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高天原3丁目

「日本人の気概」をテーマにしました。日本人の心を子供達に伝える事は今を生きる僕たちの使命だと考えます。コピペ非常に多いです。😆ご了承下さいませ。

伊勢参り

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江戸時代の中期以降の庶民の楽しみの一つに、旅行がありました。しかし、当時はただの観光目的の旅には許可が下りなかったために、あくまでも表向きは寺社への参拝ということになっていました。

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その中でも特に人気だったのが、伊勢参りです。火付け役となったのは、十返舎一九の書いた「東海道中膝栗毛」だといわれています。弥次さんと喜多さんが、厄落としのために江戸から伊勢神宮に向かう様子を、面白おかしく書いた書物です。

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江戸時代の人が伊勢参りをするには、移動だけで往復25日前後の日数がかかったようです。
 大井川の川止めや伊勢での滞在日数を考慮して、1ヶ月程度の日程計画でした。江戸から伊勢神宮までの距離は126里ですから、往復で252里ということになります。1里は4kmですから、252里というと1,008kmということになります。
もちろん、当時は現代のような乗り物などありませんから、すべて徒歩です。約1,000kmの距離を約25日間で歩き切ったということですから、1日あたり40kmを歩いたわけです。マラソンランナーが走る距離とほぼ同じ距離を、毎日歩き続けるわけです。 現代人であれば、おそらく初日でギブアップしかねない距離です。それを25日間ずっと歩き続けるわけですから、江戸時代の人の脚力には、あらためて驚かされます。

 

伊勢参りの費用はおよそ大工さんの給料1か月分だったそうです。

 

江戸時代の旅というのは、基本的に自分の足でひたすら歩くことになるわけですから、現代の旅行のように乗り物代はかかりません。しかし、宿泊したり食べたりする分のお金はかかります。現代であれば新幹線を使って、東京から伊勢神宮の参拝を日帰りで済ませることも可能ですが、当時の伊勢参りは1ヵ月近くの長旅だったわけです。乗り物代がかからない分、旅の途中における1ヵ月分の宿泊費と飲食代は、かなりの金額になったに違いありません。平均的な伊勢参りの場合で、1日あたり1万円程度かかったといわれていますので、トータルで30万円程度かかったことになります。現代ならば、ちょっとした海外旅行に行けるほどのお金が、伊勢参りには必要だったわけです。

 

30万円というと、当時の大工さんの給料がその程度であったといわれています。つまり、伊勢参りには大工さんの給料1ヵ月分程度の費用がかかったわけです。

 

江戸時代の人が伊勢参りに行くと、およそ当時の大工さんの1ヵ月分の給料程度の旅費がかかるということですが、一生に一度の楽しみとはいえ、旅行にそれだけのお金を使うことができた江戸時代の人は、けっこうな蓄えを持っていたように感じるかも知れません。しかし、江戸の庶民たちの暮らしは、それほど余裕のあるものではなく、実際にはほとんど蓄えなどありませんでした。


 「江戸っ子は宵越しの金は持たない」といわれますが、貯蓄をするという習慣があまりなかったようです。江戸の町は非常に火事が多かったので、せっかくため込んだ金を灰にしてしまうのもバカらしいので、いまあるお金は全部使ってしまった方がいいという考え方が定着していたのでしょう。

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それでは、伊勢参りにいくお金はどこから捻出したのでしょうか?実は、伊勢講と呼ばれる仲間内で作る組織があって、そのグループで伊勢参りのための旅費を積み立てていたのです。会社でいうと厚生会みたいな感じでしょうか。。


そして、積み立てた旅費を使って、代表者が持ち回りで伊勢参りをすることになっていました。実際に自分に順番が回ってくるまでには何十年もかかることがあるため、伊勢参りは一生に一度の楽しみということになっていたわけです。

