻筋は真っ直ぐに、、、、ややアゴをだすようなき持ちで、、、、、、肩から全身は同じものと考える。両肩を下げ、背筋を真っ直ぐ、尻を出さず、ひざから足先まで力を入れて、腰がかがまぬように、腹を出す。楔(くさび)をしめるように、脇差を腹で押さえるように、おびがたるまぬように、、、。、、、、、、平常の身のこなしを闘いの身のこなし方として、、、、。

 

一 兵法の眼付と云ふ事
戦いのときの目の配り方は、大きくを広く配る必要がある。目には観の目と見の目がある。観の目は強く,見の目は弱く。離れたところははっきりとつかみ、身近な動きにはとらわれず、それを離してみることが兵法の上で最も大切である。敵の太刀の動きを知るが、動きに惑わされることがない様にするのが兵法の大事なのである。これらは個人の戦いにも、また多人数の戦いにも同じように重要である。こうしたことは忙しいときに急に身につけることはできないものである。この書付けをこころがけ、いつも目つきの変わらないように、反省しておくべきである。

 

一 太刀の持様の事
太刀の持ち方は親指と薬指を浮かすような心持ちで持ち、中指は閉めず緩めず、薬指と小指を締める気持ちで持つ。締め方に緩みがあるのはよくない。敵を切ることを念頭に置いて、太刀を持つ事に気がとらわれても良くない。敵を切るときにも、手の具合は変わることなくて、委縮して動きのとれないことがない様に持つべきである。もし敵の太刀を打ったり、受けたり、当たったり、抑えたりずることがあっても親指と、人さし指の調子を少し変えるくらいの気持ちで、とにかく相手を切るのだという気持ちで、太刀を取らなければならぬ。試し切りにするときも、また真剣で切り会う場合にも、『人を切るのだ』、ということでは刀の持ち方に変わりはない。
太刀の動きにせよ、刀の持ち方によ、とらわれ過ぎて『居着く』。動きがなくなってはならない。とらわれ過ぎて『居着く』ことは死の手であり、『居着く』事がないことが生の手である。
このことを十分に心得る必要がある。

 

一 足づかいの事
足の運びは、つま先を少し浮かせて、踵を強く踏む。足の使い方は、その時によって、大小遅速の相違は在るが、普通に歩むように使うこと。
飛ぶような足、浮きあがった足、固着するような足の三っはよくない足である。
足の使い方では、陰陽とういうことが肝心とされている。陰陽といのは、片足だけが動かされるのではなく、、切る時も、退く時も、受ける時も、右左と足を運ぶのである。くれぐれも、片足立ちの状態にならないよう十分注意しなければならない。


一 五方の構の事
五つのかまへは上段、中断、下段、ひだりのわき、右の脇に構える。
構えを五つに分かれるけれども、みな人を切るためで、待ち構える形はどう在るべきなどと思案するより、先に思案すべきは、敵を切ることであると考えよ。
構えは場合により、有利な方をとれ、上中下は本構え、両脇にかまえるのは応用の構え。兵法の極意では,最善の構えは中段であると心得よ。中段は大将の座である。後の四つはこれに従う。
、よくよく研究せよ。


一 太刀の道と云ふ事
太刀には道筋がある。どういうものかというと、普段自分が差す太刀を二本の指で振った時判る。、太刀をどのように振るべきかということをよく知っていれば、自由に振れるものである。太刀を早く振ろうとするから、太刀の道筋に逆らって自由に振れなくなるのである。太刀は振りいいように、静かに、振る気持ちが大切である、扇、小刀のように、早く振ろうと思うから、太刀の道筋を誤って振れなくなるのである。そうのような振り方は、”小刀刻み”、といって、こんな太刀で人を切ることはできないものである。太刀を使う時は、上げやすいほうに上げ、横に振った時は、横に戻し、自在に、大きくヒジを伸ばし、強く振ることが太刀の道である。我が兵法の五つの基本をよく使いおぼえれば、太刀を振る道が決まり、振り易くなるのである。よくよく鍛錬しなければならない。


一 五つの表(基本)第一の次第の事
五つの基本型について、その第1。第1の構えは、中段を取り、太刀先を敵の顔に付ける、敵にでくわし、敵が太刀をうち掛ける時、太刀を右に外して押さえる。また敵がうちかけた時、切先返しでうち、うちおろした太刀をそのままにしておきながら、敵が打ってくれば、下から敵の手をうつ。これが第1の基本型である。全てこの5つの基本型を読んだだけでは、それが合点できるものではない。五つの基本型については、手にとって太刀の道を稽古するべきところである。、この5つの太刀筋によって、わが兵法の道を体得すると、自在に、敵の打ってくる時の道筋がわかるようになる。従ってわが二刀の太刀の構えには、五つよりほかはないと教える所以である。、よくよく鍛錬すべきである。

 

一 表第二の次第の事
第二の太刀の振り方は上段にかまえ、敵がうちかけてくるところを一気に打つのである。敵を打ちはずした時は太刀をそのまんまにし、敵がまたうち掛けてきたとごろを下たからすくい上げてうつ。もう1度うつ場合も同じである。この基本型においては、様様な心の持ち方やいろいろの拍子があり、この基本形によって我が流の鍛錬をすれば、五つの太刀の振り方をこまやかに体得して、どのようにも勝つことできる、よく、稽古しなければならない。


一 表第三の次第の事
第三の太刀の振り方は、下段に構えひき下げたような気持ちで、敵がうち掛けてきたところ、下から手をうつのである、手を打つところを敵はまた打ってくる。または、わが太刀をうち落とそうとする。そのタイミングの先を捉えて、敵の二の腕を横に切る気持ちである。下段で、敵の打ってくるところを一気に打ち止めてしまうことである。下段の構えは太刀筋を修練するのに、初心のときにも、鍛錬を積んだときにも、よく出会うものである。太刀をとって鍛錬すべきである。

 

一 表第四の次第の事
第四の構えは、左の脇に太刀を、横にかまえて敵がうち掛けてきた手を下から打たねばなぬ。下から打つのを、敵が我が太刀をうち落とそうとする。そこで、敵の手をうつ気持ちで、そのまま敵の太刀筋を受け、こんどは、自分の肩の上からハスカイに切る、これが太刀の振りようである、また敵がうちけてきたときにも、太刀の道筋で受けて、勝つことできる方法である、十分に研究しなければならない。

 

一 表第五の次第の事
第5は、太刀の構えは自分の右の脇に横にかまえて、敵がうち掛けてくるのを受け、我が太刀を横からハスカイに上段に振り上げ、上からまっすぐに切るのである。この振り方は、太刀の道をよく知るためのものである、この基本で、太刀を振りつけていれば、重い太刀も自由に振ることができるようになる。この5つの基本形については、細かく書きしるすことはできない。我が流の太刀の振り方をひと通り知り、拍子をこころえ、、敵の太刀筋を見分けることができるように、まず五つの太刀筋を日頃から鍛錬し、技を磨くことが肝要である。この太刀筋に習熟して、敵の心を見抜いては、様様な拍子で、どのようにも勝つことができるようになる、よくよく心得なければならん。

 

一 有構無構(構えがあって構えが無い)の教への事
構えがあって、構えがないというのは、太刀を構える形というものは、あるべきことではない。しかしながら5つの方向に向けることはかまえということもできる。太刀は敵の出方をきっかけとして、その場所により、状況に従い、臨機応変に、敵を切りやすいように構えることである。例えば上段も、場合によって、少し下げ気意味になれば中段となり、中段を、状況に応じてややあげれば上段となり、下段もときによって、少しあげれば、中段となる。また両脇の構えを位置によって、少し中の方へ出せば、中段、中段もまたは下段になるのである。このようなわけでかまえというものは、あってない理になる。ともかく太刀をとって、どんなことをしても、、敵を切ることが重要である。もし敵が切りかかってくる太刀を、あたる、ねばる、さわるなどいうことがあっても、それらは全て、敵を切るきっかけである、と心得よ。受けること、打つこと、あたること、さわることに思いが片寄るならば、敵を切ることはできなくなるであろ。何事も切るためのきっかけであるということ思うことが大切である、これをよく、よく検討しなければならない。大きな合戦ににあてはめてみれば、、軍勢を配置することが、構えにあたる、、これもすべて合戦に勝つ手段である。決まった形にとらわれることは悪いのである。よくよく、工夫すべきである。

 

一 敵を打に一拍子の打の事
敵を打つ拍子に、一拍子の打ちといって、敵とわれ等が太刀の届くほどところに位置をしめて、敵の心構えが出来ていない前に、自分の身も動かさず、気配もださず、素早く一気に打つ拍子がある。敵が太刀を引こう、外そう、打とう、、などと思う心が起こらないうちに打つ拍子が一拍子である。この拍子をよく習得し、、素早く打つことを、鍛錬しなければならぬ。


"二の腰の拍子"
"二の腰の拍子”というのは、自分がうちかかるタイミングで、敵が、いちはやく、はりのけ後退しときで、、敵が緊張した後のわずかな気のゆるみを見つけ、すかさず打つか、引いて出た気のゆるみをみつけを打つ。これが"二の腰の打ち”である、この書物だけでは、なかなか打つことはできないであろうが教え受ければ、たちまち、合点のいくところである。

 

”無念無想の打ち”
敵が打ちかかろうとし、われもをうち出そうとする。見も心も爆発しそうな緊張の一瞬。この瞬間、空の状態になり、鍛錬した身のこなしは(平常)心の命ずるまま打つのである。これを無念無想の打ちといって、最も大切な、うちでありしばしば出会ううちである、よくよく習得して鍛錬すべきである

 

”流水の打ち”
流水の打ち”とは敵と互角に競り合うとき、敵が早く引こう,早くはずそう、早く太刀をはねのけようとするのを、こちらは身も心も大きく保ち、太刀は体よりも遅く、いかにもゆっくりと、川の流れがよどんで静止するように、大きく打つ。
この打ちかたを習得すれば、確かに打ち良い、この時、敵の位置を良く見極めることが肝要である


一 石火の当りと云ふ事
"石火のあたり”とは、敵の太刀、と我が太刀とが接着し合う状態で、わが太刀を少しも上げることなく、はなはだ強く打つのである。これには足も強く、身も強く、手も強くして、その足と、身、手との3カ所の力を持って、早く打たなければならない、この打ち方はしばしば修練しなければ、打てないものである、よくよく鍛錬すれば強く打てるものである。

 

