高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。?ご了承下さいませ。

日本行進曲の父「瀬戸口藤吉」

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瀬戸口藤吉(せとぐちとうきち)は日本の音楽家の一人で海軍軍楽師です。

 

生没 : 1868年6月29日(慶応4年5月10日)~ 1941年(昭和16年11月8日)

 

出生地は鹿児島県鹿児島郡小川町(現・鹿児島市)と肝属郡垂水村(現・垂水市)の二説があります。

 

軍艦行進曲などの作曲家として知られ、「日本行進曲の父」と讃えられています。

 

藤吉は琉球王朝に対する接待係を務める薩摩藩士・瀬戸口覚兵衛の家に生まれ13歳の時に東海鎮守府警吏補であった大山軍八の養子となり大山藤吉と名を改め、横浜に移りました。

 

1882年、海軍の第2回軍楽公募生に応募し採用され1895年に海軍軍楽師に任ぜられました。

 

1896年に横須賀で旅館の次女と結婚しました。

 

1897年ごろに「軍艦」を作曲し、この頃から実家の瀬戸口家から戻るよう催促され、ひと悶着の末に1900年に瀬戸口家に戻り、1904年に海軍軍楽長(軍楽隊長)に昇進しました。

軍楽隊長昇進後は同郷の先輩でもあった伊集院五郎の意見によって「海軍軍楽隊への弦楽の導入」「東京への軍楽隊の分遣隊設置」「海軍軍歌の整備編纂」の3点に尽力しました。

 

1917年に海軍軍楽特務少尉を定年退官し1918年5月10日に後備役となりました。

 

その後は東京帝国大学やアマチュア・オーケストラで指導するなど、事実上楽壇の表舞台からは退きましたが、1937年に愛国行進曲の作曲公募第1位となり再び脚光を浴びることとなりました。

 

瀬戸口藤吉はこの頃よりリウマチを患い歩行が著しく困難となりました。

 

1940年の軍艦行進曲40周年演奏会に参加の他、海軍軍楽隊出身者で組織された海洋吹奏楽団の副団長なども務めました。

 

1941年には新しく創刊される雑誌「吹奏楽」に一文を寄せる予定でしたがその直前の11月8日に亡くなりました。

 

弟子はいませんでしたが、海軍退職後の教え子に菅原明朗がいました。

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鹿児島の垂水市では彼の業績を讃えるために、毎年瀬戸口藤吉翁記念行進曲コンクールが催されている他、海上自衛隊が瀬戸口藤吉生誕記念して艦艇広報や演奏会を開いています。

 

「瀬戸口藤吉の主な作品 」

 

軍艦行進曲、敷島艦行進曲、艦船勤務、日本海海戦日本海夜戦、国旗軍艦旗黄海海戦、閉塞隊、第六潜水艇の遭難、威海衛襲撃、楠公父子、告別行進曲(原曲・蛍の光)、東京頌歌、東京行進曲、ラヂオ行進曲、野球行進曲、くろがねの力、体育大行進、軍艦旗の歌、愛国行進曲、婦人愛国の歌、乃木大将、若宮殿下行進曲、護れ太平洋、勇敢なる日本兵、水車、春の踊り(詩・竹久夢二)、野行き山行き、虫のダンス、谷間の小川、学習院五十周年記念歌、東都の流れ、沖の白帆、越後獅子

 

 

 

 

藤田東湖の「正気の歌」

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藤田東湖の作で「正気(せいき)の歌」という漢詩があります。「正気の歌」は、もとは南宋文天祥という忠臣がうたったもので、忠臣の鏡とされた人物であり、日本でも維新の志士がその歌を愛誦したといいます。藤田東湖は、これに寄せて、自作の「正気の歌」を作りました。

 

そして、この歌は、幕末の志士を鼓舞したのみならず、明治、大正、昭和初期と愛国的な人々に愛誦されました。


藤田東湖は、水戸学の学者であり、同時に経世の政治家でした。幕末の文化三年(1806)に水戸に生れました。父は水戸学の指導的な学者、藤田幽谷で、彰考館の総裁として天下に有名な人物でした。


東湖もその血を受けて少年時代から頭角を現し、すでに二十四歳の時父の幽谷に代わって彰考館の総裁代理をつとめました。水戸の藩主は史上に名高い水戸斉昭ですが、この英明な主君を擁立して藩主の地位を相続せしめるために必死の運動をしてこれを実現したのが藤田東湖たちでした。


ときは、ちょうど史上有名な老中水野忠邦の「天保の改革」の時期であり、それが挫折したときに、藩主斉昭もこれに巻き込まれて謹慎を命ぜられ、幽閉されることになりました。この時東湖も幽閉の身となります。

 