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 伊勢の帰りには善光寺に寄ることも多かったようです。伊勢参りは一生に一度の楽しみではありますが、伊勢神宮に参拝しただけでとんぼ返りをしてしまったのでは、もったいないと考える人も少なくなかったようです。そのため、伊勢神宮に向かうときには東海道を歩いていきますが、帰りは中山道を通って、信州にある善光寺に寄ってから江戸に戻るのが一般的だったようです。江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」などと言われましたが、実は伊勢参り善光寺参りを同時に行われることが多かったようです。金銭的な負担を考えたら、一度に回ってしまった方が合理的だと考えたわけです。江戸時代には観光目的の旅行は許可されなくても、こうした寺社参拝が目的という大義名分があれば、複数の神社やお寺を回って旅をすることができたわけです。

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 泊まる場所には木賃宿と旅籠の2種類がありました。伊勢参りは約1ヵ月にわたる長旅となります。旅にかかる費用のなかでも、宿泊のためのお金が一番のウエイトをしめます。当時の宿屋には2種類あって、節約派に好まれた木賃宿(きちんやど)と、お金に余裕がある人が泊まる旅籠(はたご)です。

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木賃宿というのは、ほとんど素泊まりのようなもので、食事に関しては自分で自炊をしなければなりませんでした。飯を炊くための薪代を支払うという意味で、木賃宿と呼ばれるわけです。一泊あたり40文程度で泊まれたといいますから、現代の貨幣価値になおしますと、800円程度でしょうか。しかし、さすがに長旅をするにあたって、自炊のために重い米を持ち歩くのは不便だということで、のちに薪だけではなく米も提供してくれる木賃宿も出現するようになりました。

それに対して旅籠というのは、食事付きですから自炊をする必要はありません。旅人にしてみれば寝床と食事の心配をすることがないので大変便利ですが、その代わり木賃宿にくらべて料金も大幅アップになります。東海道沿いの旅籠であれば、2食付きで200文~300文といったあたりが相場だったようです。現代の貨幣価値になおすと、4,000円~6,000円といったところです。旅籠は相部屋が基本でしたから、2食付とはいえ料金的にはかなり割高感があります。

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中山道沿いだともう少し安く、150文~250文(3,000円~5,000円)だったようです。食事付きといっても、現在の旅館やホテルのように豪勢なものが出るわけではなく、どこの旅籠も1汁3菜が基本だったようです。1汁3菜というのは、ごはんとみそ汁とお新香、そこに魚料理と野菜の煮物が少々といった程度です。泊まるところは宿場町にしかありませんでした現代であれば、全国各地どこでも宿泊場所をみつけることは出来るでしょう。しかし、江戸時代には木賃宿や旅籠がある場所は、あらかじめ決められていました。それが街道沿いにある宿場町と呼ばれる場所です。

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東海道にはこの宿場町が53ヵ所あるため「東海道五十三次」などと呼ばれたりするわけです。東海道の宿場町間の距離で一番長いところは、大磯から小田原までで17.3kmありました。一番短いところは御油から赤坂までで、その距離はわずかに2.1kmでした。江戸時代の人たちは1日に40km程度歩くことができましたから、日が暮れるまでには必ずどこかの宿場町にはたどり着くことができたわけです。


1日に40kmも歩いて疲れ果てている夕暮れ時に、宿場町の薄明りを見つけた伊勢参りの旅人たちは、さぞかしほっとした気分になったことでしょう。

引用元:江戸時代インフォメーション

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「ならぬものはならぬ」会津藩白虎隊

慶応四年(1868年)、旧幕府軍佐幕派会津藩新選組、他)と、官軍(勤皇派=長州藩薩摩藩、他)の戦いの火蓋が切って落とされた。“戊辰戦争”の始まったのである。鳥羽・伏見での戦いは、旧幕府軍の敗戦で終わった。この勝利を見逃さまいと官軍は兵を北へと進めて行った。旧幕府軍も負けじと抗戦、日本各地で激戦が広げられた。