一 紅葉の打と云ふ事
"紅葉の打ち”とは、敵の太刀をたたき落としてしまうのだ。敵が中段に構え、打とう、たたこう、受けようとする時、自分は無念無想の打ち、あるいは、石火の打ち、などで敵の太刀を強くをうち、そのまま、敵の太刀をはねる気持ちで、切っ先を押し下げつつ打つならば、必ず敵の太刀は落ちるものである。このうちは鍛錬すれば、敵の、太刀を打ち落とすことは容易である。よくよく稽古しなければならない。


一 太刀に代はる身と云ふ事
”太刀にかわる身”。ということは”身にかわる太刀”といってもよい。敵を打つ場合に、わが太刀もわが身も、いっしょに動かして打ってかかっていく事は無いものである。敵の状態に応じてまずわが身を打ち込む態勢とし、太刀はそれに構わずして、敵に打ち込むのである
。もしくは身はそのままの態勢で、まず太刀によって打つこともあるが大抵の場合は身をまず打つ態勢にし、太刀はこれに従って打っていくものである。よくよく研究して打つ修練をつまなければならぬ。

 

一 打と当ると云ふ事
"打つ”ということ”『あたる』ということは別のものである。打つというのは、どのような打ち方でも、意識的に確実に打つということをいう。あたるというのは進んでいったところ突き当たったという心持ちで、非常に強くあたったとし、敵がたちまち死ぬほどあたっても、これはあたりなのである。打つというのは、意識的に打つことである。この点をよくよく調べてみなければならぬ。
敵の手でも足でもあたるというのはまずあたることである。それはあたってから強く打つためである。あたるとはさわるというほどのことである。よく習得するならば、これは別々のことであることがわかる。工夫すべきである。


一 しゅうこうの身と云ふ事
”秋(さる)猴身”とは、手を出さないという心持ちである。敵にわが身を寄せていくとき少しも手を出す心を持たず、敵が打つより早くへ身を寄せていくことである。手を出そうと思えば必ずには遠のいてしまうものであるから全身を素早く敵に寄せてしまうことである。互いに手の届くほどの間合ならば、身を寄せてしまうことも容易である。よくよく調べなければならぬ


一 しっかうの入身と云ふ事
”漆膠の身”とは漆膠をつけたように、敵の身に我が身を密着させて離れぬことである。敵の身に近づくとき、頭も、身も足もすべてへぴったりとよせ付ける、大抵の人は顔や足は速く寄せ付けても、とかく身だけは後に残るものである。敵の身にわが身をよくつけ、少しも身にすき間のない様に付けるものである。よくよく検討すべきである。


一 たけくらべと云ふ事
たけくらべ”というのは身の丈比べで、敵に身を寄せたとき、わが身が縮まないないようにして、足も腰も首も十分に伸ばし、敵の顔と自分の顔を並べ、背丈を比べれば、自分の方が勝つと思うほどに身を十分に伸ばし気でも押し、強く入ることが肝心である。よくよく工夫しなければならぬ。


一 ねばりをかくると云ふ事
粘り掛けるのだ!自分の太刀を敵の太刀につけて、離れないような気持ちで、身を入れることを言う。ねばるとは、太刀が容易に離れるようにする心持ちであり、あまり強くすぎない気持ちで入り込まねばならぬ。敵の太刀につけてねばり掛けて入り込むときにはどれだけ静かに身を入れてもよい。ねばるということと、もつれるということは違うことであり。ねばるのは強いが、もつれるのは弱い。このことをよくわきまえよ。


一 身のあたりと云ふ事
身あたりとは、敵の間際に入り込み、身で敵にあたることである。自分の顔をややそむけ、自分の左の肩を出し、敵の胸に突き当たるのである。ぶち当たって跳ね飛ばすき気概で、はずむように懐に入るのである。こうして入ることに修練を詰めば、敵を2間も3間もふっとばすほど強力となるものである。敵が死にそうになるまで、あたるものである。よくよく鍛錬せよ

三つの受けの事
三つの受け方というのは敵に入り込むのである。敵がうち出す太刀を受け、自分の太刀で敵の目を突く、敵の太刀を自分の右に外し入る。また、突きうけで、敵が打ってくる太刀を敵の右の目をつくようにして、首をはさむような心持ちで、突きかけ入る、又打かかってくるとき、短い太刀で受け、太刀はそれほど気にせず、左の手で、敵の顔をつくようにして入り込むのである。以上が3つの受け方であるが、いずれも左の手をにぎり、その拳で敵の顔をつくようにして入る。よくよく鍛錬せよ。

 

一 おもてをさすと云ふ事
顔を差すというのは、立会いのときに、たえず敵の顔を自分の刀の先でつく気持ちでいることである。気を前にだし、敵の顔を突き刺そうという心があれば、敵は顔も体ものけぞるようになる。敵が、顔や体身をのけぞらせれば、勝つチャンスが膨らむ。よくよく工夫せよ。戦いの間に、敵が身のけぞらせるような状態になれば、もはや勝利である。従って顔を差すことを忘れてはならない。兵法を稽古をする間に、この気の持ち方をよく鍛錬すべきである。


一 心をさすと云ふ事
心臓を刺すというのは、戦い中で、上がつかえ、脇もつかえているようなところで、切ることがどうしてもできない時、敵をつくことである。わが太刀の峰をまっすぐに敵に見せ、切先を下げ、太刀先がいがまないように引いておいて、敵の胸を突くのである。もし自分が疲れきった時あるいは刀が切れないようになったときには、。この方法をもっぱら用いるようにする。よくわかっていなければならぬ。

一 喝咄と云ふ事
”喝””咄”というのは、打ちかかり敵を押し込む時、敵がうち返し、跳ね返す時、下から刀を突き上げ、返す刀でを打つ。どちらも早い拍子で、喝とうち、咄と突き上げ、”喝咄”と打つ呼吸である。この拍子はいつも打ち合の際にはよく出会うものである。喝と咄のやり方は、刀の切先をあげるようにして敵をつく、刀を上げると同時に一気に打つ拍子である。よく稽古し調べてみなければならないことである。

一 はり受と云ふ事
はりうけとは敵と打ちあうとき、”とたんどたん”というような拍子で、敵が打ってくるのを自分の太刀ではたいて置いて打つことである。
はたくということはさして強くはたくものではなく、また受けるものでもない。敵が打ってくる太刀をはたき、敵を制して打つことである。はたくことによって先手を取り、先手を取って打つことが肝心である。はたく拍子が上手になると敵がどんなに強く打っても、少しでもはたく気さえあれば、こちらの太刀先が落ちることはない充分に習得して調べなければなら
ない。


一 多敵の位の事
多敵の位というのは、こちらは1人で大勢の敵と戦うときのことである。我が太刀と脇差を抜いて左右に広げ、構えるのである。敵が四方からかかってきても、一方へ追い回す気概である。敵がかかってくる位置、前後の気配をよく見抜いて、先にくるものとまず戦い、大きな全体の動きに目の配り、敵がうちかかってくる位置を心得、左右の刀を振り違える。切り下ろし、戻す刀で脇の敵を切る気概で、素早く太刀を両脇の態勢にもどす。敵が出てきたところを強く切り込み、打ち崩し、そのまま敵が出てくるの打ちかかり、打ち崩していくことである。大切なことは、一方から魚ツナガリの敵をを追い込むような心持ちでかかり、敵の隊列が乱れて、重なりあったと見たら、そのまま間はおかないで強く打ち込むのである。敵が固まっているところを真正面からまともに追い回せば、はかがいかない。また敵が出てきたところを、打とうとすれば、こちらが後手になってはかが行かない。敵の打ちかかる拍子を受けて、崩れる拍子を知り勝利を得ることである。折りに触れて大勢よせ集め、これを追い込む方法に習熟してその確信を得れば、1人の敵も10人20人の敵も冷静に戦えるものであるよくよく稽古して調べるべきである。

 

一 打あひの利の事
”打ち合いの利”ということ。(打ち合いで勝ちを収める道理)自得することである。細かには書き切れせることではない。よくよく稽古して勝利への道を知るべきである。全て兵法の真の道を表すは太刀である。口伝である。


一 一つの打と云ふ事
決闘に向かったら,確実に勝利を得ることである。しかし、これは兵法を十分に学ばなければその道を体得することはできない。このことをよくよく鍛錬すれば、兵法をこころのままに行うことができるようになり、思うとうりに勝利を得ることができる。よくよく稽古すべきである。

 

一 直通の位といふ事
直通の心というのは二刀一流の真実の極意を受けて伝えるものである。よくよく鍛錬してこの兵法の道を身につけることが肝要である。口伝である。


二天一流の剣術の概要をこの巻で述べた。兵法に従って太刀を取り、相手に勝つ道を会得するには、まず五つの基本形で、五方の構えを知り、太刀の使い方ををおぼえ、全身が柔らかになり、心を反応させ、従い、兵法の拍子を掴み、ひとりでに太刀も手さばきも冴えて、身も足も自然に円滑に動き、自由自在になる。それに従って、1人に勝ち。2人に勝ち。兵法における善悪がわかるようになり。この書物内容を、1か条1か条稽古して。敵と戦い、次第次第に兵法の利を会得するのである。
このことをいつも心掛けながら、しかも急がず、おりにふれて闘って、そのこつをおぼえ、どんな人と打ち合っても相手の心を知っておくのである。
千里の道も一歩ずつ運ぶのである、ゆっくりと気長に取り組み、この兵法の道を修業をすることは武士の務めであると心得て、今日は昨日の自分に勝ち、明日は自分より下手なものに勝つ。つぎには自分より上手なものに勝つと思い、この書物の通りに鍛錬を積み少しもわき道に心を迷わさないように考えよ。
たとえどんな敵にうち勝っても、一流に反するような勝ち方では、実の道ではない。この一流の道理を念頭に置き、一人で数十人の敵にも勝つ心得も忘れてはならない。そうなればあとは、実の知識と実践によって、多人数の時も、1対1の決闘のことも会得することができるであろう。千日の稽古を鍛といい。万日の稽古を錬というのである。よくよく調べるべきことである

 

宮本武蔵 五輪書(地の巻)

宮本武蔵 五輪書(地の巻)

 

この兵法の道を二天一流と名付ける。数十年来鍛錬してきた事を、初めて書物に顕そうと思った。時を記す、寛永二十年十月上旬の頃。所、九州肥後の地。岩戸山(市内を金峰山を挟んで反対の海側)に上り、天を拝し、観音(岩戸観音)を礼し、仏前に向う。我、生国は播磨の武士、新免武蔵守藤原玄信歳、以って六十、若年の昔より兵法の道に心を掛け、十三にして初めて勝負を為す。