この期間に作られたのが、「正気の歌」です。


憂憤やるかたなく、国を思う一念やみ難い長詩で、志ある人々にながく愛誦されました。


この後、嘉永6年に黒船が来航し(1853年)、斉昭は許されて幕府の参与となり、東湖も登用されて海辺の防衛に全力を傾けました。


しかしながら、安政2年(1855年)の10月2日の夜半に「安政の大地震」がおこります。江戸小石川の水戸藩邸に勤めていた東湖は一度は脱出しますが、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻ったため、東湖も後を追って、落下してきた梁(鴨居)から母親を守る為に自らの肩で受け止め、何とか母親を外に放り出したということですが、その時再び揺れが襲い、母と共に圧死したということです。五十歳でした。

 

水戸光圀に始まる『大日本史』は二百五十年にわたって編纂されました。

 

まさに水戸は日本歴史学派の中心地でした。


当時の武士は漢文の四書五経を中心に勉強して歴史観の根幹を養いました。

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吉田松陰などもそうで、儒学を学びました。松陰は、こうして大義名分の学問をやっているうちに、革命の国支那とは逆に、皇室と対立する幕府というものの存在が許さるべきではないという結論に達しましたが、そこに水戸からやって来た同志に、

 

「きみの論ずるところは、煎じ詰めると理屈である。日本の歴史を知らないからダメだ」

 

と、さんざんやっつけられたのです。


正直無類の松陰は発奮して、日本歴史研究の中心地である水戸に学びます。会沢、藤田などの大学者を訪ねて勉強に打ち込みました。


歴史を学ぶと学ばないとでは、どこがちがうか。松陰が水戸に道を急ぐときは、京都は素通りでした。歴史を学んで長州に帰るときはそれができず、高山彦九郎と同じように大橋にひざまずいて、皇居を伏し拝み涙を流しました。


歴史を学んだ松陰は、日本人の先祖が歴代の天皇を中心として、つぎつぎに尊い命を積み重ねて、我が大和島根を護ってきた事実を魂の慟哭を持って知ったのです。

 

吉田松陰も日本の歴史を学びそうした行動を取らずにはおかない自分に変わったのです。

 

「正気の歌」を原文、書き下し文、現代語訳でご紹介します。

 

( 原文 )

 

文天祥正氣歌/藤田東湖

 

天地正大氣 粹然鍾 神州

秀爲不二嶽 巍巍聳千秋。
注爲大瀛水 洋洋環八洲。
發爲萬朶櫻 衆芳難與儔。
凝爲百錬鐵 鋭利可割鍪。
藎臣皆熊羆 武夫盡好仇。
神州孰君臨 萬古仰 天皇
皇風洽六合 明德侔大陽。
不世無汚隆 正氣時放光。
乃參大連議 侃侃排瞿曇。
乃助 明主斷 燄燄焚伽藍。
中郞嘗用之 宗社磐石安。
淸丸嘗用之 妖僧肝膽寒。
忽揮龍口劍 虜使頭足分。
忽起西海颶 怒濤殱胡氛。
志賀月明夜 陽爲 鳳輦巡。
芳野戰酣日 又代 帝子屯。
或投鎌倉窟 憂憤正愪愪。
或伴櫻井驛 遺訓何殷勤。
或守伏見城 一身當萬軍。
或殉天目山 幽囚不忘君。
承平二百歳 斯氣常獲伸。
然當其鬱屈 生四十七人。
乃知人雖亡 英靈未嘗泯。
長在天地間 凛然敍彜倫。
孰能扶持之 卓立東海濱。
忠誠尊 皇室 孝敬事天神。
修文兼奮武 誓欲淸胡塵。
一朝天歩艱 邦君身先淪。
頑鈍不知機 罪戻及孤臣。
孤臣困葛藟 君冤向誰陳。
孤子遠墳墓 何以報先親。
荏苒二周星 獨有斯氣隨。
嗟予雖萬死 豈忍與汝離。

屈伸付天地 生死又何疑。
生當雪 君冤 復見張四維。
死爲忠義鬼 極天護皇基。

 

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(書き下し)

 

文天祥の正氣歌に和す/藤田東湖

 