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官軍は、いよいよ奥州(東北地方)へと歩を進めた。

奥州の玄関口・白河の関を越えついに官軍は会津へ足を踏み入れた。
会津藩は徳川家と深い縁を持つ。当然の如く、旧幕府軍として戊辰戦争に加わることになった。鳥羽・伏見での敗戦を受けて、会津藩は総力をあげて臨戦状態を整えていた。

兵制の大改革も行い年齢別の正規軍四隊(約3000人)を作った。

 

白虎隊=16歳~17歳  
朱雀隊=18歳~35歳  
青龍隊=36歳~49歳  
玄武隊=50歳以上

 

上記の隊士はもちろん男子であるが、この他にも多くの部隊が作りその中には女性だけで結成された娘子(じょうし)隊もあった。

 

会津戦争では、武士も市民も老若男女問わず、会津に生きるすべての人々が戦いに身を投じた。

 

四隊の中で最も若い白虎隊は、総勢343名であった。

その中から身分順に

士中 一番隊 、士中 二番隊

寄合 一番隊 、寄合 二番隊

そして足軽隊の5つに分けた。

この中の士中二番隊42名のうちの20名が現在に語り継がれることになる。


戦いは昼夜を問わず続いた。そんな戦地で白虎隊士中二番隊30数名は、息を殺すようにひっそりと隠れていた。夜になり、隊を率いていた隊長・日向内記が食料調達のため、少年達の側を離れることになった。

 

それが少年達の運命を大きく変える事になった。

その夜は雨だった。その雨のためか、すぐ戻ると言った隊長は戻らず、不安にかられる少年達の前には不運にも敵が現れた。

隊長を欠いていた状況で少年達は自らの決断を下さねばならない。


少年達は迷わず勇よく一直線に敵へ向かっていくが、敵の近代的な兵器の前には成す術なく、その幼い命を散らしていったのである。

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やがて気がつくと、隊士は20名ほどに減っていた。

 

20名の少年達は、命からがら難を逃れ、飯盛山に辿り着く。。。。。

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そこから会津の町を見下ろし

少年達の目に飛び込んできたのは

 

会津鶴ヶ城炎上の地獄絵図だった。。。

 

「おお城が燃えている。。。」

 

会津の勝利を信じ、戦い、負ける事を疑わなかった少年達は、崩れるように地に膝をつき、頭を垂れ、絶望に打ちひしがれた。

 

その真っ直ぐで純粋な瞳からは、涙が止めどなく流れた。

 

城が落ちた今、殿様も生きてないだろう。。

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会津藩士として、少年達も藩主と運命を共にすることを誓い、剣を自らに向けた。

 

ある者は腹を切り、ある者は喉を突き、そしてある者たちは互いに刺し違えて、自らの命を絶ったのである。

 

彼らが儚い命を散らせる中、鶴ヶ城では激しい戦いが続いていた。

まだ城は落ちていなかったのである。

少年達が見た炎は、城下町に放たれたものであった。それを少年達は城が落ちたのだと勘違い
してしまったのである。

 

あの時、隊長とはぐれたのが運命の分かれ目
だったのだ。

正確な情報を得られなかったのが不運だっただけなのである。

 

自刃、それは子ども故の純粋すぎる決断だった。。。

 

会津には、会津藩校日新館という学校があり、会津藩士の精神がそこで鍛えられてきた。

 

10歳~12歳で入学し、読み書きに併せて武士道教育も行われた。白虎隊の少年達もその日新館で学んだのである。

 

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

人を愛して我が身を愛さず、あるいは君を諌め、あるいは国家の大事をはかり、たとえ、その事なしおおせがたく、たちまち危険身に迫るとも、死をかえりみず、身を殺して、仁をなさん事を思うべし。

生をむさぼり来りて、なすべき義に当たっても、身を愛し、家を願いて、その事なさざるは、不忠不幸のいたりなり。
🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹                   

少年達は日常からこの言葉を唱和しながら育っていったのである。

 

「我が身を犠牲にしても、人のために尽くせ」


そんな博愛の心を持ち続け、その通りに散っていったのだ。

 