 其の時、新当流有間喜兵衛と云ふ兵法者に打勝つ、十六歳にして但馬国、秋山と云ふ兵法者に打勝つ。二十一歳にして都に上り、天下の兵法者に会ひ、数度の勝負を決す、されど勝利を得ざると云ふこと無し。其後、国々、所々に至り、諸流の兵法者に行逢ひ、六十余度まで勝負をなすと云えども、一度も負け無し。それは、歳十三より二十八、九までの事なり。

 我三十を越えて、過去を思い見返るに、兵法を極めていて勝利したのではないと思う。生来の器用さが有って、自然の理が離れざる故ではないか、又は敵の法の兵法不足なる所なのか、其後なお深き道理を得ようと朝鍛夕錬して見れば、自を兵法の道に合ふように完成したのは、我が五十歳の頃なり。それより後は尋ね入るべき道なく、光陰を経た。兵法の理(これは万事に通ずるようだ)に従って、諸芸諸能の道を学んだが、万事に於て、我に師匠無し。(兵法の理に従えば師匠が無くても、そこそこやれる)

 今、此書を作ると云へども、仏法、儒道の古語をも借らず、軍記軍法の古きことをも用ひず、此の二天一流の見たての『実の心』を顕す気持ちは、天道と観世音を鏡とする気持ちで、透き通り、確としている。十月十日の夜、寅の一天に筆をとって書初るもの也。

 兵法というのは武家の法である。将たる者は特別大事にこの兵法を思い、この兵法を体得しておくべきである。今の世の中に、確実に兵法を体得していて、人に伝え得るという武士は私以外にいない。まず、仏法は人を助ける道を顕し、儒者は文の道を顕し、医者は諸病を治す道、歌道者は和歌の道、数寄者、弓法者、諸芸、諸能それぞれ思い思いに稽古し、真実に大成している人はいるが、兵法の道では大成している人はまれだ。
 まず武士は文武両道を謹むのが道である。従ってこの道に不器用では済まぬ。武士はそれぞれの能力に応じて兵法を謹むべきものだ。おおかたの、”武士の心得”を“只死ぬる”のに儀に矮小化しているが、死ぬのは武士だけに限った事ではない。出家、女、百姓に至るまで、義理を思い、恥じを思い、死するべき時を思い、で差別は無い。武士が兵法を実践するとは、何事においても、人に優れているということを根本とすべきで、1対1の切り合いに勝ち、あるいは数人との戦いに勝ち、主君のために勝ち、名を挙げ身を立てようと思うのが道理である。常時すぐ役立つよう稽古し、万事に役に立つように教えることこれこそ兵法の実の道である(負けて死んだのでは、意味が無い) 漢土和朝までも此道を行ふ者を、『兵法の達者』と云ひ、云い伝へがある。本来,武士として、此法を学ばずと云ふ事あってはならない。
 最近、兵法者と称して世を渡る者あり。是は剣術では大方そうである。常陸国鹿島や香取の社人どもが”明神の伝へ”と称して流派を立て、国々を廻り、人に宣伝しているのは最近の流行である。古より十能六芸と流行芸があり、その中に利用便法とか、奥義とか、芸全般に通ずる利方があるとか宣伝している。剣術全般にかぎらず、剣の技術にまでそのようなものがあるとは、剣術とはそのように簡単に身に付くものか?無論兵法とは、そんなに簡単に身に付くものではない。世の中を見ると、芸を売り物にする武芸者がいる、諸道具についても利用便法付きで売り出している。花はあるが、実がない。とりわけ兵法の実についての講釈が無いのだ。方法論を華やかな言葉で飾りたて、利用便法にして『わが道場では短い太刀の素晴らしい使い方を』、あるいは、『わが道場では長い太刀の素晴らしい使いかたを』と大声で宣伝している。うっかり習って、その利方を身につけでもしたら、『生兵法は大怪我の元』という結果になってしまう。

  おおよそ、人の渡世に士農工商の四つの道がある。ひとつには農の道、農民は色々の農具で四季に合わせた作物を作る。二つには商の道。酒を作ったりして、醸造に適した道具を見つけ、その利を生かしている。それぞれがそれぞれの道具の利を生かして稼いでいる。三つ目に強調したいのは武士の道である。武士に置き換えて言うと、兵具が農具、道具にあたる。兵具をそろえ、兵具の利用便法を身につけ、大工が物差しで図面の確認をするように、寸暇を惜しんで、兵具の利用便法マスターする。 これこそ士農工商それぞれの道である。

 これから、兵法の道を大工の道に喩え、書きあらわす。大工はおおいに工むと書く。兵法の道も多いに巧むが肝要であるので、大工に喩える。兵法を学ぼうと思うものは、この書の趣旨をよく思案して、弟子は糸だと思って(針の)師につながり、続く気持ちで絶えず稽古に励げめ。 大将は大工の棟梁と同じ。天下の尺度をわきまえ、国家の尺度を糾し、家の尺度を知るのが棟梁の道である。大工の棟梁は堂塔伽藍の尺度を覚え、宮殿楼閣の図面を知り、人々を使って家を建てる。それは大工の棟梁も武家の頭領も同じである。家を建てるには木を配り、まっすぐで節がなく、見かけの良い材木は表の柱とし、少し節があり、それでも真っ直ぐな木は、裏の柱とし、多少弱くても節がなく美しいのは、敷居、鴨居、戸障子などとし、節があって歪んでいるものは、その木の使い方を考察し、木をよく吟味し使用すればその家は長持ちする。材木の中でもフシが多く歪んでいて、弱いのは足場にでも使い、後には薪にでも使うのがよい。棟梁が(人手)大工を使うにあたっては、腕前の上中下を知り、あるいは床回り、あるいは戸障子、あるいは敷居,鴨居、天井というように、それぞれに応じて使い分け、腕の悪いものには根太をはらせ、もっと悪いものには楔を削らせるなど、人(大工)を見分けて使えば仕事の能率が上がって、手際よく行くものである、仕事のはかがゆき能率がよく、妥協が無く、余裕があって、人の仕事に使う神経の上中下を感じ、(時をみて)励まし、無理(押し付けない)を知る。こうした事を心得ているるということを、棟梁としての心得があるというのである。兵法の道理もまたこの様なものである。 兵卒は大工である。自ら道具を研ぎ、いろいろな金具のタガをこしらえ、大工箱に入れて持ち、棟梁のいいつけを聞いて、柱、梁を手斧で削り、床、棚を鉋で削り、透しものを彫り、規矩を糺し(寸法をただす)、手のかかる隅々まで立派に仕上げるのが大工である。図面の上でデザインし、自らの手にかけてその仕事を終える。

 それから、大工の下心得はよく切れる道具を持ち、暇をみてこれを研ぐことが肝要である。その道具を使って棚、机、又は行灯、爼板、鍋の蓋までも器用に工作するのが大工である。吟味しなければならん。大工の(基本的な)心得は仕事が後になって歪まないこと、止めを合わせること、カンナで上手く削ること、磨り減って使い物にならないような物を作らない事。これが肝要である。兵法の道をを学ぼうと思うならば書き記したことども、一つ一つ念をいれて、よく吟味しなければならない。

 

兵法を五つの道に分けて、巻ごとにその概要を書き、地、水、火、風、空に分け、五巻として表すものである。 地の巻においては、兵法の道のあらまし、我が流の見方を説いている。剣術だけをやっていては,本当の兵法の道を得ることはできない、大きいところから小さいところを知り、浅い所から深いところに至る、まっすぐな道を思い描くことになぞらえて、最初の巻を地の巻と名付ける。 第二は水の巻である。水を手本とし、心理を水に映す気持ちである。水というものは四角い容器にも、丸い容器にも従って形を変えたり、1滴ともなり、大海ともなる。水には青々とした深い淵がある、その清らかで、理解しやすい部分から我が一流の事をこの巻に書き顕す。剣術の道理を理解すれば、1人の敵に自由に勝ち、世のすべてに勝つこともできる。1人に勝つということでは、1人の敵であろうと、千万の敵であろうと同じことである。将たる者の兵法では、小さいことから大きいことを洞察する。一尺の金属から大仏を建立するのと同じである。このようなことは、細かく表現できるものではない。一を以って万を知ることが、兵法の道理なのである。我が一流のことをこの水の巻に表す。 第三は火の巻である。この巻では戦いのことを書く。火は、大きくなったり小さくなったりする。それになぞらえて戦いのことを書くのである。戦いの道は、個人と個人との戦いも、集団をもっての戦いも同じである。こころを大きくして、細部に注意を向け、よく研究してみなければならない。 ただし大きなところは見えやすく、小さいところは見にくい。というのは多人数でやることは直ちには戦術を転換できない。1人のことは、個人の心ひとつですぐ変わるから、小さいところがわかりにくい。こうしたこともよく研究することである。 この火の巻に書き表したことは、瞬間的に決まることであるから、日々に習熟して、平常心で向かえるように、心が動揺しないことが兵法の究所である。こうしたことから、戦い、勝負のことを火の巻として書き表す。 第四は風の巻である。この巻では、我が一流のことでなく、世間の兵法について各流派のことを書く。風というのは、昔風とか、今風とか、それぞれの家風などのことである。世間の兵法について、各流派の本質を書きあらわすのである。これが風である。他流派の本質をよく知らなければ、我が兵法の道を体得出来ない。道の鍛錬をして行くのにも、外道という事がある。自分では上達する道を行っていると思っても、本当の道ではない、間違った道を行くと、始めの少しの歪みが、後には大きな歪みとなるのである。調べるべきことである。他流派の兵法では、剣術を極めれば兵法が極まると思っているようだ。もっともだが誤りである。我が兵法の剣術の理と技においては別格と考えて貰いたい。世間の兵法を知らしめるために、風の巻を書き表すものである。 第五は空の巻である。この巻を空の巻と名付けるのは、他流が奥とか口とか、口幅ったく言っている事の本質を一口で言い表すためである。他流は道理をつかんだ積もりでいて、本当の道理から離れている。兵法の道とは、(空の状態で)自然に自由があり、自然に素晴らしい力を得、時期が到来して、拍子を知り、自然に打ち、自然に当たる、これがみな空の道である。自然に実の道に入る事を空の巻に書き留める也。 奈良本辰也、五輪書入門より 『物事の道理がわからなくなったところを”空”だとしているようだが、これは本当の空などではなく、ただの迷いこころにすぎない。 武士たるものは、兵法の道をしっかりと体得し、その他の武芸を良く学び、武士としての正しいありかたについてよく心得、 心迷わすことなく、朝に夕につとめ、心、意の力を養い、観、見の二つのちからをみがき、迷いの雲を抜け出たところこそ 真の"空”なのだと悟ら無ければいけない』 空に対する私の解釈 一番適格な動きが必要な”体”にも,状況分析を瞬時にする”心”にも、朝鍛夕錬に依って情報が詰まっていて、必要に応じて一番適格な情報を取り出し得る。それらの過程が瞬時に行われる。戦いでは、それらの情報処理の遅れが死に繋がる。身も心も、情報に満ち満ちていて、なお且つ適格な情報の処理がスムースに行われる状態を”空”といっていると思う。