天地正大の氣、粹然(すいぜん)として神州に鍾(あつま)る。秀でては、不二(ふじ)の嶽(がく)となり、巍巍(ぎぎ)として千秋に聳(そび)ゆ、注いでは、大瀛(たいえい)の水となり、洋洋として八洲を環(めぐ)る。発しては、萬朶(まんだ)の櫻となり、衆芳(しゅうほう)與(とも)に儔(ちゅう)し難し。凝(こ)っては、百錬(ひゃくれん)の鐵(てつ)となり、鋭利(かぶと)を断つべし。盡臣(じんしん)皆(みな)熊羆(ゆうひ)、武夫(ぶふ)盡(ことごと)く好仇(こうきゅう)。 神州、孰(たれ)か君臨す。萬古、天皇を仰(あお)ぐ。皇風は六合(りくがふ)に洽(あまね)く、明徳は大陽に侔(ひと)し。世に汚隆(おりゅう)無きにあらず。正氣、時に光を放つ。乃(すなは)ち大連(おおむらじ)の議に參(さん)じ、侃侃(かんかん)瞿曇(くどん)を排す。乃(すなは)ち明主の斷を助け、焔々(えんえん)伽藍(がらん)を焚(や)く。中郞(中臣鎌足のこと)嘗(かつ)て之(これ=正大の気)を用い。宗社(そうしゃ)、磐石(ばんじゃく)安し。淸麿嘗(かつ)て之(これ)を用ひ、妖僧肝膽(かんたん)寒し。忽(たちま)ち龍ノ口(たつのくち)の劍を揮(ふる)ひ、虜使(りょし)、頭足分(わか)る。忽ち起す西海の颶(ぐ)、怒濤(どとう)胡氛を殱(つく)す。志賀の月明(あきらか)なるの夜、陽(いつは)りて鳳輦(ほうれん)と 爲(な)りて巡す。芳野の戰(たたかい)酣(たけなは)なるの日、又帝子(ていし)の屯(ちゅん)に代る 或(あるい)は、鎌倉の窟(くつ)に投じ、憂憤正に??(えんえん)。或は櫻井の驛(えき)に伴ひ、遺訓何ぞ殷勤(いんぎん)なる。或は天目山に殉(じゅん)じ、幽囚君を忘れず。或は伏見の城を守り、一身萬軍に當(あた)る。 昇平、二百歳。斯(こ)の氣、常に伸ぶるを獲(え)たり。 然(しか)れども、其の鬱屈(うっくつ)するに當(あたり)ては、四十七人を生ず。乃(すなは)ち、知る人亡ぶと 雖(いへど)も、英靈、未(いま)だ嘗(かつ)て泯(ほろ)びず。長(とこしへ)に天地の間に在り、凛然(りんぜん)として、彜倫(いりん)を敍(じょ)す。孰(たれ)か能(よ)く之(これ)を扶持(ふち)するものぞ。卓立する東海の濱(ひん)に、忠誠、皇室を尊び、孝敬、天神に事(つか)ふ。文を修め、兼ねて武を奮(ふる)ひ、誓つて胡塵(こじん)を淸めんと欲す。一朝、天歩(てんほ)艱(なや)み、邦君、身、先(ま)づ淪(りん)す。頑鈍、機を知らず。罪戻(ざいれい)、孤臣に及ぶ。 孤臣、葛?(かつるゐ)に困(くる)しむ。君冤(くんえん)誰に向かひてか陳(の)べん。孤子(こじ)、墳墓に遠(とほざ)かる。何を以(もっ)て先親(せんしん)に報ぜん。荏苒(じんぜん)たり二周星。獨(ひと)り、斯(こ)の氣の隨(したが)ふ有り。嗟(ああ)、予(われ)萬死すと雖(いへど)も、豈(あに)汝(なんぢ)と離るるに忍びんや。屈伸、天地に付す。生死、又、いづくんぞ疑はん。生きては當(まさ)に君冤(くんえん)を雪(そそ)ぎ、復(ま)た綱維(こうゐ)を張るを見るべし。 死しては忠義の鬼となり、極天(きょくてん)皇基(こうき)を護(まも)らん。

 

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(現代語訳)

 