今、白虎隊士20名は、終焉の地となった飯盛山に静かに眠っています。


白虎隊が後世へと語り継がれたのは、隊士20名のうち、たった一人だけ自刃後に蘇生した隊士がいたからでした。その隊士によって、白虎隊の悲劇は語り継がれました。

 

会津藩には、【ならぬことはならぬ】という教えがあったそうです。


その教えは今もなお会津の地に福島の地に、深く深く息づいているという事です。


「ならぬことはならぬ」

自分が信じた道に命をもかける会津藩の精神と白虎隊の話しでした。

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―おわり―

 

 

不死身の分隊長 「船坂 弘」

 玉砕島から生還した最強の日本兵

200人もの敵兵を倒し瀕死の重症から生還。

 不死身の分隊長と呼ばれた伝説の日本兵、船坂 弘を紹介します。

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「不死身の分隊長」と称えられ、敵軍であるアメリカ兵からも絶賛された舩坂弘は1920年、農家の三男として栃木県に生まれる。幼い頃からやんちゃで近所のガキ大将だった。文武両道、まさに豪傑の二文字がふさわしい性格だったという。軍人としても非常に優れ、「特別銃剣術徽章、特別射撃徽章、剣道六段教士、居合道錬士、銃剣道錬士」など、幅広い武道に精通していた。そんな彼の伝説は、1944年3月に始まる。

 B29による爆撃が始まり、敗戦の色が徐々に濃くなったこの頃、舩坂は弱冠23歳にしてパラオ諸島アンガウル島に、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として着任したのだった。

 米軍の狙いはアンガウル島を占領し、本土攻撃のための飛行場を作ることであった。当時この島を守っていた日本軍の数はわずか1,400名ほどなのに対し、敵軍の精鋭部隊はその数なんと2万2,000名。およそ日本兵の10倍の数である。

 しかも、米軍の精鋭部隊はハワイで特別上陸訓練を受けた、別名「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持つほど強力な第81歩兵師団及び、米軍第38機動部隊、内訳にして航空母艦11隻、戦艦2隻、巡洋艦10数隻、駆逐艦35隻という大部隊であった。まともに戦っても勝ち目があるはずもなく、日本軍は海岸に砲列や鉄条網を敷き、敵軍の上陸に合わせ水際作戦を展開するも、どう見ても負け戦であった。

 ところが舩坂は違った。米軍の猛攻によって味方が次々と倒れて行く中、擲弾筒(グレネードランチャー)を筒身が真赤になるまで撃ち続け、米軍の足止めに成功。残存兵力を島の北西の洞窟に集結させ、ゲリラ戦に持ち込むことになる。島の形が変わるほどの激しい艦砲射撃の中、舩坂1人で200人以上の米兵を殺傷したという。

 しかし3日後、米軍の猛攻によって敵陣のど真ん中で、左大腿部に砲撃を受け、瀕死の重傷を負うのである。これでは、さすがに日本軍も助けに行くことはできない。舩坂が米軍の銃火の中にさらされること数時間、ようやく来た軍医は負傷した舩坂を一目見るなり、「手の施しようがない」として自決用の手榴弾を渡してその場を去ってしまったのであった。

 軍医も匙を投げるほどの重傷を負ってもなお、屈しようとしない舩坂。負傷した足を包帯代わりの日章旗で縛り、なにくそと夜通し這うことで洞窟の味方陣地に帰り着く。そして、翌日には左足を引きずりながらも歩けるまでに回復していたという。砲弾によって負傷し、なおかつ物資のない状況である。舩坂は戦後「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と述べているが、一体どんな体をしていたのか筆者には想像もつかない。

 絶望的境地に陥ってもあきらめず、突撃していくのである。自著『英霊の絶叫 ― 玉砕島アンガウル戦記』によれば「絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を 1度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。 実際、その姿を見た部隊員たちから、『不死身の分隊長』『鬼の分隊長』と形容する声が聞かれるほどであった」と回顧している。