一 此一流二刀と名くる事 二刀(二天一流)と名付けるのは、武士は、将も兵卒もともに、二刀を腰に付けて役職を持つ。昔は太刀、小刀と云ふ。今は刀、脇差、と云ふ。武士たるもの、此の両刀を持つ事、細かに書顕す必要が無い。日ノ本の我が朝に於ては、何時からか腰に刀を帯びるのが武士の形式である。、此二つの利を(忘れかけた利)知らしめんために、二刀一流と云なり。鑓、長刀(なぎなた)その他の武具を使う者でも、刀は帯びる。一命を捨てる時は、道具を残さず役に立てぬまま、腰に納めて死する事、本意であるはずがない。我が流の道では、初心の者には太刀、(小)刀を両手に持って稽古をする、両手に物を持っては、左右ともに自由自在とは叶ひがたし。故に太刀を片手にて取り習はるす。鑓、長刀、大道具は別にして、刀、脇差に於てはいづれも片手にて持つ道具である。太刀を両手にて持って不都合な事は、第一馬上にて不都合、かけ走るとき不都合、沼、ふけ(深い田)、石原、険しき道、人ごみに不都合。左に弓、鑓を持ち、其外何れの道具を持っても、皆片手にて太刀を使ふものなれば、両手にて(1本の)太刀を構ふること実の道(本当に有利な)にあらず、若し片手にて打殺し難き時は、両手にても打留るべし、手間の要る事にても有るべからず(両手でうち殺せ)、先ず片手にて、太刀を振り憶え、二刀として太刀を片手にて振り覚ゆる。初て取りし時は、太刀重くして振り回し難きものだ。それは、太刀に限らず万事初めて取り付ける時は弓もツガイがたし、長刀も振りがたし、其道具道具に慣れて、弓も力強くなり、太刀も振りつけぬれば道の力を得て振り良くなる、太刀の道と云ふ事、早く振るにあらず、第二水の巻にて見るべし、太刀は広き所にてふり、脇差はせまき所にてふること、先づ道の本意である。二天一流においては、長きにも勝ち、短きにも勝つ。に依て太刀の寸を定めず。いずれにても勝事を得る心、一流の道なり。太刀一つ持たるよりも二つ持ちて善しき所は、多勢と一人して戦ふ時、又取り籠もり者(篭城者)などの時によきことあり、このような儀今委しく書顕すに及ばず、一を以て万をしるべし、兵法の道行ひ得ては一つも見えずと云ふ事なし、よく吟味有べきなり。

 

葉隠聞書

葉隠聞書 】

 

「武士道とは死ぬことことと見つけたり」
という言葉が、あたかも武士道の神髄であるかのように受け取られて久しい。
今から六十数年近くも前、悲惨な太平洋戦争の時に、日本の若者たちは、特攻隊としてゼロ戦に乗り、人間魚雷回 転に乗り、華々しく散って逝った。その背後に は、残念ながら、いつの間にか日本人の根本精神あるいは美風としての誤解された「武士道」があったと云わざるをえない。だからこそ、この言葉は、吟味され なければならない。新渡戸稲造を含め、もしかしたら、この武士道という呪縛の中で、日本人は様々な歴史的な間違いを犯してしまったのかもしれない。もう一 度この武士道という言葉の意味を問い直すことは意味のあることである。


葉隠」という本。一般にこの本は、武士道の神髄を伝える本としての評価が定着しているようにみえる。でもその評価 は、本当に正しいのか。これを著した山 本常朝が、江戸の太平の享保年間に生きて、どれほど武士道に精通していたかは知らない。私の直感からすれば、彼は学校の先生のような文章を書いているよう にみえる。故にちっとも武士的ではない。第一、武士は、こんなに回りくどい説明的な文章は書かないはずだ。

武者の書くものとは、宮本武蔵の「五輪の書」のようなものではないか。五輪書は、実践の本である。直接的で、 剣術に興味もないものに、剣術を教えようとす るような甘いところは微塵もない。であるが故に、五輪の書の中には、実践で鍛え上げられた深い武者の哲学的洞察が潜在している。

一方、山本某の「葉隠」は、実に説教じみていて冗長な本である。そもそも佐賀藩内が、長い天下太平の江戸時代 のおいて、惰性的となり、武士本来の倫理観が 欠如してきたことを憂い、それを糺そうとして書いたものである。この書の説教臭さは、そんなところに起因しているのだ。ところが、これを名著だ、古典だと 崇める者が、現れて、そうだ、そうだ。となって、現在のような評価が定着した。三島由紀夫なども、このたぐいだが、私はこの著作をそもそも名著などとは思 わない。

そもそも武士とは何であったのか。歴史的にみれば、荘園領主のもとで、武器をとって領地を守る従者のことを云 う。ただその従者は、そこでは封建領主に無批 批判に従うものではない。そこにはある種の主君と臣下の契約がある。力のあるもの。天下を伺えるほどの領主の臣下に成るためには、当然競争があり、自分も それなりの力を備えていなければ、やとって貰うことなどありえない。「大リーグのヤンキースに入って俺もマツイのようになる」と云ったところで、誰もがマ ツイのようにスポットライトを浴びる訳ではない。武士、武者、侍、などと云われ、何か美化されているが、この武士道などという言葉が、当然のように出てく るのは、江戸の世からで、戦国の世ではそれどころではなかったはずだ。

結局、一般の武士たちが、平和の世になって、過去の武士の哲学(これとても実は、権力としての徳川幕府が意図 的に流したイデオロギーなのであり、相互の契 約という考えを抜いているのだが)というものが廃れてしまったということで、こんなお説教になってしまったことになる。義経と弁慶義経記の中で(巻3) の中で、平家を討ち滅ぼしたいとの存念を伝えて君臣の契約を交わしているのである。何も臣下が盲目的に、従っているものではない。よく言われる「諫言」 (かんげん)も、武士道の忠義から来るのではなく契約の精神からくるのだ。もっと分かり易く云えば、主君が馬鹿な行動をとって、戦に負けるようなことにな れば、武士の将来もそれで終わりになってしまう。だからこそ、時には、命を賭けるような諫言にも及ぶことになる。臣下は、力がない主君に付いていれば、犬 死にをする危険が常にある。これは武士の世に限らず現代でも同じなのだが・・・。

武士道というと、得意になって、葉隠の言葉持ち出す人がいるが、多くの人は、この言葉を恐ろしい誤解に基づい て使用している場合がほとんどだ。まず武士道 という言葉は、後付けされた儒教精神に基づく誤解の産物にすぎない。しかも問題なのは、意図的になされた江戸幕府を守るある種の宗教的規範であるというこ とだ。いつも人間というものは、こうした言葉の曲解のもとで生きそして死ぬものなのか。


「武士道とは死ぬことことと見つけたり」
この言葉に感応して、実際に死んでみせた男がいる。昭和の文豪三島由紀夫である。三島がこの葉隠の言葉に深く感応し た理由は、彼自身が、大戦において、桜 のように自分の命も散ってしまうと覚悟していたところが、体が弱いために軍隊には入れず、結局生き残ってしまったという、ある種のコンプレックスから来て いるように思われる。

人はこのコンプレックスから、偉大な発見や創造的な仕事を為したりするものである。三島の場合も、やはり彼の 芸術の根底には、このような心理が働いていた ことは明白である。つまり三島の中には、死に損ねたという強烈なコンプレックスがあった。この心理を刺激した本が、山本常朝の「葉隠」だった。考えてみれ ば、山本と三島には、どこかしら心理の上で、共通する何かの意識が働いていたように思われる。

山本は、1659年(万治元年)というから、鎖国(1635)が始まり、島原の乱(1637-1638)も終 わり、武士が命を賭けて戦う戦争がこの世から 消えて、太平の世になる時に生まれた。もはや武士の弓や刀は無用の長物となり形骸化していった。山本の祖父や父は島原の乱にも出兵した。常朝は、父が七十 歳の時になした子で、幼少の頃から体が虚弱で、20歳までは生きられないだろうと云われていた。十一歳の時に、父を亡くした山本は、年は20才ほど年長だ が血筋では甥の山本常治に薫陶を受け、佐賀藩二代藩主の鍋島光茂に小姓として仕えた。これだけ考えても、山本は武の人ではない。文の人である。山本は、 きっと武士というものが輝いていた時期の生き様に対し、羨望の思いがあったのであろう。

山本が生まれる五十九年前に関ヶ原の戦があった。そこで佐賀藩は、急死に一生を得ている。藩主鍋島勝茂は、は じめ西軍に応援していたが、家康の東軍方が優 勢と見て、寝返って、領地を安堵されたことがあった。おそらくその時の、藩内の人間模様や武士たちの命を賭けたやり取り、決断の一切が、平和の時代に生き る山本には、胸を焦がすような思いで、祖父や父、古老たちの話を聞いていたのだろう。

こうして元々武士としての資質に欠ける山本には、憧れにも似た「武士道」への思いが生まれたはずだ。そして自 然と「武士道とは死ぬことことと見つけたり」 という言葉が山本の心の中でどこからともなく響いて来たのであろう。だからこの言葉は、山本自身の「武者への憧れ」をというか、「恋心」というか、そんな 思いを含んだものなのである。別の言い方をすれば、遅れて生まれた武士として、強烈なコンプレックスを抱える山本の武士観を表す言葉とも云える。

それを示すように、葉隠の中には、山本のジレンマが感じられるこんな下りがある。
「時代の風潮というものは、変えられぬものだ。次第に風潮が低俗になってゆくのは、世も末に感じられる。・・・だか らといって、世の中を百年前の良い風潮 に戻すというのはできない相談だ。」(葉隠聞書二の十八)

又「恋というものの究極は忍ぶ恋である。こんな歌がある。『恋ひ死なむ後の煙にそれと知れ終にもらさぬ中の思 ひは』これが恋というものだ。生きている内に 恋していると告げるのは本当の恋ではない。恋い焦がれ、思いに思って死ぬような恋が本物だ。相手より『私を好きですか?』などと問われても、『まったくそ んなことはありません』などと云って、思って死ぬような恋が究極なのだ。恋とはかくも面倒なものなのだ。・・・主従の間の関係もこのようにありたいものだ 云々」(葉隠聞書二の三三)と。