天地に満ちる正大の気は、粋を凝らして神州日本に集まり満ちている。正気、地に秀でては富士の峰となり、高く大いに幾千年もそびえ立ち、流れては大海原の水となり、あふれて日本の大八洲をめぐる。開けば、幾万もの枝に咲く桜の花となり、ほかの草木の及ぶところではない。正気、凝れば、百度(ひゃくたび)鍛えし日本刀となり、切れ味鋭く兜を断つ。忠臣いずれもみな勇士。武士ことごとく良き仲間。良き競争相手神州日本に君臨されるはどなたか。太古のときより天皇を仰ぐ。天子の御稜威(みいつ)は、東西南北天地すべてにあまねく広がり、その明らかなる御徳は太陽に等しい。世の中に栄枯盛衰の絶えることはない。時に正気が光り輝く。たとえば、欽明帝の御代のこと。物部尾輿(もののべのおこし)、中臣鎌子、大連(おおむらじ)の議にて、剛直なる正論をもって、蘇我稲目(そがのいなめ)の惑える仏教を排斥した。すなわち、英明なる帝の叡慮を助け、蘇我の仏像、海に捨て、私寺ことごとく焔をあげて焼きつくした。たとえば、中臣鎌足、正気をおこなう。「乙巳(いっし)の変」(大化の改新)。蘇我氏の専横、倒して皇室国家を磐石安泰ならしめた。たとえば、和気清麻呂、正気をおこなう。宇佐八幡の御神託をいただいて、妖僧「弓削道鏡」、肝を冷やした。同じく、北条時宗。建治元年(1275年)、降服迫る「元」の使節を虜にし、相模の国は竜の口にて切り捨てて、捕虜の首と胴を泣き別れにした。同じく、元寇襲来のとき、正気は玄界灘の猛風を起こし、怒涛とともに外国軍の異様な気配を滅ぼしつくした。後醍醐帝の御代のこと。元弘の変(1331年)。倒幕の企て洩れて、志賀の比叡山に逃れた夜は明るい月夜。さらに藤原師賢(もろかた)ら、帝の御衣(みけし)を借り、帝の乗り物にて行幸を偽り、延暦寺へ。帝はその間に笠置の山へ移りたもう。南朝は吉野城の戦いたけなわなるとき、元弘三年(1333年)、護良(もりなが)親王の忠臣、村上彦四郎義光(よしてる)、正気を行う。帝子(大塔宮・護良親王)の身代わりに、落城さなか宮の鎧兜をいただき切腹す。あるいは、建武新政護良親王、正気を行う。足利尊氏の誅殺くわだて、鎌倉は東光寺の土牢に幽閉さる。深い憂憤、苦悩のうちに弑殺さる。時に二十八歳。あるいは、楠木正成、正行(まさつら・11歳)父子の桜井の駅の別れのとき。正成四十三歳、正気を行う。生き延びて最期の一人になるとも帝を護れ、と遺言するは、なんとねんごろなことか。勝てぬ戦と知りながら、大楠公湊川にて討ち死にす。あるいは、天正十年春三月、織田信長に敗れた武田勝頼、天目山にこもりいる。讒言にて幽閉されていた小宮山内膳正友信、主君の恩を忘れず、これが最期のお供だと、駆けつけ許され殉死した。あるいは、天下分け目の関が原、徳川家康が股肱の臣、鳥居彦右衛門元忠、主君の囮を買って出て伏見の城を守り奮戦。二千の手勢とわが身をもって、四万の敵に当たって討ち死にする。享年三十三歳。以来、太平の世は二百年。かくのごとく正気は、常に伸びるを得てきた。しかし、正気は、その鬱屈するときもあったが、赤穂義士の四十七人を生み出す。すなわち、当時を知る人々が亡くなっても、英霊たちが滅んだことは、いまだかつてない。正気、とこしえに天地の間にあって、りりしく普遍の道を現し続ける。かくのごとき正気を、だれが助けて伸ばせるだろうか。人為でできることではない。抜きん出て立つ東海の日本の浜辺、忠誠つくして皇室を尊び、両親を敬うがごとくに、天津神につかえまつる。学問を修め、さらに武道をきわめ、誓って異国のけがれを払わんと欲す。ある日、時運、困難となり、水戸藩主・徳川斉昭の身は隠居謹慎を命ぜられて表より消え、幕府は時機を見るに頑迷にして愚鈍。藩主の冤罪は、一人残された腹心・東湖に及んで蟄居幽閉の身となった。東湖、蔦葛(つたかずら)のつるにからまれたごとく苦しみ身動きが取れない。藩主の冤罪、誰に向かって陳述できようか。わが身は、江戸の水戸藩下屋敷にあり、先祖の墓のある郷里からも遠ざかっている。どうやって亡父亡母のご恩に報いることができようか。いつしか二年の時が過ぎ、幽閉の身に、ただこの正気のみが満ちている。ああ、わが身は、たとえ死を免れぬとしても、どうして正気よ、おまえと離れることを忍べようか。わが命の絶えるも伸びるも天地の神におまかせする。生きようと死のうと、疑うことなどできようか。生きるならば、まさに主君の冤罪を晴らし、主君のふたたび表舞台で国の秩序を伸張する姿を見るにちがいない。死しては、忠義の鬼と化し、天地のある限り、天皇の御統治をお護り申し上げよう。

 

 

伊勢参り

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江戸時代の中期以降の庶民の楽しみの一つに、旅行がありました。しかし、当時はただの観光目的の旅には許可が下りなかったために、あくまでも表向きは寺社への参拝ということになっていました。

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その中でも特に人気だったのが、伊勢参りです。火付け役となったのは、十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」だといわれています。弥次さんと喜多さんが、厄落としのために江戸から伊勢神宮に向かう様子を、面白おかしく書いた書物です。

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江戸時代の人が伊勢参りをするには、移動だけで往復25日前後の日数がかかったようです。
 大井川の川止めや伊勢での滞在日数を考慮して、1ヶ月程度の日程計画でした。江戸から伊勢神宮までの距離は126里ですから、往復で252里ということになります。1里は4kmですから、252里というと1,008kmということになります。
もちろん、当時は現代のような乗り物などありませんから、すべて徒歩です。約1,000kmの距離を約25日間で歩き切ったということですから、1日あたり40kmを歩いたわけです。マラソンランナーが走る距離とほぼ同じ距離を、毎日歩き続けるわけです。 現代人であれば、おそらく初日でギブアップしかねない距離です。それを25日間ずっと歩き続けるわけですから、江戸時代の人の脚力には、あらためて驚かされます。

 

伊勢参りの費用はおよそ大工さんの給料1か月分だったそうです。

 

江戸時代の旅というのは、基本的に自分の足でひたすら歩くことになるわけですから、現代の旅行のように乗り物代はかかりません。しかし、宿泊したり食べたりする分のお金はかかります。現代であれば新幹線を使って、東京から伊勢神宮の参拝を日帰りで済ませることも可能ですが、当時の伊勢参りは1ヵ月近くの長旅だったわけです。乗り物代がかからない分、旅の途中における1ヵ月分の宿泊費と飲食代は、かなりの金額になったに違いありません。平均的な伊勢参りの場合で、1日あたり1万円程度かかったといわれていますので、トータルで30万円程度かかったことになります。現代ならば、ちょっとした海外旅行に行けるほどのお金が、伊勢参りには必要だったわけです。