 いくら不死身の分隊長とはいえ、補給も食料もない状態で満足な治療を受けられず、傷は化膿し、大量の蛆が湧いた。鬼の舩坂は、伝えられるところによると、近くで死んでいた仲間が身につけていた銃弾を化膿した部分に埋め、自ら点火させ炎症が広がるのを防いだという。

 長期に及ぶゲリラ戦も虚しく、圧倒的な戦力の差に、徐々に日本軍は追い込まれていった。味方陣地である洞窟内は、自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声が響きわたり、生き地獄の様相を呈していた。舩坂も敵の銃弾が腹部を貫通し、もはや這うことしかできなくなった。いったんは引いても容赦なく湧いてくる蛆に、とうとう「蛆に食われて死ぬくらいなら、もはやこれまで」と、自決を決意するのであった。

 この時舩坂は極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。まさに死と隣り合わせの状態である。自決用の手榴弾を置いて、舩坂は遺書を書くのであった。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近づけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。天命を待たず、敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。思い残すことはありません。 陸軍軍曹 舩坂弘」

 ところが手榴弾のピンをはずすも不発。

 「なぜ死ねないのか、まだ死なせてもらえないのか!!」と、死ねなかったことに絶望にした舩坂は、「一矢報いてやる!」と米軍司令部に単身乗り込むことを決意する。

 この時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊や高射機関砲大隊など総勢約1万人が駐屯しており、舩坂はこれら指揮官が指揮所テントに集まる時を狙い、待ち構えていたのである。もはや1万人対1人の肉弾自爆である。瀕死の状態にもかかわらず、手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って3日間寝ずに這い続け、前哨陣地を突破。4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点まで潜入していた。

 この時、舩坂が受けた負傷は戦闘初日から数えて大小24カ所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2カ所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5カ所、さらに右肩捻挫、右足首脱臼といった大ケガを負っていた。また、長い間匍匐(ほふく)していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20カ所に食い込んだ砲弾の破片によって本来なら動くこともままならない状態であった。

 米軍ジープが続々と司令部に乗り付けるのを見て、右手に安全栓を抜いた手榴弾を握り締め、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し、茂みから立ち上がった。幽鬼かゾンビのようないでたちに、米兵たちも目を疑うほどであったという。
 茂みから出てきた舩坂は米兵によって、頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。すでに伝説となっていた舩坂に対し、米軍軍医は、無駄だと思いつつも野戦病院に運び、死体安置所に置いた。この時、軍医は手榴弾と拳銃を握り締めたままの指を一本一本解きほぐしながら、米兵の野次馬に向かって、「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語った。

 ところがである。3日ほどして、舩坂は死体安置所にて息を吹き返し、むっくりと起き上がったのである。これには監視の米兵も恐怖に凍りついたという。もはや敵ながら米軍も舩坂に対し、敬意さえ払うのであった。

 その後、米軍の治療を受けて歩けるまで回復すると、重傷者の病棟の警備が甘いのをいいことに、看守の目を盗んで脱走してしまうのである。そして戦場に散乱する日本兵の遺体から火薬だけ抜き取り、1キロも離れた米軍弾薬庫まで匍匐前進し、爆破してしまうのである。爆破後は来た道を戻り、翌朝の自軍の点呼に何食わぬ顔で参加している。もうここまでくると、舩坂は本当に人間なのか疑わしいほどだ。

 その後、舩坂は再び捕まり、捕虜になる。そして、ペリリュー島捕虜収容所を去り、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に日本に帰国した。

 故郷である栃木の実家では、45年12月に舩坂の戦死公報が届けられていたため、誰もが戦死したものと思っていた。ボロボロの軍衣で帰還した実家で、ご先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、そこに真新しい位牌があって、「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていたという。村の人々も、帰ってきた傷だらけの舩坂を見て、これは幽霊に違いないとしばらく噂した。