山本常朝は、江戸の元禄時代に生きた遅れてきた武士である。山本の仕えた藩主鍋島光茂は、名君として知られ、 朱子学を学び、幕府より早く追腹(臣下が主君 の跡を追って切腹すること。殉死とも云う)を禁止した人物である。この光茂が亡くなった時(1700)、山本は42歳の壮年であったが、図らずも君主の発 布した追腹の禁止令によって、彼の考える武士としての名誉ある死を遂げることは叶わなかった。

時代の風は、明らかに町人の世になりつつあった。もちろん武士階級が、士農工商の頂点に立ってはいるが、山本 の書く文章は、すこぶる爺臭くお説教じみたも のだ。彼は完全に時代錯誤の自分を感じながら、文化の波にお押し流される己を情けなく思いつつ、祖父や父の時代に武士たちが、華々しくも命のやり取りをし た時代を懐かしんでいるかにみえる。

「武士道とは死ぬことことと見つけたり」という山本の言葉は、まさに死ぬことを忘れて、時代の風潮に流されゆ く世代と時代に対し、「古き良き美風を忘れる な」と発した時代錯誤と化したひとりの老人の叫びのようなもので、どこか哀愁が漂う。しかしこれを肯定し、武士道とはこんなものであるという山本常朝の 「葉隠武士道」を肯定する気持にはとうていなれない。


葉隠は、武士の心得として「死」の覚悟を置き、主君に対しては、絶対の奉公の道を説く。江戸の太平の世で、この思想 はどのような波紋を投げかけるのか。遅 れて来た武者としての山本常朝は、主君に殉死することも叶わず、あれこれと武士のあり方を論評しながら、出家し坊主となって果てた。人には「狂死」とか 「忍恋」などと云いながら、彼は仏道に入って生きながら死んだことになる。実に哀れなで惨めな人生という他はない。結局、彼は文の人であって、武に生きる 人ではなかったのだ。

葉隠の文章全体を、通して読めば、すぐに気づくことだが、時には狂死を語り、積極的な死を肯定したかと思え ば、中庸を説く孔子のようにすこぶる道徳的な言 辞を弄したりしている。要は矛盾だらけで、例の「武士道とは死ぬこと云々」という刺激的な言辞だけが頭に残る書である。山本常朝という人物が著した書の評 価が、今では実際の到達点よりも、とんでもなく評価されているが、もっと葉隠というものの存在意義と価値を再評価すべき時期に来ていると思うのである。

同じ佐賀藩の出身である大隈重信(1838-1922)は、この「葉隠」に対し「奇異なる書」との評価を下し た。このことの意味は大きい。佐賀藩出身の大 隈であったが、彼の発想は、既に佐賀藩や武士階級の狭い領域を越えて、一市民のレベルに達していた。彼は葉隠の「とにかく佐賀藩主のために尽くせ」、とい う佐賀藩ナショナリズムというか、盲目的な滅私奉公的な言説が、時代になじまないものであることを看破していたのである。

さて今、もし武士というものの姿が、どのようなものであったかということを知りたければ、「平家物語」を読め ば事足りる。そこには武の時代に、激しく命を 燃焼させている武者たちの生き様が生き生きと描かれている。時代評論でもなければ泣き言でもない。同時代に生きた者達が、目の前で命を燃やし尽くしたもの たちをあるがままに活写しているのである。もちろんそこには多分に美化し過ぎている箇所もあるが、太平の世に昔を懐かしんで書いているのとは違う。

人は何のために死ねるか。それは武士道があるから死ねるのではない。止むに止まれぬ様々な葛藤を心に持ちなが ら、命より大切な何かが見つかった時に、人は 逍遥として死の旅路に就くのである。それは主君義経の楯となって亡くなった佐藤継信のように、主君のための時もあるだろうし、愛しい我が子や妻の時もあろ う。あるいはポトマック川で墜落した飛行機から、おぼれかけていた何人もの人を救出しながら、自分は疲労のために冷たい冬のポトマック川に沈んでいったア メリカ人男性のように自分とはまったく関係ない人でありながらも、人として黙って見過ごせないという強い思いが瞬間的に働いて、自分の命を投げ出していた ということもあろう。

この「葉隠」と比べれば、武の奉公が通用しない社会にあって、自らが武士として、生涯を貫いた最後の武者とも 云える宮本武蔵(1584-1645)が書い た五輪の書はまったく違う凄まじい本である。武蔵は、生涯において、誰を主君とすることもなく、ただ日々武者たらんと心に決めて、日本中を彷徨い歩き、つ いには主君はおろか妻も娶ることなく、ただ鎧に身を包み、日本のドン・キホーテとなって、ただ実践の書としての「五輪の書」一冊を遺して旅立って逝った。 実に見事な生涯である。自分は、安全な場所に一人居て、他人を狂死だ、忍恋だ、と駆り立てる山本常朝を私は評価しない。またすべきではない。


「武士道とは死ぬことことと見つけたり」という言葉が、これほど誤解されながらも持て囃されている理由はいったい何 か。それはおそらくこの言葉には、どこ かで日本人の琴線に触れる何ものかがあるのかもしれない。つまり美しい死を求めるという死生観(無意識)が日本人の心の奥底には潜んでいて、たまたま発せ られた山本の一言に共振を起こしているのである。それは前後の文章の脈絡も時代の制約も越えて、働きかけてくる。おそらく武士道だけではなく日本人の紡ぎ 出す文化の中には、死というものを美化しつつ、それと同化し、花のように散ってみたいという願望があるのだ。この死に対する考え方は、まさに日本人の中に ある死生観の原型(プロトタイプ)ともいうことができると思う。

ところで、この「葉隠」という本の題は、どうして付けられたか知っているだろうか。これは西行法師(1118 -1190)の「山家集」の「恋」の章にある 次の歌に由来するものと云われている。それはこんな恋の歌だ。

寄残花恋(のこりのはなによするこい)
葉隠れに散りとどまれる花のみぞ忍びし人に逢ふ心地する
(解釈:葉の陰に散り残っている花を見つけた時にはずっとお逢いしたいと恋心を忍んできた貴方に会ったような気持ち がいたします)

周知のように西行法師は、元々藤原秀郷に連なる武家の出で、弓馬の道では、あの源頼朝さえも一目置いていた人 物で、サムライの時代は佐藤義清(のりきよ) と呼ばれていた。院の御所を警護する北面の武士だった西行は、道ならぬ恋に溺れたのか(?)、23才で突然妻子を捨てて出家をした男である。その西行が晩 年、たまたま焼失した東大寺の再建のの勧進で奥州の藤原秀衡に逢いに行く途中、たまたま鎌倉に立ち寄った。頼朝は、西行を手厚くもてなし鎌倉の御所で朝が 来るのも忘れて、流鏑馬のやり方などを聞いている。西行には、あの有名な「願わくば花の下にて春死なぬその如月の望月の頃」という歌がある。桜を特に愛 し、その桜の下にて春死のうというのだから、まさに「葉隠」という題は、西行の死生観に添って付けられたというべきだろう。しかも歌は忍ぶ恋を謳ったもの である。

私が思うに、この「葉隠」という題は、作者山本常朝が付けたものではない。山本の話を聞き書きした田代陣基と いう人物が付した題であろう。当時、田代は 33才の男盛り、山本は52才初老の武士であった。おそらく田代は、すっかり廃れてしまっていると思われた武士道精神が、実はまだ散り残った桜のように 残っていることを山本常朝という人物会い話を聞くうちに、段々強く感じるようになったのだ。何か探していた花に巡り会えたような気持ちになり、西行の恋歌 にある「葉隠の花」というタイトルを付したのである。しかもこの本を残すことによって、自らが考える武士道精神というものが永遠に失われることなく残ると どこかで田代は確信しているように感じられる。

葉隠」の冒頭にはこんな言葉が添えられている。
「この十一巻の本は、(読んだならば)ただちに火の中に捨ててしまうことだ。後の世に批判を受けたり、邪悪に解釈さ れたり、妙な推量をされかねない。風俗 など、ただ後進の者に話のまま書き付けて貰ったものだ。余所の人からみれば、不満や悪事となりかねない。必ずや火の中に捨てるように。何度も云うが申し添 えて置く」

この緒言は、この本が完成した時に、作者の山本が編集者役の田代に語った言葉そのままであろう。この言葉は、 逆説的表現で、私には「多くの人の目に触れさ せろよ」とのまったく持って日本人の回りくどい婉曲な表現としか思われない。

さて冒頭には、二人のこんな句も添えられている。(古丸は、山本の俳号。期酔は田代の俳号)

浮き世から何里あらうか山桜 古丸
(解釈:世の中が移り変わってしまって武士道という山桜は何里も離れた遠い処に咲いていることであるよ)
白雲や只今花に尋ね会ひ   期酔
(解釈:花ではなく白雲とばかり思っておりましたら、たった今見事な花に尋ねあたりました。山本翁よあなたこそその 武士道という桜の花なのですよ)

まあ、いささか褒めすぎ。芝居がかり過ぎだ。決定的なことを云えば、田代は編集者であるのだから、もう少し著 者に媚びを売らずに、内容を統一性のあるもの にするべきだった。田代は、余りに著者にのめり込み過ぎだった。この時、田代の心の中では、廃れつつある世にあって、それでも散ってしまったと思われる桜 の葉の陰に、一枚ばかりそっと散り残った花を見つけたように、山本との出会いを感じていた。彼の中では山本こそが武士道という花そのものに見えていたはず だ。そして「葉に隠れた花」という題で「葉隠」と付けたものであろう。

この本の内容が、先にも指摘したようにひどく前後の脈絡も取れず、一本筋の通ったものになっていないのは、編 集者の田代が作者にのめり込み過ぎのせいであ る。要は批判精神が、編集者田代に欠けていたのだ。余りに山本を絶対視し、敬愛しているために、前後の論述のバランスを取ることを忘れ、おそらくは聞いた ことを細大漏らさず書いたために、非常に完成度の低い著作となってしまったのである。

ここに山本常朝の書いた「葉隠」の限界がある。彼の武士道の限界もおそらく無批判な主君あるいは目上の者に対 する奉公心にある。その意味では個としての自 覚のなき「葉隠武士道」は、結局日本人の死生観を刺激すれども、根本において、個を否定し、批判精神を育てないという限界を孕む著作で終わったということ が云えるのではあるまいか。