 

30万円というと、当時の大工さんの給料がその程度であったといわれています。つまり、伊勢参りには大工さんの給料1ヵ月分程度の費用がかかったわけです。

 

江戸時代の人が伊勢参りに行くと、およそ当時の大工さんの1ヵ月分の給料程度の旅費がかかるということですが、一生に一度の楽しみとはいえ、旅行にそれだけのお金を使うことができた江戸時代の人は、けっこうな蓄えを持っていたように感じるかも知れません。しかし、江戸の庶民たちの暮らしは、それほど余裕のあるものではなく、実際にはほとんど蓄えなどありませんでした。


 「江戸っ子は宵越しの金は持たない」といわれますが、貯蓄をするという習慣があまりなかったようです。江戸の町は非常に火事が多かったので、せっかくため込んだ金を灰にしてしまうのもバカらしいので、いまあるお金は全部使ってしまった方がいいという考え方が定着していたのでしょう。

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それでは、伊勢参りにいくお金はどこから捻出したのでしょうか?実は、伊勢講と呼ばれる仲間内で作る組織があって、そのグループで伊勢参りのための旅費を積み立てていたのです。会社でいうと厚生会みたいな感じでしょうか。。


そして、積み立てた旅費を使って、代表者が持ち回りで伊勢参りをすることになっていました。実際に自分に順番が回ってくるまでには何十年もかかることがあるため、伊勢参りは一生に一度の楽しみということになっていたわけです。

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 伊勢の帰りには善光寺に寄ることも多かったようです。伊勢参りは一生に一度の楽しみではありますが、伊勢神宮に参拝しただけでとんぼ返りをしてしまったのでは、もったいないと考える人も少なくなかったようです。そのため、伊勢神宮に向かうときには東海道を歩いていきますが、帰りは中山道を通って、信州にある善光寺に寄ってから江戸に戻るのが一般的だったようです。江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」などと言われましたが、実は伊勢参り善光寺参りを同時に行われることが多かったようです。金銭的な負担を考えたら、一度に回ってしまった方が合理的だと考えたわけです。江戸時代には観光目的の旅行は許可されなくても、こうした寺社参拝が目的という大義名分があれば、複数の神社やお寺を回って旅をすることができたわけです。

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 泊まる場所には木賃宿と旅籠の2種類がありました。伊勢参りは約1ヵ月にわたる長旅となります。旅にかかる費用のなかでも、宿泊のためのお金が一番のウエイトをしめます。当時の宿屋には2種類あって、節約派に好まれた木賃宿(きちんやど)と、お金に余裕がある人が泊まる旅籠(はたご)です。

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木賃宿というのは、ほとんど素泊まりのようなもので、食事に関しては自分で自炊をしなければなりませんでした。飯を炊くための薪代を支払うという意味で、木賃宿と呼ばれるわけです。一泊あたり40文程度で泊まれたといいますから、現代の貨幣価値になおしますと、800円程度でしょうか。しかし、さすがに長旅をするにあたって、自炊のために重い米を持ち歩くのは不便だということで、のちに薪だけではなく米も提供してくれる木賃宿も出現するようになりました。

それに対して旅籠というのは、食事付きですから自炊をする必要はありません。旅人にしてみれば寝床と食事の心配をすることがないので大変便利ですが、その代わり木賃宿にくらべて料金も大幅アップになります。東海道沿いの旅籠であれば、2食付きで200文~300文といったあたりが相場だったようです。現代の貨幣価値になおすと、4,000円~6,000円といったところです。旅籠は相部屋が基本でしたから、2食付とはいえ料金的にはかなり割高感があります。

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中山道沿いだともう少し安く、150文~250文(3,000円~5,000円)だったようです。食事付きといっても、現在の旅館やホテルのように豪勢なものが出るわけではなく、どこの旅籠も1汁3菜が基本だったようです。1汁3菜というのは、ごはんとみそ汁とお新香、そこに魚料理と野菜の煮物が少々といった程度です。泊まるところは宿場町にしかありませんでした現代であれば、全国各地どこでも宿泊場所をみつけることは出来るでしょう。しかし、江戸時代には木賃宿や旅籠がある場所は、あらかじめ決められていました。それが街道沿いにある宿場町と呼ばれる場所です。

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東海道にはこの宿場町が53ヵ所あるため「東海道五十三次」などと呼ばれたりするわけです。東海道の宿場町間の距離で一番長いところは、大磯から小田原までで17.3kmありました。一番短いところは御油から赤坂までで、その距離はわずかに2.1kmでした。江戸時代の人たちは1日に40km程度歩くことができましたから、日が暮れるまでには必ずどこかの宿場町にはたどり着くことができたわけです。