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その後舩坂は、戦争での強烈な体験から、自分の目で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかと考え、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開くのであった。これが、渋谷に来たら誰でも目にする「大盛堂書店」に発展するのである。舩坂は書店経営の傍ら、『英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記』『血風 二百三高地』『ペリリュー島 玉砕戦』『サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦』『硫黄島 ― ああ!栗林兵団』『殉国の炎』『聖書と刀 ― 太平洋の友情』『関ノ孫六三島由紀夫その死の秘密』などの本を出版。剣道を通じて親交があった三島由紀夫が帯を書いたものもあった。ちなみに本の印税は「世界中の人々に役立ててほしい」と、全額国際赤十字社に寄付したという。f:id:Japan-shinto-makoto:20170422204337j:image

参照TOCANA

九州「有明海 」の特産種

日本国内での記録が有明海だけに限られる種を「有明海特産種」と呼び、有明海以外ではごく限られた海域にしか生息しない種を「有明海準特産種」と呼びます。

 

海水と淡水が混じり合う汽水域にすむ生き物も含まれますが、多くは泥干潟に住んでいるか、泥干潟の豊富な生き物を餌にしている生き物たちです。

そんな生き物たちを

下記画像にて紹介いたします。

🔹🔸🔹🔸🔹記🔹🔸🔹🔸🔹

ムツゴロウ

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⋆⸜(* ॑꒳ ॑* )⸝ピョンピョン

ワラスボ

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(Γ °Д°)Γガオー

エツ

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⊙ ⊙

ハゼクチ

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( ´෴` )

シオマネキ

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( Ö )/

アゲマキ

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⍤⃝︎

ウミタケ

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(‐д`‐ll)

 

これほど大量の特産種、準特産種がいる海は他にありません。

 

 九州、有明海の特産種でした。

 

 

 

 

日本人の精神性

戦前の日本は現在の都市部の生活からは想像出来ないほど、共同体意識が強かった。

  引越しなどの移動が現在ほど多くなかった戦前の日本は、代々その土地に住み、血縁地縁で深く結びついた社会だった。誰もが郷土に対する強い意識をもち、国際的にもトップクラスの教育によって、これまで先人が築いてきた日本の歴史を知ったいた。最も近親である父母妻子、それを拡大した郷土、さらには郷土を内包する国、これらすべてを象徴する天皇

  彼ら戦前の日本人に共通してみられるのは、この家族同様に国を認識する高い公共性と、先人から受け継いできた日本を次世代へと受け継いだ使命感だ。

  今を生きる私達はこの精神性を受け継がねばならぬ。この精神性を見失えば2500年以上も続いた国の根幹が揺らぐ。

  精神性を受け継ぐ為には真実を学び日本の日本人の道を知り歩まねばならない。

  先の大戦で我が国は初めて戦争に負け、強すぎたためにGHQより自虐史観とプロパガンダを植え付けられた。ただ、我が日本国民には、それを撥ねつける潜在能力が備わっている。

  今はネットの時代だ。マスメディアが流す情報で腑に落ちぬ事があれば調べる事ができる。

 

日本人の精神性を理解できれば日本国は永遠に続くと確信する。

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お帰りなさいコンサート

北朝鮮による拉致被害者

横田めぐみさんの同級生の会、代表

池田正樹氏のFacebookを転用します。

当時13歳だった横田めぐみさんは53歳になっています。

横田めぐみさんのご両親にとって、この40年間の年月は如何なるものであったのか。

 

横田 滋さん1932年生まれ

妻、早紀江さん1936年生まれ

 

横田めぐみさんのご両親もご高齢になりました。

今年こそはと願っております。

 

以下から池田正樹氏のFacebook転用です。

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

横田めぐみさんとの再会を誓って同級生たちで毎年、コンサートを開催しています。
今年、下記のように新潟県民会館
『お帰りなさいコンサート』として予約しました。お越し頂けますでしょうか。