旧来の武士道と区別する意味で「士道」という言葉がある。これは江戸時代になって、徳川幕府が、儒教精神を組み入れ て確立した幕藩体制維持の思想である。 ところが経済的にみれば、戦のなくなった武士たちの生活は、そんなに楽ではなかったようだ。士農工商でその一番上に位する武士たちだが、身分制度で一番下 の町人(商)たちに借金をしたりして、離散したりした武士もいたようである。「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」という言葉があるが、実際にこのよう なことが、日本中津々浦々であったのだろう。結局、太平の世にあっては、武士も武器も存在意義を失ってしまったのだ。

旧来の源平合戦以来の武士道とは、何とか生き延びて、仕えた君主のために功を上げて、立身出世をするというこ とに主眼が置かれた。これが旧来の武士道の伝 統であった。出世をして成り上がるためには、どうにかしてでも生存をしなかればならない。それで旧来の武士道は、どうにかして生き残る(サバイバル)とい うことが強い思想となった。そのためには、命を落とすことも厭(いと)わない。そこには強い自助の気概が漂っている。始めから死ぬつもりの滅私奉公するの ではない。江戸の幕藩体制維持の装置に変えられた江戸期の武士道とはその辺りが根本的に違ってしまったのかもしれない。士道の場合は、そこに儒教精神が 入ってきて、私欲・私情というものが極端な形で否定されて、滅私奉公となったのである。

その意味では、「葉隠」の著述が、どんなに奇異にみえようとも、大きな時代の流れで言えば、江戸時代の雰囲気 の中で出来上がった一人の地方武士の心に浮か んだあるべき武士の姿であった。山本常朝の仕事は、藩主の側に支え、祐筆(ゆうひつ:文書にたずさわる者)などをしていた。彼はけっして事務一般をこなす 官僚ではなかった。だからかどうか、藩の財政や仕事に携わった時の苦労話などは、書かれていない。ひたすら奉公の道に決死の覚悟で仕えろ、とただそればか りが愚痴のように延々と書かれていて辟易してしまうのである。

読みながら、これはまさしく年寄りの愚痴ではないかと思ってしまう。
「…浅野殿の浪人たち(赤穂浪士)の夜討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが間違いだ。主君が討たれてから仇を討つ までの間が長すぎる。もしもその間に吉 良殿が病死でもしたら、どうしようもないではないか。都会の人間は、知恵が有りすぎるために世間を唸らせるのは上手だが、長崎の喧嘩のように無分別な行動 はとれないのだ。…武士道は…死の覚悟があればそれでよい。たとえその場では、反撃ができなかったとしても、すぐに仕返しをすることだ。それには知恵も技 もいらない。ただ曲者となって、なりふり構わずに死に狂うだけである。これで夢が覚めるというものだ。」(葉隠聞書一の五十五)

おそらくこれは、少しばかり山本の口が滑ってしまったのである。理由は簡単だ。本来は批判すべき編集者が感動 し過ぎなのだ。田代の目をランランと輝かせて うっとりと山本の断定的な喧嘩話に聞き入っている姿が目に浮かぶ。もっと編集者である田代に批判精神があれば山本も、これほどの幼稚性を露呈することはな かったはずだ。余りの編集者の喜びようについ乗せられて、本音がポロリと顔を出てしまったのである。


大体、赤穂浪士の敵討ちと、長崎喧嘩を同列で比べるなど、まあ常識のある男のすることではない。こうしてこの段で は、単なる喧嘩の自慢話に、話のレベルが落ちてしまっている。長崎喧嘩というのは、元禄13年(1700)、長崎で佐賀藩の武士2名が長崎の町年寄高木某 の家臣を相手に起こした私闘(喧嘩)のことである。事の発端は、泥がかかったというような些細なものであったが、高木の家来を殴ったことから、高木方の仲 間が大挙してやって来て鍋島の二人を袋だたきにした。納まらない2名は、我が子ら二人を加勢に呼び寄せて4名で高木邸に討ち入り、さらに仲間の者が8人加 勢にやってきて、罪もない主人の高木当の家来やその他の人間を含めて10名ほど殺害に及んだのである。その場で、鍋島の2人は、腹を切って自害。その後、 沙汰によって、討ち入ったもの全員が切腹となった。これが葉隠武士の美談として語られるとしたら、どこよりも早く殉死禁止令を出した佐賀藩としての先取の 精神はいったいどこにあるのか。

これはまさに私闘(喧嘩)の末の犬死である。何よりもこれで鍋島藩主は、天下に恥を晒したことになる。いや恥 だけでは済まない。場合によっては、それこそ この時期の徳川幕府は、藩を取り潰して、子飼いの家来に領地を分けて、幕藩体制を確立したいのであるから、何やら理由をつけて佐賀藩断絶ということだって あり得たのではあるまいか。これを忠孝の士を気取る山本が、知らぬはずもあるまいに、武士道の美談として語り継がれる「赤穂事件」の赤穂浪士と対置して、 心意気としては、長崎喧嘩の時の自藩の武士のかっとなって犯した喧嘩をより評価する旨の弁は、それこそまさに暴言としか思われない。山本には、おそらくこ の時の藩主の苦悩が分かっていない。いつ喧嘩の挙げ句に腹を切るかも死ねないそんな者を自分の臣下として、雇っておく藩主などあるものか。

葉隠」の冒頭の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一見もっともらしい言葉に騙されては駄目だ。「葉 隠」を全体で見れば、非常に論理性に欠け、し かもその取り上げているエピソードの多くが先の長崎喧嘩に見られるような狭隘な鍋島ナショナリズムとも言うべきものに終始している。結局それらの言辞は、 山本の屈折した視点から世を傍観した初老男の愚痴に過ぎないのである。これも戦国の武者たちに対する羨望や郷愁というような山本のコンプレックスがそうさ せたのであろう。

葉隠」は、「死」の観念を武士の心構えの中心に据えることで、たまたま日本という文化圏の中に育った日本人 の琴線に触れるということの一点によって、あ る時、異常なほどの賞賛を浴びた時期があった。それは犬死も恥ではないとする極論を孕んだ思想であり、あの忌まわしい第二次大戦時では、この「葉隠武士 道」の精神を汲んだ数百万の若者が尊い命を散らしてのである。こうして地方に住む一人の偏屈な男のコンプレックスは死を乗り越える哲学となって、暗い時代 の闇夜に一瞬の閃光を放った。

最後に言うならば、「葉隠」という著作は、どんなに異様な姿に見えようとも、徳川の時代が生んだ思想である。 本来であれば、徳川の為政者たちは、太平の世 になった時、身分制度を徐々に撤廃し、とりわけ武士たちを武装解除させて、武士階級を他の職業に転換しなければならなかったはずだ。しかし徳川幕府は、士 農工商の身分を固定化し、もはや無用の長物となりつつあった武士階級の身分を最上位に置いてしまった。ここに、「葉隠」のような極端な思想が生まれる素地 があったことになる。明らかに武士たちの精神にも変化が生じていた。そこで幕府は、林羅山(1583-1657)を登用して、朱子学を幕府の官学として日 本の歴史から兵学に及ぶ膨大な支配の思想体系を作り上げさせた。林は旧来の武士道に、最新の儒教的精神としての朱子学を取り入れることによって、徳川幕府 を支える強力なイデオロギーを完成させた。その林羅山に薫陶をうけたのが、山鹿素行(1622-1685)であった。彼はもっとも徳川においても有能な兵 学者のひとりであった。彼の「山鹿語類」や「武家事紀」など一連の兵学書は、単なる精神論である「葉隠」とはまるで違う深い人生哲学を潜ませていて他の者 の追随を許さない。一時、朱子学を批判したことで、赤穂の浅野家に預けられたが、そこで後に赤穂浪士を率いた大石内蔵助(1659-1703:くらのす け)を門下として山鹿流の武士道(兵学)を伝授したことは有名な話だ。葉隠という書もまた一見奇異には見えるが、この著作の本質が 実は、武士道というよりは無批判に体制に従う奉公人道を説くことであったという、その一点において、やはり 最終的に徳川政権を支える思想というべきであろう。

林羅山山鹿素行らが作り上げた徳川の武士道を、特に士道と呼ぶが、その特徴は、朱子学によって、旧来の戦国 形の武の武士道を、奉公形の武士道に意識的に 改変することだった。この士道について、丸山真男は、「武士階級の存在理由の根拠づけ」(講義録第五冊p221)と定義している。まさに武士道から士道へ の転回は、戦国の荒々しい武士道を儒教的精神によって、洗練醇化する道として考えられたのである。そこでは当然、戦国の武士のような、より強い主君との主 従関係を結ぶというような下克上的観念は消滅し、臣下の滅私奉公の道だけが強調されてゆく傾向となった。武の道から、奉公への道の転換である。それは武蔵 の五輪書にあるような、いかに敵と戦い、いかにしてそれを打ち破るか、あるいは勝ってのし上がるか、というようなぎりぎりの実践的武士道論ではなく、心構 えや、生活信条ということが、その論述の中心テーマとなって行くことになる。もちろんそれは幕府や大名や上級の武士にっては、都合が良かったかもしれない が、日本という国家にとって、市民精神というか個の確立という面では非常なマイナス効果をもたらした。その個の否定が、今日の日本人の自分の心情や信条を 他人に話さないということに通じているのかもしれない。

徳川の時代となって、太平の世は訪れた。ところが軍功を上げてのし上がってゆく武士にとって、これは己の存在 理由を否定されるに等しい時代の到来となっ た。そして無用の長物となった武士たちの中には、経済的に困窮するものまで現れた。それでも武士たちは、異様ななまでのプライドを持ち、高楊枝を加えなが ら、江戸の町を肩を切ってかっ歩していたのである。彼らの心には、戦国時代の武士の生き様の理想化や郷愁といった気持ちが生まれて行くのは当然の流れで あった。山本常朝という偏屈な男の中でも、武士というものに対する理想化の思考が生まれた。山本は、単純に「武士とは死ぬことだ」と考えた。考えれば考え るほど、彼の中では「死」という言葉のみが増幅した。そして犬死さえも合理化する我流の「精神論的武士道」が誕生したのである。到底この山本の武士道論に 普遍的な価値などはない。それが明治の終わりから大正期にかけて、急速に読者を増やし、大戦の最中には、異常なほどの熱気を持って受け入れられた背景に は、日清日露の戦争を勝利して、日の出の勢いで、アジアの覇者と して登り詰めようとした日本人の無意識を鼓吹するものが、この著作にはあると判断されたからに他ならない。すなわち無批判で国家に従う国民を養成する全体 主義的国民教育にとって、この「葉隠武士道」は実に有効なイデオロギーであったのだ。

留魂録 全文 現代語訳

 【 留魂録

 