1日に40kmも歩いて疲れ果てている夕暮れ時に、宿場町の薄明りを見つけた伊勢参りの旅人たちは、さぞかしほっとした気分になったことでしょう。

引用元:江戸時代インフォメーション

「ならぬものはならぬ」会津藩白虎隊

慶応四年(1868年)、旧幕府軍佐幕派会津藩新選組、他)と、官軍(勤皇派=長州藩薩摩藩、他)の戦いの火蓋が切って落とされた。“戊辰戦争”の始まったのである。鳥羽・伏見での戦いは、旧幕府軍の敗戦で終わった。この勝利を見逃さまいと官軍は兵を北へと進めて行った。旧幕府軍も負けじと抗戦、日本各地で激戦が広げられた。

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官軍は、いよいよ奥州(東北地方)へと歩を進めた。

奥州の玄関口・白河の関を越えついに官軍は会津へ足を踏み入れた。
会津藩は徳川家と深い縁を持つ。当然の如く、旧幕府軍として戊辰戦争に加わることになった。鳥羽・伏見での敗戦を受けて、会津藩は総力をあげて臨戦状態を整えていた。

兵制の大改革も行い年齢別の正規軍四隊(約3000人)を作った。

 

白虎隊=16歳~17歳  
朱雀隊=18歳~35歳  
青龍隊=36歳~49歳  
玄武隊=50歳以上

 

上記の隊士はもちろん男子であるが、この他にも多くの部隊が作りその中には女性だけで結成された娘子(じょうし)隊もあった。

 

会津戦争では、武士も市民も老若男女問わず、会津に生きるすべての人々が戦いに身を投じた。

 

四隊の中で最も若い白虎隊は、総勢343名であった。

その中から身分順に

士中 一番隊 、士中 二番隊

寄合 一番隊 、寄合 二番隊

そして足軽隊の5つに分けた。

この中の士中二番隊42名のうちの20名が現在に語り継がれることになる。


戦いは昼夜を問わず続いた。そんな戦地で白虎隊士中二番隊30数名は、息を殺すようにひっそりと隠れていた。夜になり、隊を率いていた隊長・日向内記が食料調達のため、少年達の側を離れることになった。

 

それが少年達の運命を大きく変える事になった。

その夜は雨だった。その雨のためか、すぐ戻ると言った隊長は戻らず、不安にかられる少年達の前には不運にも敵が現れた。

隊長を欠いていた状況で少年達は自らの決断を下さねばならない。


少年達は迷わず勇よく一直線に敵へ向かっていくが、敵の近代的な兵器の前には成す術なく、その幼い命を散らしていったのである。

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やがて気がつくと、隊士は20名ほどに減っていた。

 

20名の少年達は、命からがら難を逃れ、飯盛山に辿り着く。。。。。

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そこから会津の町を見下ろし

少年達の目に飛び込んできたのは

 

会津鶴ヶ城炎上の地獄絵図だった。。。

 

「おお城が燃えている。。。」

 

会津の勝利を信じ、戦い、負ける事を疑わなかった少年達は、崩れるように地に膝をつき、頭を垂れ、絶望に打ちひしがれた。

 

その真っ直ぐで純粋な瞳からは、涙が止めどなく流れた。

 

城が落ちた今、殿様も生きてないだろう。。

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会津藩士として、少年達も藩主と運命を共にすることを誓い、剣を自らに向けた。

 

ある者は腹を切り、ある者は喉を突き、そしてある者たちは互いに刺し違えて、自らの命を絶ったのである。

 

彼らが儚い命を散らせる中、鶴ヶ城では激しい戦いが続いていた。

まだ城は落ちていなかったのである。

少年達が見た炎は、城下町に放たれたものであった。それを少年達は城が落ちたのだと勘違い
してしまったのである。

 

あの時、隊長とはぐれたのが運命の分かれ目
だったのだ。

正確な情報を得られなかったのが不運だっただけなのである。

 

自刃、それは子ども故の純粋すぎる決断だった。。。

 

会津には、会津藩校日新館という学校があり、会津藩士の精神がそこで鍛えられてきた。

 

10歳~12歳で入学し、読み書きに併せて武士道教育も行われた。白虎隊の少年達もその日新館で学んだのである。

 

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

人を愛して我が身を愛さず、あるいは君を諌め、あるいは国家の大事をはかり、たとえ、その事なしおおせがたく、たちまち危険身に迫るとも、死をかえりみず、身を殺して、仁をなさん事を思うべし。

生をむさぼり来りて、なすべき義に当たっても、身を愛し、家を願いて、その事なさざるは、不忠不幸のいたりなり。
🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹                   

少年達は日常からこの言葉を唱和しながら育っていったのである。

 

「我が身を犠牲にしても、人のために尽くせ」


そんな博愛の心を持ち続け、その通りに散っていったのだ。

 

今、白虎隊士20名は、終焉の地となった飯盛山に静かに眠っています。


白虎隊が後世へと語り継がれたのは、隊士20名のうち、たった一人だけ自刃後に蘇生した隊士がいたからでした。その隊士によって、白虎隊の悲劇は語り継がれました。

 