■日時
2017年10月8日(日)
13時開場 14時開演
■会場
新潟県民会館小ホール
■金額
前売券 2000円
当日券 2500円
*売上金は会場費等の必要最低限の経費を
除いて横田めぐみ基金として
御両親にお渡しします。
■内容
メッセージ
横田早紀江さん
拉致問題担当大臣
国会議員、知事、市長 等

拉致被害者救出を願う歌

吉田直矢バイオリン演奏

翼をください 同級生たちによる合唱
*拉致される四ヶ月前に
横田さんと合唱した曲

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三島由紀夫が号泣した英霊の遺書

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三島由紀夫は自決に先立つ、一か月前の昭和45年10月広島県江田島にある海上自衛隊第一術科学校の教育参考館を訪れています。

全国から寄せられた戦没者の遺書の中から手に取った一通の遺書を読み終えた三島は声を出して泣いたそうです。

それは昭和20年5月神雷部隊として特攻出撃し、南西諸島方面で散華した古谷眞二少佐の残した遺書でした。

三島由紀夫はこの遺書を読んで

 

「すごい名文だ。命がかかっているのだからかなわない。俺は命をかけて書いていない。」

 

と言って号泣したそうです。

 

命がけのその遺書は戦後日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になる三島由紀夫をもかなわなかったそうです。

 

僕らの父や祖父が守り抜いたもの。。。

 

僕らが今の世に生きている事の意味を考えなければならぬ時だと思います。

 

ではその遺書を下記に紹介します。

 

🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹🔸🔹

 

皇国の一男子として生を享けて以来二十有余年、国を挙げての聖戦に勇躍征く事を得ば男子の本懐、正に之に過ぐるものなし。

ものごころついて以来自分乍ら世才に長ぜりと感じ、幼友矢島君の男々しき武人姿を見るにつけ所詮 身は軍人となれぬとは思ひ諦め居たるも、長じて茲に征途につくを得ば身を鴻毛の軽きにおき勇みて征かんの心激しからざるはなし。


過去二十何年かの間、陰に陽に愛しまれたる御両親の恩、甚だ深くして浅学非才なる小生にしては御礼の言葉も見当らず。その深遠広大なるに対し、深く深く厚く厚く御礼申し上ぐるものなり。


御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を擔はんこと、朝な夕なに神佛に懇願すべくは之親子の情にして当然也。


不肖自分としても亦、身を安んじ健康に留意し、目出度く帰還の後孝養を盡したきは念願なれども蓋し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状にあり。


大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧の憂なく干戈を執らんの覚悟なり。

幸ひ弟妹多く兄としてのつとめを果たせざるを遺憾とは思ひつゝも願はくは之等弟妹に父母の孝養を依頼したき心切なり。


死すること強ち(あながち)忠義とは考へざるも自分は死を賭して征く。必ず死ぬの覚悟で征く。


萬事頼む。
                     眞二


十八年六月十日
箱根小涌谷にてしたゝむ 

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古谷 眞二 少佐(ふるや しんじ)f:id:Japan-shinto-makoto:20161211130757j:image
(経歴)
1922年2月24日 ~1945年5月11日
大日本帝国海軍軍人
1922年2月24日に東京都で生まれる。
慶應義塾大学経済学部に入学するが、大東亜戦争の戦況拡大により、6ヶ月早い1943年9月に繰り上げ卒業となる。


卒業後、海軍航空隊へ志願し、海軍飛行科予備学生(第13期)に合格。一式陸上攻撃隊に搭乗して飛行訓練を受ける。


訓練を受けた後は、1944年10月1日に編成された第721海軍航空隊に配属となり、海軍中尉に任官。


1945年に菊水六号作戦が始まると、第8神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊指揮官として、同年5月11日に鹿屋飛行場から一式陸上攻撃機の派生形である4発陸上攻撃機「連山 (航空機)」に搭乗して南西諸島へ向かう。

 

「最期の血の一滴まで戦うのだ!」

 

と部下に命じ、自らは米国敵艦二艦に特攻・散華、二艦とも撃沈するという多大なる戦功を挙げた。

 

享年23歳。