身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
十月二十五日 二十一回猛士(松陰が使用した号の一つ)

 

【第一章】
私の気持ちは昨年から何度も移り変わり、それは数えきれないほどである。とりわけ私が趙の貫高や、楚の屈平のようにありたいとしてきたのは皆の知る通りである。だから、入江杉蔵(九一)が送別の句に、「燕や趙の国には多くの人がいるが、貫高のような人物は一人しかいなかったし、荊や楚にも深く国を思う人は屈平だけだった」という送別の句を贈ってくれたのである。しかるに、五月十一日、江戸送りのことを聞いてから、「誠」という言葉について考えた。この時に入江杉蔵が「死」の文字を贈ってくれた。私はそのことについては考えず。一枚の木綿の布に「孟子にして動かざる者は未だこれ有らざるなり」の句を縫い付けて江戸へ持参した。これを評諚所に留め置いたのは、私の志を表す為であった。昨年から(安政5年)、朝廷と幕府の間では意思が通じていないようだ。いやしくも私の真心が伝われば自ずと幕府の役人も分かってくれる、そう想いを決め、やらなければならないことを考えた。しかし、蚊のような小さな虫でも群れを成せば山を覆ってしまうとの例え通り、幕府の小役人たちに握りつぶされ、とうとう何もできないまま、今日に至ってしまった。私のの徳が薄いので至誠を通じることができなかったと受け取るべきであろう。今さら誰を咎め怨むことがあろうか。誰も怨むことはない。


【第二章】
七月九日、初めて評定所から呼び出しがあった。三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行石・谷因幡守穆清)の取調べがあり、次の二点について私を尋問した。一つは梅田雲浜(うめだうんぴん)が萩へ来たとき何か密談をしたのではないか、ということ。二つ目は「御所内に落とし文があったが、筆跡が似ているのでお前が書いたのではないか。覚えがあるのではないか」と尋ねられた。訊問は、この二点だけであった。梅田は奸計に長けていると感じるところがあり、私は「梅田は胸襟を開いて語り明かすほどの者ではない。そういう意味で彼と密議などするはずがない。私は公明正大であることを好む。どうして落文などという隠れごとをしようか」とはっきり答えた。その後、私は六年間幽囚の身で苦心して確信した所説を披歴し、ついに大原重徳を萩に迎え、長州藩を中心として志ある藩で挙兵しようという計画したこと、さらに老中・間部詮勝の要撃計画を話したので、獄に入れられる身となった。


【第三章】
私は激しい性格で人から罵られると我慢が出来ない。そのため、今回は時の流れに従って人々の感情に適応するように心がけてきた。だから、幕吏に対しても、幕府が勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印したのはやむをえないことであると述べた上で、その後の措置こそが肝要であると論じた。そこで私が説こうとするのはすでに「対策一道」に書いたとおりである。こうした私の姿勢には幕吏もさすがに怒ることはなかった。私の説に対し幕吏は「言っていることが全て的を得ているとは思えず、身分の低い者でありながら国家の大事を論ずることは不届きである」と弁じた。私はそれに抗わず論争を避け、ただ「このことが罪になるというのなら、それを避けようとは思わない」とだけ述べた。幕府の法では、庶民が国を憂うことを許していない。その善し悪しについては、私もこれまで議論をしたことはなかった。

 聞くところによると、薩摩藩の日下部伊三次は、取り調べの際に、幕府の失政を次々にあげ、「このようなことを続けていれば、幕府はこの先、三年や五年も保つことができないだろう」と述べて幕吏を激怒させた。さらに「これで死罪になろうとも悔いはない」と云い放ったという。この気概は私も及ばないところである。私は、入江杉蔵が私に死を覚悟するよう求めたのも、こういう意味なのかもしれない。思えば、唐の人、段秀実は郭曦には誠意を尽くし、朱泚には激しく非難しために殺された。こうして見ると、英雄と云われるべき人物は時と所により、それにふさわしい態度で臨んだ。大事なことは自分を省みて良心に恥じることがないことである。そして、相手をよく知り、良い機会をとらえることが大切なのである。私の人としての価値は、死後に棺を蓋で覆って始めて評価されるべきものである。


【第四章】
このたびの調書は、はなはだ粗略なものである。七月九日に一通リ申し立てた後、九月五日、十月五日の両度の呼出の時も大した取り調べもないままに十月十六日に至り、供述書を読み聞かせあり、直ちに署名せよとの事であった。私が苦心をして述べたアメリカ使節との外交交渉や海外渡航の雄大な計画に関する考えは一つも書かれず、ただ数か所のみ開港の事に触れ、国力充実の後、打払うべきなどと、私の心の真意ではない愚にもつかないようなことを書き付けて供述書としていた。私は、言っても無駄であることを悟り、敢えて抗弁しなかったが、不満が甚だしく残った。安政元年の下田踏海での取調書と比べると雲泥の差だというほかない。


【第五章】
七月九日、大原重徳公を長州に迎える策、老中間部詮勝要撃策の事を一通り申し述べた。これらのことは幕府も既に事前情報で承知していると思われたので、誤解なきように明白に述べておいた方が却って良かろうと思い申し立てしたが、幕府は全く知らなかったようであった。幕府の知らないことまで述べて、多くの仲間内に累が及び無関係の人を傷つけることになり、毛を吹いて傷を求めるという喩えのように、強いて他人の欠点を探し求めれば、かえってこちらの欠点をさらすことになるに等しいと思い直した。だから、間部要撃の件についても「待ち伏せて襲撃する要撃」から「待ち伏せて諌める要諌」と言い替えた。又、京都で連判した同志の姓名なども、隠して明らかにしなかった。これは、後の運動の為を思ってしたささやかな私の老婆心からである。これにより、幕府が、私一人を罰して他に累を及ぼさなかったのは大変喜ぶべきことであろう。同志諸君、この辺りの事を深く考え起ち上がって欲しい。


【第六章】
間部「要諌」の件で、もし諌めることが出来なかった時は刺し違えて死に、警護の者がこれを邪魔する時は切り払うつもりだったとは、実際には私が云っていないことである。ところが三奉行が強いてそのように書き記し、私を罪に陥れようとした。そのような偽りの罪をどうして受け入れられようか。そこで私は十六日、供述書の署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と大いに言い争った。私は、死を恐れたのではない。両奉行の権力によるごまかしに屈服しない為である。これより先の九月五日、十月五日の両度の取り調べの際に、吟味役に詳細に話したことは、命を掛け間部を諌めようとしたことであり、必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないということだった。吟味役もこのことを十分に認めていたのに、供述書には「要撃」と書き記されているのはごまかし以外の何物でもない。だが、事ここに至っては刺し違え、切り払いのことを私があくまで否定したのでは却って我々の信念の激烈を欠くことになり、同志の諸友も惜しいと思うであろう。私も惜しいと思わない訳ではない。しかし、繰り返し考えると、志士たる者が仁のために死ぬにあたり、「刺し違える」とか「切り払う」などの言葉の問題ではない。今日私は、権力の奸計によって殺されるのである。全ては天地神明の照鑑(しょうかん)上にある。何を惜しむことはないであろう。


【第七章】
私は、このたびのことで最初から生を得ようとは考えなかった。また、死を求めたこともない。ただ、自分の誠が通じるかを天に委ねてきた。七月九日、取り調べを行った役人の態度からほぼ死を覚悟した。私はそれを詩に書き留めた。「明の国の楊継盛という人は、政治の実権を握った厳嵩の横暴を訴えたことにより処刑されたが、忠誠を貫いて死んだことに満足したであろう。漢の名医・淳干意は、罰せられた時、命乞いをしてまで生きることを望まなかったであろう」。ところが、その後の九月五日、十月五日の二度の取調べが寛容なものだったために欺かれ、ひょっとしたら死罪を逃れることができるかと思い、これを喜んだ。これは、私が命を惜しんだのではない。昨年の大晦日(安政五年十二月三十日)、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春の三月五日、長州藩主・毛利敬親公は萩を出発した。敬親公を伏見で迎え公卿と会って頂き、そこで攘夷の働きかけをしようとした私の計画は、ここで完全に失敗した。そこで万策尽きたので死を求める気持ちが強くわき起こってきた。しかるに六月末、江戸に来て、外国人の様子を見聞きし、七月九日、獄に繋がれたてからも、天下の形勢を考察するうちに、日本の為に私が為さねばならないことをがあると悟り、ここで初めて生きたいという気持ちがふつふつと湧いてきたのである。私が死罪とならない限り、この心にわき立つ気概は決してなくなることはないだろう。しかし、十六日に行われた調書の読み聞かせで、裁きを担当する三奉行がどうあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生を願う気持ちはをなくなった。私がこういう気持になれたのも、平素の学問の力であろう。


【第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。

私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。

しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。

私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。

 

【第九章】
東口揚屋(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士・堀江克之助(ほりえよしのすけ)とはこれまで一度もあったことはなかったが、しかし、彼は真の知己であり有益な友である。彼が私に言った。「その昔、幕臣の矢部駿州は、政策の違いから桑名藩へお預けとなり、その日より絶食して仇敵を呪って死に絶えましたが、その後、彼の制作が正しかったことが証明され、ついには仇敵を失脚させることができました。今、あなたも自ら死を決意するからには、心に念じて内外の敵を打ち払うことです。そして、その心をこの世に書き残しておいて下さい」と、丁寧に忠告してくれた。私は、その言葉に心から感服した。又、水戸藩士であり、堀江と同じ獄にいる鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は私に告げて言った。「あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし自分が遠島にされれば天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。但し、天下の益になることについては同志に託して、言い置くべきことを伝えておかねばならないと考えます」。この言葉は、私と意を同じくするものだった。私が心に念じることは、同志が私の志を継承し、必ずや尊皇攘夷に大きな功を立ててほしいということである。私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は遠島になろうが獄にいようが、私の同志たらんとする者は彼らと交わりを結んで欲しい。又、本所亀沢町に山口三輶(やまぐちさんゆう)という人がいる。彼は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏を獄外から支援されている。私がこの人に及ばないと思ったのは、小林民部(こばやしみんぶ)のことを、堀江、鮎沢の両氏から伝え聞き、小林の為にも尽力していることだ。この人は思うに、非凡な人だと思われる。この三人へ連絡するには、この三人をよく知る山口三輶に頼んだらよい。