会津藩には、【ならぬことはならぬ】という教えがあったそうです。


その教えは今もなお会津の地に福島の地に、深く深く息づいているという事です。


「ならぬことはならぬ」

自分が信じた道に命をもかける会津藩の精神と白虎隊の話しでした。

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―おわり―

 

 

不死身の分隊長 「船坂 弘」

 玉砕島から生還した最強の日本兵

200人もの敵兵を倒し瀕死の重症から生還。

 不死身の分隊長と呼ばれた伝説の日本兵、船坂 弘を紹介します。

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「不死身の分隊長」と称えられ、敵軍であるアメリカ兵からも絶賛された舩坂弘は1920年、農家の三男として栃木県に生まれる。幼い頃からやんちゃで近所のガキ大将だった。文武両道、まさに豪傑の二文字がふさわしい性格だったという。軍人としても非常に優れ、「特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道六段教士、居合道錬士、銃剣道錬士」など、幅広い武道に精通していた。そんな彼の伝説は、1944年3月に始まる。

 B29による爆撃が始まり、敗戦の色が徐々に濃くなったこの頃、舩坂は弱冠23歳にしてパラオ諸島アンガウル島に、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として着任したのだった。

 米軍の狙いはアンガウル島を占領し、本土攻撃のための飛行場を作ることであった。当時この島を守っていた日本軍の数はわずか1,400名ほどなのに対し、敵軍の精鋭部隊はその数なんと2万2,000名。およそ日本兵の10倍の数である。

 しかも、米軍の精鋭部隊はハワイで特別上陸訓練を受けた、別名「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持つほど強力な第81歩兵師団及び、米軍第38機動部隊、内訳にして航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦10数隻、駆逐艦35隻という大部隊であった。まともに戦っても勝ち目があるはずもなく、日本軍は海岸に砲列や鉄条網を敷き、敵軍の上陸に合わせ水際作戦を展開するも、どう見ても負け戦であった。

 ところが舩坂は違った。米軍の猛攻によって味方が次々と倒れて行く中、擲弾筒(グレネードランチャー)を筒身が真赤になるまで撃ち続け、米軍の足止めに成功。残存兵力を島の北西の洞窟に集結させ、ゲリラ戦に持ち込むことになる。島の形が変わるほどの激しい艦砲射撃の中、舩坂1人で200人以上の米兵を殺傷したという。

 しかし3日後、米軍の猛攻によって敵陣のど真ん中で、左大腿部に砲撃を受け、瀕死の重傷を負うのである。これでは、さすがに日本軍も助けに行くことはできない。舩坂が米軍の銃火の中にさらされること数時間、ようやく来た軍医は負傷した舩坂を一目見るなり、「手の施しようがない」として自決用の手榴弾を渡してその場を去ってしまったのであった。

 軍医も匙を投げるほどの重傷を負ってもなお、屈しようとしない舩坂。負傷した足を包帯代わりの日章旗で縛り、なにくそと夜通し這うことで洞窟の味方陣地に帰り着く。そして、翌日には左足を引きずりながらも歩けるまでに回復していたという。砲弾によって負傷し、なおかつ物資のない状況である。舩坂は戦後「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べているが、一体どんな体をしていたのか筆者には想像もつかない。

 絶望的境地に陥ってもあきらめず、突撃していくのである。自著『英霊の絶叫 ― 玉砕島アンガウル戦記』によれば「絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を 1度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。 実際、その姿を見た部隊員たちから、『不死身の分隊長』『鬼の分隊長』と形容する声が聞かれるほどであった」と回顧している。

 いくら不死身の分隊長とはいえ、補給も食料もない状態で満足な治療を受けられず、傷は化膿し、大量の蛆が湧いた。鬼の舩坂は、伝えられるところによると、近くで死んでいた仲間が身につけていた銃弾を化膿した部分に埋め、自ら点火させ炎症が広がるのを防いだという。

 長期に及ぶゲリラ戦も虚しく、圧倒的な戦力の差に、徐々に日本軍は追い込まれていった。味方陣地である洞窟内は、自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声が響きわたり、生き地獄の様相を呈していた。舩坂も敵の銃弾が腹部を貫通し、もはや這うことしかできなくなった。いったんは引いても容赦なく湧いてくる蛆に、とうとう「蛆に食われて死ぬくらいなら、もはやこれまで」と、自決を決意するのであった。

 この時舩坂は極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。まさに死と隣り合わせの状態である。自決用の手榴弾を置いて、舩坂は遺書を書くのであった。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近づけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。天命を待たず、敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。思い残すことはありません。 陸軍軍曹 舩坂弘」

 ところが手榴弾のピンをはずすも不発。

 「なぜ死ねないのか、まだ死なせてもらえないのか!!」と、死ねなかったことに絶望にした舩坂は、「一矢報いてやる!」と米軍司令部に単身乗り込むことを決意する。

 この時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢約1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。もはや1万人対1人の肉弾自爆である。瀕死の状態にもかかわらず、手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って3日間寝ずに這い続け、前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点まで潜入していた。

 この時、舩坂が受けた負傷は戦闘初日から数えて大小24カ所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2カ所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5カ所、さらに右肩捻挫、右足首脱臼といった大ケガを負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20カ所に食い込んだ砲弾の破片によって本来なら動くこともままならない状態であった。

 米軍ジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て、右手に安全栓を抜いた手榴弾を握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、茂みから立ち上がった。幽鬼かゾンビのようないでたちに、米兵たちも目を疑うほどであったという。
 茂みから出てきた舩坂は米兵によって、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。すでに伝説となっていた舩坂に対し、米軍軍医は、無駄だと思いつつも野戦病院に運び、死体安置所に置いた。この時、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の野次馬に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語った。

 ところがである。3日ほどして、舩坂は死体安置所にて息を吹き返し、むっくりと起き上がったのである。これには監視の米兵も恐怖に凍りついたという。もはや敵ながら米軍も舩坂に対し、敬意さえ払うのであった。

 その後、米軍の治療を受けて歩けるまで回復すると、重傷者の病棟の警備が甘いのをいいことに、看守の目を盗んで脱走してしまうのである。そして戦場に散乱する日本兵の遺体から火薬だけ抜き取り、1キロも離れた米軍弾薬庫まで匍匐前進し、爆破してしまうのである。爆破後は来た道を戻り、翌朝の自軍の点呼に何食わぬ顔で参加している。もうここまでくると、舩坂は本当に人間なのか疑わしいほどだ。

 その後、舩坂は再び捕まり、捕虜になる。そして、ペリリュー島捕虜収容所を去り、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に日本に帰国した。

 故郷である栃木の実家では、45年12月に舩坂の戦死公報が届けられていたため、誰もが戦死したものと思っていた。ボロボロの軍衣で帰還した実家で、ご先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、そこに真新しい位牌があって、「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていたという。村の人々も、帰ってきた傷だらけの舩坂を見て、これは幽霊に違いないとしばらく噂した。

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その後舩坂は、戦争での強烈な体験から、自分の目で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかと考え、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開くのであった。これが、渋谷に来たら誰でも目にする「大盛堂書店」に発展するのである。舩坂は書店経営の傍ら、『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記』『血風 二百三高地』『ペリリュー島 玉砕戦』『サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦』『硫黄島 ― ああ!栗林兵団』『殉国の炎』『聖書と刀 ― 太平洋の友情』『関ノ孫六三島由紀夫その死の秘密』などの本を出版。剣道を通じて親交があった三島由紀夫が帯を書いたものもあった。ちなみに本の印税は「世界中の人々に役立ててほしい」と、全額国際赤十字社に寄付したという。f:id:Japan-shinto-makoto:20170422204337j:image

参照TOCANA

九州「有明海 」の特産種

日本国内での記録が有明海だけに限られる種を「有明海特産種」と呼び、有明海以外ではごく限られた海域にしか生息しない種を「有明海準特産種」と呼びます。

 

海水と淡水が混じり合う汽水域にすむ生き物も含まれますが、多くは泥干潟に住んでいるか、泥干潟の豊富な生き物を餌にしている生き物たちです。

そんな生き物たちを

下記画像にて紹介いたします。

🔹🔸🔹🔸🔹記🔹🔸🔹🔸🔹

ムツゴロウ

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⋆⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝ピョンピョン

ワラスボ

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(Γ °Д°)Γガオー

エツ

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⊙ ⊙

ハゼクチ

f:id:Japan-shinto-makoto:20170310212115j:image

( ´෴` )

シオマネキ

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( Ö )/

アゲマキ

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⍤⃝︎

ウミタケ

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(‐д`‐ll)

 

これほど大量の特産種、準特産種がいる海は他にありません。

 

 九州、有明海の特産種でした。

 

 

 

 

日本人の精神性

戦前の日本は現在の都市部の生活からは想像出来ないほど、共同体意識が強かった。

  引越しなどの移動が現在ほど多くなかった戦前の日本は、代々その土地に住み、血縁地縁で深く結びついた社会だった。誰もが郷土に対する強い意識をもち、国際的にもトップクラスの教育によって、これまで先人が築いてきた日本の歴史を知ったいた。最も近親である父母妻子、それを拡大した郷土、さらには郷土を内包する国、これらすべてを象徴する天皇

  彼ら戦前の日本人に共通してみられるのは、この家族同様に国を認識する高い公共性と、先人から受け継いできた日本を次世代へと受け継いだ使命感だ。

  今を生きる私達はこの精神性を受け継がねばならぬ。この精神性を見失えば2500年以上も続いた国の根幹が揺らぐ。

  精神性を受け継ぐ為には真実を学び日本の日本人の道を知り歩まねばならない。

  先の大戦で我が国は初めて戦争に負け、強すぎたためにGHQより自虐史観とプロパガンダを植え付けられた。ただ、我が日本国民には、それを撥ねつける潜在能力が備わっている。

  今はネットの時代だ。マスメディアが流す情報で腑に落ちぬ事があれば調べる事ができる。

 

日本人の精神性を理解できれば日本国は永遠に続くと確信する。