【第十章】
堀江克之助は神道を崇め、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし、異端や邪説を排除せんと望んでいる。彼は、朝廷から教書を発行して、天下に。配布するのが良いと考えている。私が思うに、教書の発行をするには一つの方法があると思う。それは身分のわけ隔てなく学ぶことが出来る大学を京都につくり、天朝の学風を天下に示すことだ。全国の優秀な才能、人材を京都に集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、それを朝廷で教習したのち、これを世に広めていけば、人心はおのずから定まるだろう。そこで、私が平素より入江杉蔵と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に相談し、この役を杉蔵に任すことに決めた。杉蔵がよく同志と相談し、内外の同志から協力を得ることが出来れば、私の志した計画も無駄にはならないであろう。去年、勅諚や綸旨を得ようとした企ては失敗したが、尊皇攘夷運動は決してやめるべきではないから、よい方法を考え、先人の志を継承せねばならない。そのためにも、京都に学校を作ることは素晴らしいことではあるまいか。


【第十一章】
小林民部が言うには、京都の学習院は日を決めて百姓町人に至るまで出席させて講釈を聴聞することが許されている。講義の日には、公卿方が出向き、講師として菅原家、清原家及び官位を持たない儒者も加わり行われるそうだ。これを基本にして考えれば、更によい方法が見つかることだろう。又、大阪の懐德堂には、霊元上皇の直筆の扁額(門や部屋に掛ける横に長い額)があるので、これを基としてもう一つの学校を起すのも良い考えだと言っている。小林民部は、公卿である鷹司家の諸大夫であるが、このたび遠島の罪科に処せらている。安政の大獄連座した京都の同志の中でも罪が大変重い。この人は、有能にして芸事深い方であるが、文学にはあまり深くないようだ。ただ、物事を的確に処理する才能を持つ人らしい。伝馬町の西奥揚屋牢にて私と同居だったが、後に東口に移された。小林は、京都の吉田神社鈴鹿石州や筑州とは特に親しいということだ。又、江戸の山口三輶も小林の為に大いに尽力しており、鈴鹿か山口を通じて遠島先の小林まで連絡を取ることを同志に勧めたい。京都で事をなす時は、必ずや力になってくれるであろう。


【第十二章】
讃岐の高松藩士・長谷川宗右衛門は、数年にわたり藩主を諌め、藩主と水戸藩との周旋につとめ苦心した人物である。今、彼は息子の速水と共に捕らえられ、彼は東の牢屋に、息子の速水は西の牢屋で私と一緒だが、この父子の罪を私は未だに知らない。私が初めて長谷川翁を見た時、そこには獄吏が立っていて言葉を交わせなかったが、彼は独り言のようにして次のように言った。「玉(ぎょく)となって砕(くだ)かれようとも、瓦(かわら)となって生きながらえてはならない」。私はその言葉に深く感動した。同志諸君、その時の私の気持ちを察して欲しい。


【第十三章】
今まで書き記したことは、無駄に書き留めたものではない。天下の事を成功させるためには、天下の有志の士と志を通じなければ達成し得ない。そこで、私がここに記した数人のことは、このたび新たに知り得た人物だから、これを同志に知らせておく。なお、勝野保三郎は既に出牢している。したがって、何かのことについて彼に詳細を問尋ねるがよい。勝野の父の豐作は今潜伏中だが、有志の士と聞いている。いずれ、頃合いをみて探し出すのが良かろう。今日の事、同志の諸士は、安政の大獄という戦いに敗れ傷ついた志士にそのいきさつを聞き、今後の参考にするがよい。一度失敗したからといって挫折するようでは、どうして勇士といえようか。このことを切に頼む。頼むぞ。


【第十四章】
越前の橋本左内は二十六歳にして処刑された。十月七日のことであった。左内は東奥の牢に五、六日ばかり居ただけで処刑されたのである。その時、勝野保太郎が橋本左内と同獄だった。後に勝野は、西奥の牢に来て私と同獄となったが、私は、勝野から左内の話を聞いてますます左内と会えなかったことを残念に思っている。左内は、自邸内に幽閉されていた時、「資治通鑑」を読み、注釈を書き、「漢紀」も読破したという。又、獄中では、「教学や技術の事についていろいろと論じた」と勝野は私に話してくれた。勝野は、私の為にこれを語ってくれたが、左内の獄中の論は、私を大いに納得させた。私は、ますます左内を甦らせて議論をしてみたいと思うが、左内はもうこの世にいない。ああ、とても残念なことだ。


【第十五章】
僧・月性の護国論及び吟稿、口羽徳祐の詩稿、いずれも天下同志の士に見せたいと思う。そこで私は、これを水戸藩の鮎沢伊太夫に贈ることを約束した。同志のうち誰か私に代わってこの約束を果たしてくれるとありがたい。


【第十六章】
同志諸友の内、小田村伊之助、中谷正亮、久保清太郎、久坂玄瑞、入江杉蔵と野村和作兄弟たちのことを、鮎沢、堀江、長谷川、小林、勝野たちヘよく話しておいた。松下村塾の事、須佐、阿月の同志の事、飯田正伯、尾寺新之丞、高杉晋作及び伊藤利輔(後の博文)の事もこれらの人に話しておいた。これは私が軽い気持ちで話したのではないということは分かってほしい。


【かきつけが終わった後に】


「心なることの種々かき置ぬ 思ひ残せることなかりけり」


「呼びだしの声まつ外に 今の世に待つべき事のなかりけるかな」


「討れたる吾をあわれと見ん人は 君を崇めて夷(えびす)払へよ」 


「愚かなる吾をも友とめづ人は わがとも友とめでよ人々」 


「七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ 吾忘れめや」


十月二十六日黄昏に書く 二十一回猛士

 




 

實語教(実語教じつごきょう)

實語教

山高故不貴 以有樹為貴

山高きが故に貴からず。木有るを以て貴しとす。

 

人肥故不貴 以有智為貴 

人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。

 

富是一生財 身滅即共滅 

富は是一生の財。身滅すれば即ち共に滅す。

 

智是万代財 命終即随行 

智は是万代の財。命終われば即ち随って行く。

 

玉不磨無光 無光為石瓦 

玉磨かざれば光無し。光無きを石瓦とす。

 

人不学無智 無智為愚人 

人学ばざれば智無し。智無きを愚人とす。

 

倉内財有朽 身内財無朽 

倉の内の財は朽つること有り。身の内の財は朽ちること無し。

 

雖積千両金 不如一日学 

千両の金を積むと雖も。一日の学に如かず。

 

兄弟常不合 慈悲為兄弟 

兄弟常に会わず。慈悲を兄弟とす。

 

財物永不存 才智為財物 

財物永く存せず。才智を財物とす。

 

四大日々衰 心神夜々暗 

四大日々衰え、心神夜々に暗し。

 

幼時不勤学 老後雖恨悔 

幼きときに勤め学ばざれば、老いて後恨み悔ゆと雖も、

 

尚無有取益 故讀書勿倦 

なお取益有るを無し。かかるが故に書を読んで倦むをなかれ。

 

学文勿怠時 除眠通夜涌 

学文怠る時なかれ。眠りを除きて通夜に涌せよ。

 

忍飢終日習 雖會師不学 

飢えを忍びて終日習え。師に會すと雖も学せざれば

 

徒如向市人 雖習讀不復 

徒に市人に向かうが如し。習い読むと雖も復せざれば

 

只如計隣財 君子愛智者 

只隣の財を数えるが如し。君子は智者を愛す。

 

小人愛福人 雖入富貴家 

小人は福人を愛す。富貴の家に入ると雖も、

 

為無財人者 猶如霜下花 

財無き人の為は、なお霜の下の花の如し。

 

雖出貧賤門 為有智人者 

貧賤の門を出ずると雖も、智有る人の為には、

 

宛如泥中蓮 父母如天地 

あたかも泥中の蓮の如し。父母は天地の如し。 

 

師君如日月 親族譬如葦 

師君は日月の如し。親族譬ば葦の如し。

 

夫妻猶如瓦 父母孝朝夕 

夫妻は猶瓦の如く。父母には朝夕に孝せよ。

 

師君仕昼夜 交友勿諍事 

師君には昼夜に仕えよ。友に交わって諍う事なかれ。

 

己兄尽禮敬 己弟致愛戯 

己より兄には礼敬を尽くせ。己より弟には愛戯を致せ。

 

人而無智者 不異称木石 

人として智無きは、木石に異ならず。

 

人而無孝者 不異称畜生 

人として孝無きは、畜生に異ならず。

 

不交三学友 何遊七学林 

三学の友に交わらずんば、何ぞ七学の林に遊ばん。

 

不乗四等船 誰渡八苦海 

四等の船に乗らずんば、誰か八苦の海を渡さん。

 

八正道雖廣 十悪人不往 

八正の道は廣しと雖も、十悪の人は往かず。

 

無為都雖楽 報逸輩不遊 

無為の都に楽しむと雖も、報逸の輩は遊ばず。 

 

敬老如父母 愛幼如子弟 

老いたるを敬うは父母の如し、幼きを愛するは子弟の如し。

 

我敬他人者 他人亦敬我 

我他人を敬へば、他人亦我を敬う。

 

己敬人親者 人亦敬己親 

己人の親を敬えば、人亦己が親を敬う。

 

欲達己身者 先令達他人 

己が身をば達っせんと欲せば、先ず他人の身を達っせしめよ。

 

見他人之愁 即自共可患 

他人の愁いを見ては、即ち自ら共に患うべし。

 

聞他人之嘉 即自共可悦 

他人のよろこびを聞いては、即ち自ら共に悦ぶべし。

 

見善者速行 見悪者忽避 

善を見ては速やかに行け、悪を見ては忽ち避れ。

 

好悪者招禍 譬如響応音 

悪を好む者は禍を招く。譬ば響きの音に応ずるが如し。

 

修善者蒙福 宛如随身影 

善を修する者は福を蒙る。あたかも身に影の随うが如し。

 

雖富勿忘貧 或始富終貧 

富むと雖も貧しきを忘るることなかれ。或いは始めに富み終わりに貧しいとも。

 

雖貴勿忘賎 或先貴後賎 

貴しと雖も賎しきを忘るることなかれ。或いは先に貴く終わりに賎しくとも。

 

夫難習易忘 音聲之浮才 

それ習い難く忘れ易しは、音声の浮才。

 

又易学難忘 書筆之博藝 

また学び易く忘れ難しは、書筆の博藝。

 

但有食有法 又有身有命 

但し食有れば法有り、また身あれば命有り。

 

猶不忘農業 必莫廢学文 

なお農業を忘れざれば、必ず学文廃することなかれ。

 

故末代学者 先可按此書 

故に末代の学者、先ず此の書を按ずべし。

 

是学文之始 身終勿忘失 

是学文の始まり、身終つるまで忘失することなかれ。